やっぱり書き換えの罪
と言うわけには行かないので・・・、少し考えてみたいと思う。
ま、後書きにもはっきりあるように対象は新規に『タイラー』を読もうとする人間なのだから、富士見版(以下「旧タイラー」のしかも最初期から付き合っている私など、相手にされていないのは承知の上である。
しかし、逆に言うならば、そんな新規読者を開拓するのなら、きっぱりさっぱり新キャラで始めていただきたかった。そう思う。
確かにキャラクターは作者のものだが、同時に、作品となったものは読者のものでもある。
むろん、多数の人間の手を経て作られるアニメの場合は全く別のものと考える必要がある。だから、私はアニメ版「タイラー」を拒絶するが否定はしない。そんなスタンスで生きてきた。
(しかし時に、アニメ化は逆に原作以上のものになってしまう場合もある。一番最初の『EATMAN』(数字のつかない奴)がそうだろう。あれは、原作が追求しようとしていたストーリーのないハードボイルドを逆に突き詰めてしまった。結果として原作はその方向でそれ以上の展開を作り得ず、ストーリーを重視していくことになる)
しかしだ、同一作者がここまでやっていいのだろうか?
「旧タイラー」の原点は、「『ヤマト』の艦長が植木等」ではなかったのか。決して堂本某ではなかったはずだ。この根底を外して何が「タイラー」だ。そう、私は思う。
タイラーという男。人並みはずれた幸運と、人並みはずれた思考回路。そして人並みはずれた図太さ(偽善もなにもなしの自己保身?)を持っているはずの男だった。
それが「無責任男シリーズ」の植木等氏にオーバーラップするのだ。あの、笑顔の下に一物も荷物も持っていそうな植木等氏に。
しかし、「真タイラー」にいるのは私にとっては単なる顔のいいあんちゃん。タイラーの抜け殻に過ぎない。
やっぱり恐れていたとおり、「ゆうなぎ」はタイラーの策によってによって沈まなかった。敵が勝手に誤認して沈んでいる。ミフネ先輩も不要な善意で命を落とすことになる。
全体的に根底に流れるのは、タイラーは「いいひと」なのだという、諄いほどのストーリー展開である。
結果として、おそらく「ゆうなぎ」の艦長が婚約者だったキム女史の恨みは、誤解と言うことでけりが付くのだろう。しかし、そこには旧作の、実際に「ゆうなぎ」の直前にワープして、連続ワープ。という味方すら陥れた作戦により、「ゆうなぎ」を生贄にしたという正当な恨みを持っていてもなお私淑してしまうタイラーの人間としての大きさは絶対に出てこない。
それどころか、このままではシリーズの後半、タイラー老とまで言われた海千山千の闇のフィクサーにこの男は絶対になれそうにないではないか。
「旧タイラー」の持っていた何をやるかわからない感じは、「真タイラー」では無知だからこれができると言う感じに変えられてしまった。
「真タイラー」の主人公がなれるのはせいぜい莫迦ツキしているアンダーソン元帥くらいではないのか? なんだかそんな感じがして哀しいため息をついてしまう読後感である。
真面目な話、旧作読者を放りだして、新作として新しい読者をこんな話で開拓できるのだろうか?
古くからのファンは心配しなくてもいい心配をしてしまうのだ。(01,2,24)