| フリアン |
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革命後国民衛兵に志願し、エジプト遠征で旅団長、ナポレオン帰仏後はアレクサンドリア総督をつとめた。のちアウステルリッツ、ヴァグラム、ライプチヒの各戦役に従軍。 |
| ミロー |
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ワーテルロー会戦に参加したフランスの将軍。伯爵。胸甲騎兵を率い、途中ネイ元帥指揮下で戦う。 |
| ヴァンダム |
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1794年フランドル・オランダ戦線で活躍。ナポレオン旗下においても、アウステルリッツ会戦でスルト元帥指揮下で戦う。 |
| レイニエ |
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1806年、イタリア半島・マイダの戦いで英軍と戦う。 |
| デルロン |
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ワーテルロー会戦に参加した仏の将軍。ネイの指揮下で戦う。 |
| モンブラン |
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伯爵。1808年11月ソモシエラ突破作戦で槍騎兵を率い活躍。 |
| ラメット |
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ラメット三兄弟次弟。伯爵。アメリカ独立戦争で活躍。1789年全国三部会議員に選出。革命時、捕らえられたルイ16世を支持し、「8月10日事件」に抗議して逮捕された。1792年末に逃亡しハンブルクに落ち延びた。1801年に亡命者名簿から削除され、ナポレオンのもとで再び軍務につきスペインなどの征服地総督をつとめた。 |
| モロー |
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ブルターニュ、モルレの出身で、レンヌで法律を学ぶ。革命時は国民軍に入り、1796年ラン・エ・モーゼル方面軍司令官となった。1798年イタリア方面軍司令官に転じ、1799年11月9日のブリュメール18日事件ではナポレオンに荷担した。彼はライン方面軍を指揮して、1800年12月3日にホーエンリンデンで輝かしい勝利を飾った。しかしナポレオンに対抗し得る軍人として王党派に支持され、1804年にカドゥーダルの陰謀に連座して、ナポレオンによって追放、アメリカへ亡命した。
1813年、ナポレオン打倒のためロシア皇帝アレクサンドル1世に使えたが、ドレスデン戦役においてフランス軍の砲弾を受けて、両足切断の重傷を負って陣没した。 |
| デュポン |
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もとオランダの軍人。帝国伯爵。1791年フランス軍に入隊、ベルティエの参謀長としてマレンゴの戦いに参加、帝政下にネイ、ついでベルナドットの下でフリートラントの戦いに従軍。のち半島戦争に参加してポルトガルで負傷、英軍の捕虜となった。のちルイ18世下で国務大臣となる。
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| ドゼー |
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15世紀以来の名門貴族の出身で、革命時は亡命を拒否して王党派としての立場を貫いた。1795年から1796年にかけてライン軍を指揮して名を馳せ、モロー将軍退却後のケール市を死守して勇名をあげた。イタリア遠征でナポレオンと知り合い、エジブト遠征では前衛軍を指揮、ピラミッドの戦いを経て上エジプトを征服したが、その寛容さと公平さからエジプト人に「正義のスルタン」と呼ばれた。マレンゴの戦いでは予備軍を率いてナポレオンの危機を救ったが、自身は戦死した。 |
| ジュノ |
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「暴風軍曹」の異名をもつ、ナポレオン配下の軍人。1793年革命軍入隊、トゥーロンでナポレオンと知り合い、その信頼を受けて秘書兼副官となる。その後急速に昇進し、イタリア、エジプト遠征ではナポレオンの幕僚、師団長、1806年パリ総督、半島戦争ではリスボンを占領し、その功により伯爵、のちアルバンテ公爵の称号を受けた。のちヴィメイロでウェリントンに敗れポルトガルに退去、帰国後精神に異常をきたして自殺。 |
| モーブルグ |
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ラトゥール・モーブルグ。伯爵。貴族議員として全国三部会に出馬した。ラ・ファイエットの親友。1792年の「8月10日事件」後、ラ・ファイエットらとともにベルギーに亡命した。1794年のテルミドール反動で帰国して元老院議員となり、帝政下にナポレオンのもと政治家・軍人として活躍。 |