回文作家としての自伝的プロフィール

1 回文事始め

回文に興味を持ったのは、あれは、そう、高校生のときでした。国語の時間、教科書に「ねずみ算式に増える」という表現が出てきたのです。それまで平穏に進んでいた授業の静けさを破るように思わず「ハイハイハイハイ」と手を挙げてしまったのです。それは自分でも驚く勢いでした。
「何だ、丸山」
眼鏡越しの教師の目は少しおどおどしているようにも見えました。
「先生、昔考えたんですけど・・・」
「何だ」
「ちょっと口では説明しにくいんで前に出てもいいでしょうか」
ほ〜、というどよめきのなかを前に進んだ私は、チョークを取り上げると黒板に


RATS


と大書きしました。ちょっと口ごもりながら
「え〜、ねずみというのは英語でこう書きます」
ともひょろ〜、なにかんがえてんだ〜
などのヤジに構わず意を決した私はその下へこう書きました。



STAR


「しかし、とても数の多いことを”星の数ほど”とも言います。」
それがどーした〜
「こ、これは反対から読むと同じです!!つまり、この二つは日本語でも英語でも密接な関係があるのではないかと・・・」
一気に起こった大爆笑の中、みんなに理解してもらえた喜びを胸に自席に戻った私を襲ったのは予想外の教師の声だった。
「でもな〜、なんでRATSは複数形でSTARは単数形なんだ?そこんとこ説明してくれやー」

かくして私の回文人生は栄光と挫折が相半ばして始まったのであります。
ちなみにロックバンドRats & Starがデビューしたのはそれから10年後のことです。

2 回文処女作

 もう今となっては何時、どこで、何を作ったか闇の彼方である。おそらくは高校3年の頃考えた「僕、久保(ぼくくぼ)」あたりではないかと思う。

 これを父親に言ったところ、「僕は久保(ぼくはくぼ)の方が良い」と言われ、反射的に「君、美樹(きみみき)、俺、レオ(おれれお)」と叫んで意地を見せたのは我ながら天晴であった。

 もちろん「君は美樹」「俺はレオ」でも良い訳だが、単に長さだけを考えるのではなく、語呂の良さ、リズム感等に対するセンスがあったのかも・・・・・

3 第一次創作期

 大学入学後、テニス部にまで行って黒板に「ブスにテニス部」大書きして顰蹙をかったのは「回文による自己紹介」ですでに述べた。

 量産態勢に入ったのは大学3年(医学専門過程1年)の時である。この頃連日のように解剖学実習が行われ、夜遅くまで全員が居残りし、皆疲れていた。その実習の合間に「おい丸山、今日はどんなん作って来たんや」と気分転換のため次々と同級生が私の所へその日の作品を見に来るのであった。

 おだてられると張り切ってしまう私は眠い目をこすりこすり、毎日回文を作った。この頃の代表作は同級生二名の名前を織りこんだ「星来たふらふら二木志保」、空白の一日で阪神から巨人に移籍した江川投手を詠んだ「我が江川、ああ恋し、本心は阪神ほしい子、ああ我が江川」等である。

 人名をいれたり、回文の中に小さな回文が入り、前後で意味がダブる作風は今も変わらないようだ。

4 回文傑作選編集の頃

 大学5〜6年の頃、講義は大講階段教室で行われ、いつも後ろに陣取った私は講義に聴き飽きたら自分の世界に浸るなど気ままな時間をすごしていた。そんな時、ふとしたことから解剖実習の頃とは違う仲間と喋るようになった。何のきっかけか回文の話が出たところ異常な興味を示したのが、田中淳司、棚橋保(後の筆名”冷凍トイレ(れいとうといれ)”)の両君であった。私の作りためた作品に刺激された両名は負けじと作り始めたのである。

 この時の作品および、文献などで見かけたものを9年後に田中君が編集したものが「回文傑作選」(平成元年五月二日発行。丸山友裕、田中淳司、棚橋保(筆名:冷凍トイレ) 編著)である。

 特に田中君の才能は特筆すべきものがあった。例えば「痛くねえかためしに締めた替えネクタイ(いたくねえかためしにしめたかえねくたい)」とか「田舎汁粉に凝るしかない(いなかしるこにこるしかない)」等は、きらめく才能が感じられる作品である。現在、彼は「たいこめ」の同人として活躍中である。

「たいこめ」とは以前週刊文春に連載していたシリーズで、回文による会話の創作である。例えば「禁煙だっけ?」「決断延期」(きんえんだつけ・けつだんえんき)これは回文よりさらに制約がきつい。彼はたびたびこれに入選し、私は雑誌でこれを見て卒業後の彼の消息を知ったほどである。連載終了後も同人達は活動を続けているとのことである。

5 富山時代

 最近、人に「回文など作っていては真人間になれません」と言うようになった。全くその通りで、如何なるときも、それが頭をよぎってしまうのである。先日など、患者を診察室の呼び入れるのに「小林やば子さ〜〜〜〜ん」と大きな声で言ってしまった。カルテの名前を見たときに反射的に反対から読む癖がついてしまったのだ。「こばやし」を見ているうちに「こばやしやばこ」なら反対から読んでも同じだぞ、しめしめ。なんて思っているうちに間違ってしまった訳で・・・

 そんな訳で私の人生のうち回文に関わっている期間は意外と短いのだ。長い空白の期間の後の平成5年も押し詰まった頃、ふとした拍子に学生に「回文傑作選」の存在を知られ、また創作することになった。この時はもう富山をさる寸前で、富山にいた記念に何か地名などを織りこんだものを、と思い富山の地名や富山弁シリーズに限って短期間制作した。この時の代表作は「雁飛ぶ富山医薬大 俺を抱くや 今や飛ぶ鳥か(かりとぶとやまいやくだいおれおいだくやいまやとぶとりか)」等である。

 この時は試験の答案に自作の回文を書く者が続出し、送別会の席で学生から「新潟をよろしくしろよお互いに(にいがたおよろしくしろよおたがいに)」等とつけ文されたのは今でも懐かしい思い出である。

6 ホームページを開いて

 世の中に自叙伝を自費出版する人は多いが、問題は誰に配るか、である。

 内容、文章ともに優れていれば問題はないが、実際は難しい。もらった人も「有難う」と言ったのは良いが、うちに持って帰って「かーちゃん、今日こんなんもらったよ」と言っても、そのかーちゃんが煎餅食いながらテレビ見てて「へ〜〜」って横目で言われたら、何となく読む気がしなくなってそのまんま忘れてしまいそう。ま、うちのかーちゃんはそんな人じゃ無いけど。

 ホームページなら、面白いと思ってくれる人だけ自分の意思で見てくれるんだから、誰にも迷惑はかからない。つまらなくたって「捨てる」わけじゃなくて、また何時でも見る可能性があると、お互いが思えるところがいい。そこに思い当たった私は早速ホームページを開くことにした。つまり私のホームページはすべて自分史なのである。

 このホームページの自分に科した制約はただ一つ。説教臭い事を書かない。それだけ。本当は、経済問題、教育問題、どんなもんだい!など書きたいテーマはたくさんあるが、それは無しとした。

 話が大きくそれた。ホームページの内容は、本職の医学、本職になりたかった音楽、回文、それと肩のこらないざれごと、この4つに絞った。

 当初、回文は「回文傑作選」を小出しにすればよいだろう、と気楽に考えていた。ところが載せ始めて、ハタと困った。自分の作品かどうかわからないものが多いのだ。確か「回文傑作選」には約800の回文が収められているが、文献から拾ったものも多いようで、これをうっかり「自分の作品」として出してしまうと、そのうち誰かからクレームがつくかもしれない。

 そこでやむなくホームページスタート同時に新しい作品を作りはじめ、これを優先的に載せることにしたのである。そして、作る気力が無くなったらまた「回文傑作選」から載せることにしよう、と考えた。ところが、どうしたことかホームページ開設以来今日まで10か月間ずっと継続して作っており、今までで一番長続きしている。今までで一番真人間で無くなったかもしれない。

 無意識に人の作品を真似しないように極力他人の作品は見ない事にしている。これが、同人等に入らない理由である。

7 回文コンテストに入選!

 ついに私の回文人生に輝かしい一ページが刻まれた。回文コンテストで自作回文短歌が短歌部門の優秀賞(一位)を受賞したのだ。 

 ひょんなことから日本言葉遊び・回文学会主催の回文コンテストが作並温泉(仙台)の後援で行われることを知った私は一日で回文短歌を8首作り、応募したのであった。詳しい顛末は回文俳句・短歌のコーナーを参照されたい。

 事務局の話では全国から約3000人の応募があったとのこと。う〜ん。この賞はちょっと重みがあるかも。最初は「はっはっは、絶対入賞するさ。日本中で回文作ってる奴なんて10人位しかいないよ!」(入賞が全部で10名なので)なんて軽口たたいていたけど、いざ入賞の知らせをもらってみると、何だかじわっと来るね。

入賞した作品は

松の葉に 悲しみ深し 追憶を いつしか踏みし 中庭の妻  (まつのはにかなしみふかしついおくおいつしかふみしなかにはのつま)

 これは、回文を作る立場から言うとちょっと悲しい。中庭が「なかには」になっておりその意味では苦しい作品なのだ。回文を専門とする人には厳しく評価されそう。

回文として完璧なもののうち自分で気に入っている

優しい子残り惜しくも継母(はは)のもの実母(はは)黙しおり子の恋しさや

あたりが入賞していたら気が楽でした。

 しかし、これは回文そのもののルールを緩くして、より文学性を重視しようということなのでしょう。

 私は、短歌を作ったのは生まれて初めてで(入賞作が本当の第一号)、短歌における文学性を云々できる立場ではないが、回文短歌をいくつか作り、推敲しているうちに、「これは短歌の先生の意見を聞きたいなあ」と思うようになった。

例えば、

「遠ざかる駅の汽笛の悲しみし長の汽笛の消える風音」

「遠ざかる駅の汽笛に身やしばし闇に汽笛の消える風音」

「遠ざかる駅の汽笛の音憂う遠の汽笛の消える風音」

「遠ざかる駅の汽笛に黙しこし雲に汽笛の消える風音」

「遠ざかる駅に汽笛の冬寒さ夕の汽笛に消える風音」

「遠ざかる駅の汽笛に冬我は夕に汽笛の消える風音」

「遠ざかる駅の汽笛の冬空ぞ夕の汽笛の消える風音」

「遠ざかる駅の汽笛の伊予の地の宵の汽笛の消える風音」

等、いくつかの候補を考えた時、どれを選ぶかはやはり短歌に対するセンスでしょう。まあ文法的に変なのもありますけど。

結局私は最初の候補を少しいじって、わざと字余りにして

「遠ざかる 駅の汽笛の 悲しみを見し 長の汽笛の 消える風音」

で応募したわけだけど、これは落選。やっぱりこんなにいじるもんじゃないのかもね。結局当選作は勢いで作った処女作。「パワー」と言うべきか「ビギナーズラック」というべきか。

 入賞の知らせの入った1999年7月21日は、新潟市の依頼でソロコンサートを行い(後にテレビ放映あり)、日本皮膚科学会からは評議員に推挙の報告があり、皮膚疾患に関するインタビューにテレビ局が私のところに訪れ(放映は翌日)、他県在住の皮膚科専門医より自分自身の皮膚疾患の診断と治療を依頼される等(遠路受診は翌日)、回文作家、音楽家、皮膚科医として冥利に尽きる一日でありました。

きょうは何だかまだ目がうるうるしている。

 (1999.7.23記)