呆冗記 人生に有益なことは何一つ書かず、どーでもいいことばかり書いてあるぺえじ。
作品はどこまで作者のものなのか
さて、ずっと評論(酷評?)してきた『真タイラー』(1巻目 2巻目)であるが、今回を持って終わりとすることにした。何故か? 今回、3巻の『接触編』あとがきにおいて作者が確信犯でやっていることが判明したからである。
作者がそう考えているのなら読者は単に本を置くだけである。
しかし、一時期熱狂的にはまりまくった(アザリンちゃんにはまったとも言える)一読者としては最後に一言申し上げたいと思う。
すなわち、作品はどこまで作者のものなのだろうか? 執筆中は作者のものであることは間違いない。読者はひたすら次巻を待ち望み、またひいきのキャラクターがなんとかなってくれることを希うしかない。
幸いにして私は『銀河英雄伝説』キルヒアイスの死をリアルタイムで経験することはなかったが、ヤン・ウェンリーの死はものの見事にぶち当たった。あの時の衝撃は忘れられない。しかし、執筆時の作品は作者のものである。これは読者にはどうすることも出来ないのだ。いや、池波正太郎氏に言わせると、キャラクターの生き死には作者にすら自由にならないのだそうだ。『鬼平』の密偵である伊左次など作者は殺す気がないのに作品の展開上、『死ななければ嘘になる』状況となって死んでしまったのだそうだ。大作家に異議申し立てをするなど恐れ多いことだが、個人的にはハッピーエンド大好き人間なので。このような展開には異議を申し立てたいところだ。それはさておき、発表までの作品は間違いなく作者だけのものである。
しかし、この世に出た作品は作者だけのものなのだろうか? 作者が生み出したキャラクターには時間とともに読者のイメージが発生する。いくら作者でも時間とともに読者の作り出したイメージをそんなに簡単に変えてしまっていいのだろうか? 植木等のタイラーから堂本某のタイラーへ。無責任男からルーキーへの転回は許されるのであろうか? 作品が作者のものであっても読者はただ悄然としてこの転回を受け入れなければならないのだろうか?
吉岡氏は言う。これらの変換は時代の必然であると。ならば、それが正しいのであるならばこの世に古典など存在しないことになる。『源氏物語』の時代の要求による改変は他の作品によって成されるのであって、『源氏物語』の改変によって成されるべきではないだろう。この考えは間違っているだろうか?
作者の言う『真』が富士見版より高年齢対象の証明だというベッドシーンなどよりも、旧作の深みのあるキャラクターこそ重要ではないのだろうか? ま、作品は作者のものである。私としては本を書棚に戻せばいい。読むべき本はまだたくさんある。
しかし、最近の旧作続編ラッシュは同じような事象は北条司氏の新作『グラス・ハート』にも言える。この、新雑誌掲載の作品は明確に『シティ・ハンター』の続編として意図されている。間違いない。しかしだ、冒頭、読者は唖然とすることになる。
読んでない人のために、そして、幸運にも『グラス・ハート』を手に取ることなく『シティ・ハンター』の余韻を永久に持ち続けることが出来る幸運な人たちのためにあえて唖然の内容は秘すが、少なくとも読者が漠然と考えていた後日談をすべてぶち壊すところからこの作品は始まっている。たとえ、この作品がいかに傑作となろうとその一点で私はこの作品を認めないだろう。
なぜ、かくも旧作のイメージをぶち壊すようなことをするのだろう。
なぜ、完全な新作で新しい世界を作ろうとしないのだろう。吉岡氏、北条氏ほどの方には一から勝負してほしかったと思うのである。色々な事情はあるのだろうが・・・。
『ルーキー艦長ドーモ』で何が悪いのだろうか。(この名前はNHKに悪いと言われるか・・・)(00,5,29)