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プロヴァンスの小貴族出身で、16歳で入隊しアメリカ独立戦争に従軍。のち東インド会社を設立したが借金滞納のために除隊処分となった。ナポレオンの登用者及び庇護者として知られる彼は、腐敗政治の象徴的人物で、大胆で貪欲、飽くことの無い陰謀家であった。
1792年ヴァール県選出国民公会議員となり、国王ルイ16世の処刑に賛成した。1793年派遣議員として活躍、同年12月トゥーロン港に派遣された際にナポレオン・ボナパルトを登用した。諸党に対して陰謀を企て、テルミドール反動では自ら軍隊を率いてパリ庁舎に向かい、ロベスピエール失脚劇の中心人物となった。テルミドール反動後の1794年12月に治安委員、翌年2月には国民公会議長となる。
ヴァンデミエール13日のクーデターでは、ナポレオンに命じて王党派一斉検挙に決定的役割を果たした。この功績により総裁政府誕生とともに総裁職に選ばれた。1799年からルイ18世の王政復古を目指してブルボン家と交渉を開始したようであるが、ナポレオンの企てた1799年11月9日のブリュメール18日事件でついに失脚した。 |
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ラザール・ニコラ・マルグリート・カルノー。1770年に工兵学校に入学。卒業後アラス駐屯部隊に技術士官として配属された。彼はロザティ学芸協会に入り、ここでロベスピエールと知り合った。革命には同情的立場をとり、1791年弟フューランとともにパ・ド・カレ県選出の立法議会議員となった。ついで1792年に国民公会に選ばれ、国王の死刑に賛成した。
1793年には各地の対軍派遣議員、1793年から1795年まではバレールの推薦で「大公安委員会」に入り、近代的軍隊の創出に尽力して、「勝利の組織者」と呼ばれた。公安委員会では右派に属し、ロベスピエールと対立、1795年6月末の公安委員会席上でこれを独裁者と面詰するが、テルミドール反動では中立した。1795年に国民公会議長、1795年10月31日から1797年9月4日まで総裁政府において総裁職にあり、議長を2回務めたが、1797年9月王党派に接近していたため、フリュクチドール18日のクーデターでジュネーブに亡命した。
1799年12月、ブリュメール18日事件ののち帰国し、ナポレオンのもとで元老院議員、陸相となるが、ナポレオンの終身統領制および帝政に反対して辞職した。しかしナポレオン失脚直前の1814年のアントワープ防衛に活躍し、百日天下では内相となって貴族に列せられたが、王政復古後の1816年、「国王殺し」として国外追放となり、ドイツのマグデブルクで客死した。
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大貴族の長男として生まれるが足が悪く、神学校に学び、1755年に聖職に就いた。若さと才知に恵まれた青年期を送り、パリ社交界の花形となる。1789年オータンの司教となり、三部会に出馬した。革命時、自由主義貴族として活躍。
1789年、彼は財政赤字を解決するために聖職者の財産を国家管理とする提案を採択させた。そのため1791年法王ピウス6世から破門されたが、憲法を支持して率先して司教職を放棄した。革命激動期には国内の政争に巻き込まれることを避け、恐怖政治が終結する1795年まで使節として英・米に滞在し、1797年には総裁政府下で外務大臣に就任した。
1799年のブリュメール18日事件の陰の立役者としてナポレオンを支持、帝政下において外相に再任してナポレオンよりベネヴェント公爵に叙された。しかしその将来に見切りをつけると、ロシア皇帝アレクサンドル1世に接近し、ブルボン王家のルイ18世の王政復古に暗躍した。ルイ18世のもとで三度外相となり、1815年のウィーン会議に出席、列国の利害対立を巧みに利用し、正統主義を唱えて敗戦国フランスの利益を擁護、その戦争責任を回避した。しかし宮廷貴族たちの圧力を受けて外相を辞任。
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| フーシェ |
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「ナポレオンやロベスピエールを恐れさせた男」
「ナポレオンが有した唯一の名大臣」
「サン=クルーの風見」「近代における最も完全なマキャベリスト」
ジョゼフ・フーシェ。ナント市に生まれ、神学校教師となる。アラスの社交クラブでロベスピエールと知り合い、その妹シャルロット・ロベスピエールと婚約した。革命時ナントのジャコバン・クラブに加入し、1792年ナント県から国民公会議員に選ばれ、国王処刑に賛成した。のちヴァンデ、ついでリヨンに派遣され、ここで反革命容疑で約2600人の大量虐殺を行った。またネヴェルで非キリスト教化運動を展開した。そのためロベスピエールから過激なテロリストと非難された。かくしてテルミドール反動に暗躍する。
総裁政府下にミラノ公国の大臣となるが、バブーフの共犯として投獄される。1795年9月に釈放され、チザルピナ共和国とバタヴィア共和国の大使をつとめた。1799年7月20日、バラスに引き立てられて警察大臣となり、パリのジャコバン・クラブを閉鎖、1802年まで在職した。1799年11月、ナポレオンのブリュメール18日事件に荷担してバラスを失脚させた。
1802年元老院議員、1804年から1810年に警察大臣に再任し、今日のフランス警察の基礎を築いた。1810年ローマ総督、ついでイリリア総督に左遷させられると、ナポレオンに反対してブルボン家に近づいた。
百日天下のとき警察大臣に復帰、第2次王政復古の際には臨時政府首班としてルイ18世を出迎えた。ルイ18世治下、4度目の警察大臣として再任したが、1816年「国王殺し」としてついに失脚した。ザクセン、ついでイタリアのトリエステに亡命し、ここで死んだ。 |