My Profile2(私のプロフィール2)
昭和43年6月 アメリカ留学より帰国
我々の結婚生活は結婚式も挙げず、ロサンゼルスのアパートの一室でちゃぶ台一つという具合で始まった.帰国した時も無一文だったので、両親が親族に対しての披露パーティーを持ってくれた.
生活のスタートも取り敢えず親の家に入り、就職も父親の紹介で大名古屋ビルの中に事務所を持つ諸戸林業の新事業(?)でBGMテープのリース会社に決まった.
しかしここでの仕事は自分には合わないと思い一週間で止めてしまった.
一週間の体験により自分がやりたいのは貿易業務であることがはっきりした.それからは自分で就職活動を始めた.
先輩のツテ、大学の就職課、職安(今のハローワーク)を通じて十数社を受験した.ところがなぜかすべて不合格になった.
当時、上場企業では中途採用は滅多にしないようだった.中小の貿易会社には、やはり分離独立を恐れたのかわずか2−3人でやっている貿易会社にも断られた.一ヶ月半はまたたく間に経過した.少々焦り気味の時、やっと大阪に本社を置く中堅の貿易会社である南里貿易に内定した.名古屋支社には南山大学の卒業生が十数名いるという会社であった.
ところがこの内定までのわずかな間に、兼房刃物という名前を大学の掲示板で見つけた.兼房という名前は懐かしかった.というのも最初の会社である玉栄貿易の取扱い品目が岐阜県関市の刃物だったのである.しかも関市には藤原兼房という刃物メーカーがあった.兼房という名前から”その会社の名古屋出張所だろう”と思った.それでもいいから試しに覗いて見ようと電話をした.
簡単に略歴を述べて、貿易業務の仕事がないか問うた. これに答えてくれたのがOさんという人であった.この会社の貿易担当者で当時は大手商社の日綿や宮本貿易などを経由して間接貿易を主にやっていた.
後日分かった事だが、Oさんは私より十一歳年上で英語は敵国語という時代のため英語教育はほとんど受けておられない人であった.ところがオーストラリアや南アフリカから直接英文の手紙が入ると直接貿易をやろうと決断された方であった.
Oさんが面接しようというので、名古屋市熱田区六番町へ出かけた.ここで私ははじめて機械刃物という言葉を耳にした.機械に取りつけて使う刃物と言われてもピンと来なかった.
そこで愛知県丹羽郡大口町にある工場を見せて頂いた.ここで私は大きなショックを受けた.関市の打ち刃物とは格段に違うその設備.まず思った事は、この設備なら東南アジアのメーカーがあったとしても追い着くには50年はかかるだろう、であった.
最初に就職した玉栄貿易が扱っていた打ち刃物は、当時既に東南アジアのメーカーの追随を受けて価格競争が始まっていた.でもこの機械刃物なら安全だと思った.
私は兼房訪問の直後に内定の連絡があった南里貿易を辞退して、兼房刃物に就職をお願いした.この判断は5年後に正しかった事が実証された.
昭和48年1ドル360円の固定相場制から変動制に移行するいわゆるドルショックが起こった.
日本ではドルショックの後のオイルショックが発端でトイレットペーパー騒ぎまでが起こった.同じドルで販売したものが1ドル360円から308円、250円、200円とどんどん手取り円貨が減少するので多くの中小貿易会社は死活問題に直面した.先の南里貿易の名古屋支店でも大幅の人員削減を余儀なくされたと聞いた.
入社時に話を戻そう.入社の翌年昭和44年に腕試しに英検一級を受験した.大学時代はとても歯が立たなかった一級である.立たなかったというか問題集を見ても、とても手の届くものではなかったというのが正しい.
その後1年半もの長い間(?)本場アメリカでの留学である.合格して当然というのが渡米前の見方であった.ところがどうだろう.1年以上留学しても当初思っていたペラペラ状態とは程遠い実力である.語学とはそんなに甘いものではなかったのだ.
そこで問題集を買って来て一生懸命勉強した.そのお陰で辛うじて一級に合格した.翌年通訳案内業の試験にも挑戦した.この時も問題集をかなり勉強した.幸いこれも合格する事ができた.ところがその後に挑戦した商業英語のAクラスにはてこずった.5−6回目にやっと合格できた.
総括すると私の英語力は大したことがないのである.とても英語を武器にして商売出来るほどのものではない.語学の才能がない.それ以前に話すことが下手である.劣等感を持っている.
よくあることだが劣等感を持っていることが武器となることがある.私の場合は英会話の才能がない.英会話の才能に恵まれない者がどうしたら人並みに話せるかを長年考えてきた.そしてそれらを今まとめている.それがこのホームページで提唱する『和順英会話』である.これは私同様に英会話にあまり才能を感じていない諸氏には必ず役に立つと思っている.
脱線してしまった.私は英会話のことになるとすぐムキになる.話を戻そう.
私は兼房刃物の貿易係り員としてスタートを切ったが、鳴かず飛ばずの仕事をしていた.
産業貿易会館でアメリカのトーマス・レジスターからアメリカの刃物メーカー100社を選びダイレクトメールを出した.その中の数社と取引が始まったが、先のOさんの見積を待たねばならない.ところが時には問合せのメールが着いてから一ヶ月経過しても回答が出せない.(同氏は休日返上で見積作業をしておられたのだが)
昭和50年そんな私に事件が起こった.父から自宅裏の町工場を潰すから家を建てて欲しいというもの.父の母つまり私の祖母が工場の一角の3畳間でガムを包む内職をしている.彼女の目的は3畳の部屋からではまともな葬儀を出してもらえそうもないから少しでも金を貯えたいということ.息子である父は脳梗塞をわずらいこれから借金をして家を立てることはできない.だから裏の町工場を潰して家を建てろというのである.
当時35坪の家を建てるには1200万円が必要であった.私の給与の240倍である.これは大変なことである.特に上司と考え方の食い違いが大きいので、いつまで勤続できるか自信が持てなかった.そんな状況下での1200万円の借金は事件であった.例によって悩んだ.ところが生来の性格のためか、じっと静かに悩む事は出来なかった.動いた.
夏休みに一週間内観をすることにした.内観とは一口に言えば素人向けの座禅である.その結果駄目と感じたら家はあきらめよう.とにかく内観をやってからだ.
内観の良い所は正座をしなくても良いところであった.安座でよい.然も座布団をかんでも良いというもの.ある意味この安座OKは、ヒザの悪い私に座禅めいたことをチャレンジする気にさせてくれた.
昭和50年の夏休み、奈良県郡山市にある内観研究所を訪れた.内観所では朝6時半から内観を始める.三食の食事も内観の場所に運んでもらえる.内観者は夜9時の消灯までただひたすら内観をすればよい.これを一週間続けるのである.
内観の目的は自己発見である.しかも自分の母に対する自己を発見するのである.@母にしてもらった事、A母にして返した事、B母に迷惑をかけた事の三つを考え続けるのである.
漫然と内観していると眠くなる.だから課題が与えられる.先の三つのテーマを2−3年毎に区切って1−2時間内観するのである.その結果を内観指導者に口頭で報告する.これを幼少の頃から現在まで一回り、二回りとすすめていく.
食事の後などに深く内観をした人の録音テープが流される.立派な人もいれば、ヤクザの親分もいる.だいたい4,5日もして内観が深まってくると、突然生意気な自分を発見する、親不孝な自分を発見する、今まで親孝行のためにやっていたと思っていた事が実は自分の面子のためであった事を発見する.そして何のお返しもしていない自分、にもかかわらず代償を求めない母親に対して感謝の念を深める.親孝行をしたい、社会に貢献したいという感謝報恩の念が沸き起こってくるというもの.
自己革命が起こった内観者の中には先のヤクザの親分、会社の社長さんなどがいる.ヤクザの親分が改心して内観する様は感動ものであった.深い内観をした会社の社長さんは社長につづく社員の内観者のお陰で隆盛を極めたという.また詩人、石川啄木が
”たはむれに / 母を背負ひて / そのあまり
/ 軽きに泣きて / 三歩歩まず” の短歌を作ったのは深い内観のお陰と聞いた.
しかし、誰もが深い内観が出来るというわけではない.私は一週間の内観が終わった時、自分の内観は駄目だと思った.これでは上司との溝は埋まらないと感じた.
しかし夏休み後、出社した私は自分の中に何か違うものを感じた.
以前はその上司に対する言葉遣いにはずいぶん気を使っていた.でも心の中では折角の引合も一ヶ月も待たせては駄目になる.見積の作成方法を変えるべきだ.などと批判していた.そういう気持ちが上司にも伝わり二人の関係は悪化していった.
大した内観は出来なかったものの不思議な感じだった.もう言葉で取り繕う必要は感じなかった.思うがままぶつけられた.それもこれも自分が彼から受けた恩恵、自分が彼にお返したことが何もない事、彼には数限りない迷惑をかけてきた事を再認識できたからだ.彼の良い所を尊敬できたからだ.腹ができたというか.
この人は凄い人だという尊敬の念ができたからだと思う.
でもそういう思いも長続きしなかった.日ごとに薄れていく. きっと前回の内観は基本である母親に対する内観をそこそこにして、性急に上司に対する内観に入ったからだ.内観が深まっていないのに急いだせいだ.もう一度基本からやり直そうと思った.
その後数年の間に二度内観に入った.いずれの場合も母親を徹底的にやってみた.でも記憶力の悪い私には大した内観はできなかった.三回の内観での収穫は自分勝手な見方をしていても、以前より早く見方を変えられるようになった事くらいだ.
それ以来、内観には入っていない.それほど大きな壁にはぶつからなかった.すくなくとも昭和60年の8月までは.