丸山友裕の自己紹介



私は子供のころリコーダーを見て「や!リコーダーだー、こりゃ」と思って笛を始めました。
主に「Fの笛
(えふのふえ)(一番低い音がF、つまりファの笛)を吹きましたね。
高校時代はろくに勉強もせず「私、物理つぶしたわ
(わたしぶつりつぶしたわ)なんて平気でしたね。

「ママが私にしたわがまま」
(ままがわたしにしたわがまま)にがまんができず大学は新潟を離れて弘前へ。
弘前では「い、岩木山 大変平坦 先はいい
(いいわきさんたいへんへいたんさきわいい)のでよく行きました。ちょっと吃ってますけど。

大学ではテニス部に入り、新入部員を勧誘してやる、と「ブスにテニス部!
(ぶすにてにすぶ)というコピーを作ったところ一日でクビになりました。
腹いせに黒板に「酢豚作りもりもり食ったブス
(すぶたつくりもりもりくったぶす)と書いてますます嫌われました。

その後はマージャンに明け暮れました。
メンバーは増子、酒井、成田らです。増子は酔うとすぐ脱ぐので「腰巻なき増子
(こしまきなきましこ)といわれました。
あるとき酒井と組んで八百長をしたら「いかさまやる丸山、酒井
(いかさまやるまるやまさかい)と成田がいきまいたのでそれは「理解の足りない成田の怒り(りかいのたりないなりたのいかり)だと皆でなだめたものです。

そんなわけですから試験は落ちまくり。「内科追試いつかいな
(ないかついしいつかいな)」「答案消して試験アウト!(とうあんけしてしけんあうと)」「再三テストを落とす天才さ(さいさんてすとをおとすてんさいさ)なんていう日が続きましたね。それでも何とか卒業して新潟に戻り「怪しい医者ぁ!(あやしいいしゃあ)をやってましたが、ひょんなことから富山医科薬科大学に行き、「意外や意外(いがいやいがい)助教授として教壇に立ちました。

三曲会という邦楽のクラブの顧問をしている時に、ある女子学生-----この学生は私に「良き姿なあなたが好きよ
(よきすがたなあなたがすきよ)なんて一度もいってくれなかった。
アタリマエか-----に演奏を聞かせてくれと言ったら「悪いが琴を弾く日男がいるわ
(わるいがことをひくひおとこがいるわ)と言われびっくり。
まさかおまえたちそんなに進んでいるのかと問いただし、「キスが好きえっ?私好きよキスしたわ」なんだってっっ?「私、快感開花したわ!
(わたしかいかんかいかしたわ)と言われた時はぼーぜん自失の態。

こりゃたまらんぼくもう新潟に帰る、ということになった時。さすがに学生には見せられなかった長年書きためた回文集(エッチなのがある)をひょんなことから見られてしまい、一同見せて見せての大コール。



そこで

移転 機に 謹呈
(いてんきにきんてい)


と表紙に大書きし、裏表紙には

雁飛ぶ富山医薬大 俺を抱くや今や飛ぶ鳥か
(かりとぶとやまいやくだいおれをいだくやいまやとぶとりか)


の一文を添えて富山を後にした。
送別会のとき一人の学生が寄ってきていわく、
先生には及びませんがこんなん作ってみました、
と差し出した紙をみれば

新潟をよろしくしろよ お互いに
(にいがたをよろしくしろよおたがいに)


ググッと感激したが、すかさず返して

慕わる様や ときめきときめき 富山去る私
(したわるさまやときめきときめきとやまさるわたし)



涙涙の別れでござりました。



え、なになに、上のは作り話しじゃないかって?はいはい。
回文をいれる便宜上一部フィクションがありますです。
ふぃっくしょ〜〜ん!!