皇帝ナポレオンの元帥 
                 
三色旗の将兵(1) 三色旗の将兵(2) パリの政治家 ボナパルト家の人々

名前 政治 経済 補給 建設 指揮 歩兵 騎兵 砲兵 備考
ナポレオン
皇帝時代

第一執政時代

司令官時代
B C B A A A C A フランス皇帝 ナポレオン・ボナパルト
 コルシカ島の平民の次男として生まれる。父や兄のジョゼフとともにフランスへ渡って教育を受けた。砲兵士官としてフランス革命に参加し、トゥーロンで功名を立て、パリで王党派を鎮圧。貴族の未亡人マリー・ジョゼフ・ド・ボーアルネと結婚。イタリア遠征を指揮してオーストリアに大勝する。その後、エジプト遠征に失敗して帰国。1799年のブリュメールのクーデタで執政政府を樹立。第一執政となって、マレンゴの戦いでオーストリアに再び勝利。フランス銀行の設立・ナポレオン法典の編纂などの諸改革に成功、終身執政となる。1803年にはアミアン講和条約で一時的にイギリスと講和。1804年、国民投票により皇帝に即位する。
 イギリス・オーストリア・プロイセン・ロシアなどの対仏大同盟の連合軍と、ウルムの戦い・トラファルガーの海戦・アウステルリッツの戦い・イエナの戦い・アウエルシュタットの戦い・アイラウの戦い・フリートランドの戦いなどを連戦して勝利。1807年にはイギリス・スウェーデンを除くヨーロッパを制圧、ティルジット条約でロシアと講和した。イタリア・ドイツ・ポーランドはフランス帝国の属国に、オーストリア・プロイセンは従属的な同盟国となる。1806年に大陸封鎖令を発布。1808年にはスペインブルボン朝の内紛に乗じて兄ジョゼフを王位につけるも、イベリア半島戦争ではゲリラ伏兵に苦戦。1809年のヴァグラムの戦いでは再び離反したオーストリアを三度破り、皇后ジョゼフィーヌを離別して、オーストリア皇女マリー・ルイーズと再婚。やがて大陸封鎖が破綻してフランス産業は苦境に陥る。1812年、ロシア遠征で60万の大軍はロシアの焦土戦術や冬将軍に遭って壊滅。新兵を召集するが、1813年のライプツィヒの戦いでも大敗。1814年には帝国の首都パリが陥落して、やむなく退位。エルバ島に配流される。
 1815年、再起を期して同島を脱出、パリに戻って奇跡の復位を成し遂げるが、ワーテルローの戦いで完敗して百日天下に終わり、再び退位して大西洋の孤島セントヘレナ島に再び流刑となる。
スルト C C B B B A C B ダルマティア公爵 ニコラ・ジャン・スルト。
 1799年マッセナ将軍のもとでチューリヒ会戦に従軍。ナポレオンの主戦役に全て従軍したことで知られ、1801年にジェノヴァを占拠。1804年に元帥に任命され、1807年にダルマティア公爵の称号を受け、旧プロイセン領総督とスペイン遠征軍総司令官を兼ねて、アンダルシアを征服するが、翌年トゥールーズでイギリスのウェリントンに敗れた。王政復古後はルイ18世のもとで陸相となるが、百日天下ではナポレオンに従い、リニー、ワーテルローで戦った。ナポレオン没落によって亡命するが、1820年に帰国して再び元帥となった。
ルフーブル C C B C C B B C ダンツィヒ公爵 フランソワ・ジョゼフ・ルフェーブル。
 製粉業者の子として生まれ、1773年にフランス近衛軍に入隊する。革命戦争に従軍し、フルーリュス、ライン渡河、アルテンキルヘンなどの戦いで数々の戦功をあげた。1796年サンブル・マーズ軍団司令官に昇任、1804年に元帥となった。1807年ダンツィヒで勇戦して、ダンツィヒ公爵の称号を与えられた。その後も半島戦争、オーストリア戦、ロシア遠征にも参加した。第1次王政復古でルイ18世に帰順するが、百日天下ではナポレオンを支持した。
 帝政下の王政貴族たちから下賎の出と嘲笑の的となったが、平民出身の非凡な将軍、その言動の素朴さと性格の高潔さを愛された。
サンシール C B B C C C B D ロラン・ グーヴィオン・サン=シール。
ナポレオン旗下の将軍。防戦に強くドレスデンでの戦いにおいてもその力量を発揮。1812年元帥に叙される。
モルティエ B C C C B B C C トレヴィソ公爵 エドアルド・アドルフェ・カジミエシェ・ジョセフ・モルティエ。
 1789年国民衛兵に志願し、北部方面、ライン方面、スイスへ転戦。のちナポレオンに仕え、1803年にハノーヴァーへ出征して、1804年に元帥となった。1808年から1809年にスペイン遠征に参加して、トレヴィゾ公の称号を受ける。1812年ロシア遠征では、モスクワ総督となった。1813年から1814年、フランス防衛戦に活躍するが、王政復古でルイ18世に帰順した。しかしネイの裁判に関与することを拒否して一時失脚した。百日天下ではルイ18世を国境まで護衛して後、ナポレオンに組する。しかし病を得て、ワーテルロー会戦には参加しなかった。
ダヴー C C B B A A C B エックミュール公爵 ルイ・ニコラ・ダヴー。 
 ナポレオン配下の軍人で第一級といわれる人物。生粋の軍人の家系に生まれ、ナポレオンとは同窓であった。熱烈な共和主義者であったが、その出身が災いして父と同じ連隊に入ったものの一時逮捕、投獄された。のち復帰し、デュムーリエ将軍の謀反を阻止して名を挙げた。
 1798年にはエジプト、イタリアの両遠征軍に加わり、マレンゴの戦いではドゼーの副官として軍功を立てた。1804年皇帝ナポレオンより元帥に叙される。アウステルリッツ、アウエルシュタット、エックミュールで輝かしい勝利をもたらし。1807年にはワルシャワ大公国総督として手腕をふるい、ロシア遠征では第一軍団を指揮した。1813年から1814年にかけてハンブルクを奪回・死守したがナポレオン退位とともに失脚し、ルイ18世からパリ帰還を差し止められた。百日天下では再びナポレオンに仕え、その陸軍大臣となった。ワーテルローの戦いの後ダヴーはルイ18世に帰順したが、公職を剥奪されてパリから追放された。
マクドナルド D C C C C B B C タレントゥム公爵 ジャック・エティエンヌ・ジョゼフ・アレクサンドル・マクドナルド。 
 17世紀にフランスに亡命したスコットランドの貴族の家系の出で、セダン市に生まれた。19歳で入隊し、革命戦争に従軍した。1799年ナポリ方面軍を指揮したが、敗退。統領政府下ドイツ戦線に参加するが、モロー将軍との親交が原因で、1808年まで軍を去る。復帰後ヴァグラムの戦いで大功をあげた。その功により、ナポレオンから元帥、タレントゥム公爵を授けられた。ついでロシア遠征、ライプチヒ会戦に従軍。彼はナポレオンに退位を勧めた元帥だが、フォンテンブローではナポレオンの傍らに付き添った。王政復古でルイ18世に仕え、百日天下では国境までルイ18世を護衛した。のち1830年にはルイ・フィリップ王にも仕えた。
ヴィクトール B B B C C D B C ブリュヌ公爵 クロード・ヴィクトール=ペラン。
 17歳でグルノーブル砲兵隊に入り、革命戦争に従軍した。ヴァンデの反乱を鎮圧し、トゥーロン港奪回の功績で旅団長となる。ついでイタリア遠征に参加し、マレンゴの戦いで活躍した。デンマーク全権大使を務め、ナポレオンからブリュヌ公爵に叙せら、ナポレオンに任命された最初の元帥となった。対外戦争では、ドイツ戦役、スペイン遠征、ロシア遠征に参加した。1814年、諸国民戦争で負傷し、王政復古でルイ18世に帰順した。
ベシェール D C D C D C A C イストリア公爵 ジャン=パプティスト・ベシェール。
 ルイ16世下の正規の近衛隊士官。のち革命戦争に従軍し、イタリア遠征に参加。ナポレオンの親衛隊の前身「行軍先頭隊」の司令官となった。さらにエジプト遠征にも従軍し、のちスペイン戦役、ヴァグラムの戦いで戦功をあげる。ナポレオンより元帥位とイストリア公の称号を受けたが、1813年リュツェンの戦いで砲弾に当たって戦死した。

 彼の「馬の部隊」の猛烈な突撃はロシア軍を震え上がらせた。
モンセイ C C B C C B C C コネグリアーノ公爵 ボン・アドリアン・ジャノー・ド=モンセイ。
 法律家の家に生まれるが軍人を志して、革命戦争に参加する。ピレネー方面軍司令官として連戦。一時王党派との嫌疑を受けるが、イタリア遠征参加後に憲兵隊総監、ついで警察大臣となる。帝政下、スペイン戦の功により元帥とコネリアーノ公爵の称号を受けた。1814年首都防衛に尽力、王政復古後も憲兵隊総監であった。しかしネイに対する軍法会議に出席することを拒絶した。そのため階級と称号を剥奪され、アム要塞に3ヶ月間投獄された。その後軍職に復帰し、1823年にはスペイン遠征に参加、カルターニャ占領の先頭に立った。ルイ・フィリップにも仕えた。
ベルナドット B C B B B B B C ポンテ・コルヴォ公爵 ジャン・バチスト・ジュール・ベルナドット。
 のちスウェーデン国王カール14世。ポーの法律家の子として生まれ、1780年入隊。彼は司法官職を捨て、王立海軍慈業団に勤務したが、革命によって昇進が阻止された。彼はジュールダンのもとで北部軍に、1797年以後はイタリアに派遣され、ナポレオンとともに戦った。1798年ウィーン駐在大使に任ぜられたが、大使館に三色旗を掲げたために激しい反仏騒乱を巻き起こした。パリにもどってから、ナポレオンの許婚であったデジレ・クラリーと結婚。1799年に陸軍大臣に就任した。ブリュメール18日のクーデターでは協力を拒否したが、それでもナポレオンは後に彼を元帥・ポンテ・コルヴォ大公に任じた。1809年までにナポレオンのもとで行われたすべての戦役に参加した。
 1810年にナポレオンの承認の下、スウェーデン国王カール13世の養継子となり、王太子に指名された。1813年に彼は、対仏大同盟側についてナポレオンに対抗した。1814年にはノルウェーをスウェーデンに併合し、1818年にカール14世の名でスウェーデン国王に即位した。

グルーシー B C C C D C B D エマニュエル・ド=グルーシー。
貴族出身の軍人。侯爵。革命戦争に従軍し、サヴォワやヴァンデで戦う。のちナポレオンに仕えて、スペイン、ドイツ、ロシアなどに転戦した。百日天下で元帥となり、ワーテルローの戦いに参加したが、ナポレオン軍勝利の最終局面でプロイセン軍追撃に失敗、結果ウェリントン軍の側面を突く作戦も成らずナポレオン軍は敗北した。1815年亡命し、1819年恩赦によって帰国。ルイ=フィリップ王に仕える。
セリュリエ C C B C B B C C ジャン・マチュー・フィリベールセリュリエ
 貴族の出で革命以前は大佐。恐怖政治期は投獄され、総裁政府期にバラスの後ろ盾で復帰。ナポレオンのイタリア遠征に参加し、モンドヴィ、マントヴァで活躍する。ブリュメール18日事件に荷担し、元老院、500人議会を制圧した。帝政下貴族院議員となり、伯爵に叙され、1809年には元帥に。王政復古でルイ18世に恭順し、王から廃兵院総監の地位を認められた。
ベルティエ C C A B A C D C ヴァグラム公爵 ルイ・アレクサンドル・ド=ベルティエ。
 ヴェルサイユ生まれの貴族。13歳で工兵将校として入隊し、ラ・ファイエットの幕僚としてアメリカ独立戦争に参加した。革命戦争に従軍、ナポレオンのイタリア方面軍司令官時代から参謀長をつとめ、帝政下の陸相として軍制整備に尽力、参謀総長として、特にナポレオン戦争末期の作戦に関与した。元帥とヴァグラム侯を授けられた。ナポレオンに深夜呼び出されても、完璧に服装を整えて現れたという。ナポレオン退位の直前にルイ18世に帰順した。百日天下のとき、ノイローゼによりバイエルンのハンベルク城から転落死した。
オジュロー C D C C B B C C カスティリオーネ公爵 ピエール・フランソワ・シャルル・オジュロー。
 はじめナポリ軍、ついでロシア軍、プロイセン軍に入隊。1792年フランス国民衛兵となり、イタリア遠征に参加して、ナポレオンに見出される。帝政下ではドイツ、スペインに転戦した。彼はブリュメール18日のクーデターには協力しなかったが、ナポレオンは彼を元帥に任命した。が1814年対仏同盟軍に対し戦わずしてリヨンを放棄し、王党派に買収されてブルボン家に寝返った。百日天下では再びナポレオンに味方したが信頼されなかった。王政復古で貴族に列せられる。
マッセナ C C C B C A C C ヴァグラム公爵 アンドレ・マッセナ
 ニース近郊の貧しい家庭に生まれ1792年革命軍に入隊し、トゥーロンの戦いの後、ナポレオン・ボナパルトのもとイタリア戦線で決定的な役割を果たし、1798年にはローマ方面軍を指揮、1799年のチューリヒ会戦で大勝利を収め、「勝利の女神の愛児」と謳われた。
 ブリュメール18日事件以後、イタリア方面軍司令官に任命されて、マレンゴの戦いまでジェノヴァを防衛した。彼は統領政府と帝政下で、ほとんどの作戦に従軍した。1804年元帥に叙せられた。1811年半島戦争で司令官となったが、イギリス軍のウェリントンに敗北した。王政復古ではルイ18世に帰順したが、百日天下でナポレオンに組してパリ防衛司令官となったため、第二次王政復古で追放された。有能だが、略奪行為などが目にあまる人物であったという。
ミュラ C D C D C C A D ベルク公爵 ジョアシャン・ミュラ。
 神学校で学び、聖職者を志すが、性に合わず抜け出して、1789年騎兵隊に志願し、熱烈なジャコバン派となった。1795年ヴァンデミエール13日事件で活躍した。ナポレオンの王党派撃退作戦のために兵営から大砲を奪取した。
 1796年からイタリア戦線・エジプト遠征と転戦し、1799年ブリュメール18日事件では、重要な役割を果たし、帝政下では騎兵部隊を指揮して、すべての戦線で活躍した。ナポレオンの妹カロリーヌと結婚し、1808年にナポリ王位を与えられた。ナポレオン失脚とともに退位余儀なくした。王位を保持するために1813年にオーストリアと交渉していたが、百日天下の際にナポレオン軍につきイタリアの独立を画策して失敗。銃殺された。
ケレルマン C C C D C C B D ヴァルミー公爵 フランソワ・クリストフ・ケレルマン。
 ストラスブール生まれの軍人。デムーリエとともに、ヴァルミーの勝利者として知られる。1793年にアルプス方面軍司令官、ついでイタリア遠征軍司令官を兼ねたが、恐怖政治期に投獄された。1795年に復帰、後任のナポレオンが指揮するイタリア遠征軍が大勝利を収めた後、退役した。ブリュメール18日事件以後、元帥、ヴァルミー公爵に叙された。帝政期には予備軍の司令官をつとめた。王政復古の1814年から没するまで、ルイ18世に仕えた。
マルモン B C B C B B C B ラグサ公爵 オーギュスト・フレデリック・ルイ・マルモン。
 トゥーロンでナポレオンと知り合う。1797年エジプト遠征に参加し、ブリュメール18日事件ではナポレオンを支持した。その後、マレンゴで名を上げ、ラグサ掃討戦の功により、ラグーザ伯に叙された。ダルマチア総督、イタリア総督を歴任し、1809年に元帥となった。ロシア遠征後の1814年、首都防衛戦中に連合国と秘密協定を結び、ナポレオンに退位を勧告した。王政復古後はルイ18世に仕える。
ネイ C C B B B B B C モスクワ公爵 ミシェル・ネイ。
 ロレーヌのザールルイ生まれ。革命の始まる少し前に軍に入る。ウルムやイエナ、フリートラントの戦いに参加したほか、スペインでの戦争にも従事。ロシア遠征時には後衛部隊を指揮した。王政復古後はルイ18世に仕えるが、百日天下ではナポレオンに従い、ワーテルロー会戦で戦った。第二次王政復古で銃殺される。
 彼の名はナポレオンの元帥たちの中で最も勇敢と謳われ、ロシア遠征時において最後まで退却する大陸軍の殿を務めたことや、ワーテルローの戦いにおける騎兵突撃など、「勇者の中の勇者」と呼ばれるに相応しい活躍を見せた。
ランヌ C C B B B B C B モンテベロ公爵 ジャン・ランヌ。
 第一次イタリア遠征の際にボナパルトの部下となって以降、エジプト遠征、第二次イタリア遠征、アウステルリッツ、イエナ、フリートラントなど様々な戦いにおいてナポレオン直属として戦った。大陸軍で最も有能な前衛部隊指揮官とも言われミュラ・ネイと並び賞された。
部下達からも「我等がロラン」と慕われた。
スシェト C B C B C C C C アルブエラ公爵 ルイ・ガブリエル・スシェト
 リヨン生まれ。絹地商であったが、軍に入隊。トゥーロン戦でナポレオンに出会う。帝政下ではアウステルリッツ、イエナ、スペイン戦役に参加。ナポレオンより元帥とアルブエラ公爵の称号を授けられた。後バレンシア総督となる。王政復古後はルイ18世に帰順したが、百日天下ではナポレオンに組した。ワーテルローの戦い後、再びルイ18世に帰順したが許されなかった。
ウディノ C D C B C B C C レッジオ公爵 ニコラ・シャルル・ウディノ。
 フランス革命初期の国境防衛戦に活躍する。1800年には対ジェノヴァ共和国戦に従軍し、帝政下ではアウステルリッツ、フリートラント、ヴァグラムの初会戦に参陣し、1809年に元帥・レッジオ公爵を受ける。ロシア遠征に参加するが、グロース、レーベンスでベルナドットに敗れた。王制復古後はルイ18世に仕える。
ポニアトフスキ B C B D C C B D ジョゼフ・アントワーヌ・ポニアトフスキ
 ポーランド王国最後の国王スタニスワフ・ポニャトフスキの甥。ポーランドの英雄。はじめオーストリア軍。1789年からポーランド祖国に戻り、対ロシア戦の指揮官として奮戦した。敗戦後引退したが、1806年ナポレオンがプロイセンをアウエルシュタットで破るのを見て、祖国を再興してくれると思い、ポーランド軍を率いてナポレオンの指揮下に入る。翌年ワルシャワ大公国建国に協力して、公国の軍司令官となった。1813年ライプチヒ会戦でも劣勢のナポレオンに味方したが、撤退に取り残されて戦死した。


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