| リュシアン |
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ナポレオンの弟。ボナパルト家3男。ブリエンヌ幼年学校を卒業し、1789年以来政治に身を投じ、国民公会に荷担したが、軽率に振舞ったために家族を危険にさらすこととなり、家族とともにコルシカへ逃亡しなくてはならなくなった。
1795年兄ナポレオンの保護で、ライン軍軍事委員となった。1798年にはコルシカ選出の五百人議会議員となり、彼はここで戦争未亡人のために、そして出版の自由のために論じた。
彼はエジプト遠征中の兄のために宣伝し、1799年11月9日のブリュメール18日事件では議長として機敏に振る舞い、これを成功させた。彼はこの功績で一層増長し、内務大臣の職を要求。1803年、アレクサンドリヌ=ド=ブレジャン・ジュベルトと再婚したことはナポレオンの不興を買った。
兄弟は仲たがいして、彼はその大家族とともにローマに移り住んで、ピウス7世からカニノ大公に叙された。彼は1809年に家族とともにアメリカに向かったが、イギリス軍の捕虜となり、1815年までイギリスに留まった。ついでパリに帰り、百日天下のとき、彼は兄と和解した。 |
| ジョゼフ |
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ナポレオンの兄。ボナパルト家長男。法律を学び、作家志望であった。革命に身を投じ、陸軍主計局軍務方勤務となり、1794年にはマルセイユの裕福な貿易商の娘ジュリー・クラリーと結婚した。1801年2月にリュネヴィルで交わされたオーストリアとの和約では、交渉時の立役者の一人であった。のち弟の後押しで、ナポリ王(位1806〜1808)、ついでスペイン王(位1808〜1813)となるが、まったくの「暗君」であった。百日天下では閣議の議長をつとめたが、ワーテルローの敗戦によってアメリカのフィラデルフィアに亡命した。1803年にイギリスにわたり、のちフィレンツェに移って、ここで没した。
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| ルイ |
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ナポレオンの弟。ボナパルト家4男。12歳で兄の連隊に入隊させられ、1794年にナポレオンの部隊の砲兵補佐官、ついで中尉に任命された。兄によってエミリー・ド・ボーアルネとの純愛を引き裂かれたが、ルイはこのことを執拗に恨んだ。ブリュメール18日事件後に准将となり、王党派蜂起を鎮圧したが、フロテ伯とその徒党を裁くことは拒んだ。1802年にオルタンス・ド・ボーアルネと無理やり結婚させられ、フランス同輩公、大元帥、皇帝親衛隊司令官となった彼は、さらに元老院と参事院のメンバーとなった。
1806年にオランダ王になると、突如政務に専念し、兄に反抗してまでも自国民に利益を守ろうとした。そのため廃位され、オランダはフランスに併合された。その後彼はオーストリア、スイスに移り、ついでパリに帰ったが、1814年にローマ、そしてフィレンツェに移った。妻オルタンスとの間に3人の男子をもうけたが、その3番目の子がのちにナポレオン3世となるのである。 |
| ウジェーヌ |
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ウジェーヌ・ド・ボーアルネ。母ジョゼフィーヌがナポレオン・ボナパルトの再婚したので、彼の義理の息子になった。ナポレオンに従い各地を転戦、1805年にイタリア副王となり、父帝を補佐してイタリアを統治した。しかし百日天下ではナポレオンを支持せず、妻アウグスタ(バイエルン王マクシミリアン1世の娘)の縁で連合国軍に参じた。のち妻とともにミュンヘンに引退し、回想録を書く。その血統は、スウェーデン・デンマーク・ベルギーなどの王室に受け継がれている。 |
| ジェローム |
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ナポレオンの末弟。仏の衛星国家ヴェストファーレン王国国王。人望、見識ともに、兄の足下にも及ばない存在であった。青年時代に海軍に入り、兄によってフリゲート艦レペルヴィエ号の艦長にしてもらったが、この艦で渡米した際に、アメリカ人女性エリザベス・パターソンと秘密結婚をして、兄ナポレオンの怒りを買う。1805年に離婚を強要され、翌1806年ライン同盟の下準備として、ヴュルテンベルク王フリードリヒ1世の王女カタリーナと結婚させれ、ヴェストファーレン王に擁立された(位1807〜1813)。祖国解放戦争ではトリエステに避難し、百日天下では兄に従って、ワーテルローで戦った。ナポレオン没落後は義父の保護下にあり、モンフォール伯爵の称号を得た。1847年に帰国し、1848年の革命に際しては、共和国の大統領になれると思っていたが、甥のナポレオン3世に先を越された。のちナポレオン3世から、廃兵院総裁とフランス元帥、首席皇族大公および元老院議長の地位を与えられた。1860年、パリで没す。
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| ジョゼフィーヌ |
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マリー・ジョゼフ・ド・ボーアルネ。ナポレオンの最初の皇后。二子を持つ未亡人でバラスの愛人だったが、その官能的色香にナポレオンは虜となる。彼女の金遣いの荒さに嫌気が差していたバラスはこれを機に縁を切り、またナポレオンの熱心な求婚に折れ1796年3月結婚する。しかし、蜜月は続かず、浮気問題や心のすれ違いがあらわれる。ナポレオンが皇位につくと、不妊を理由に1809年12月離婚する。 |
| マリー・ルイーズ |
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ナポレオンの2人目の皇后。神聖ローマ皇帝フランツ2世の娘であったが、神聖ローマがナポレオンにより解体されると、フランツ2世はオーストリア皇帝(フランツ1世)として娘をナポレオンと政略結婚させた。一方ナポレオンにとっても,今や大陸の覇者として、カール大帝の後継者をもって任じていたから、名門ハプスブルク家との結合は、コルシカの成り上がり者的印象を払拭するためにも必要とされたのである。1809年4月、ルーブル宮殿でヴェルサイユの礼式にならった豪華な式を挙げた。マリー=ルイーズは1811年、男子(ナポレオン2世)を生んだが、ナポレオンのエルバ島配流後、2世とともにオーストリアに帰った。そしてナイペルク伯と再婚したが、伯の死後、今度はボンベル伯と結婚した。なお、2世は21歳で夭逝した。 |