俺にとってブルース・スプリングスティーンを考察するのならばこの程度じゃ済まないのだが、とりあえず一考察である。棺桶にCDを3枚入れていいって言われたら、間違いなく一枚はブルース・スプリングスティーンである。
そんな訳で久しぶりの新譜を聞いた。Eストリートバンドとの十数年ぶりのアルバムである。しかしそれはたいした事はなかった。新星堂でも平積みにされてるわけじゃないし、鳴り物入りって訳じゃない。レコード会社もさほど力を入れなくなった、いやそんなことは俺にとって意味のないことなのだが、随分扱いが変わったなという感が否めない。ロッキンオンかなんの裏表紙くらいはとってたようだ。そんなことはさておき。
岡山行きの新幹線の中で「ザ・ライジング」を聞く。たいして期待してもいなかったのだが、正直言って期待はずれだった。Eストリートバンドとやるからには、あれを期待していたのだが、トンネル・オブ・ラブで決別したブルースはもはや俺の聴きたいブルースではなかった。このアルバムは前編にわたってニューヨークの9月11日に対しての鎮魂歌でしかないのだ。
俺としてはたいしたことなかったが、一曲だけ泣いた。「INTO THE FIRE」である。曲に泣いたわけじゃない。コンセプトで泣いた。俺達にとって9月11日は1月7日である。俺は直接やってないが、そうなのである。この唄を聴いてその時のイメージがフラッシュバックする。
台数が足りなかったり、道が混んでたり狭かったりで、消防車はなかなか現場へたどり着けない。やっと辿りついた消防士がホースを持って火に向かう。待ってる方も行くほうも急いでる。現場についた消防士はもう神様に見えたはずさ。そのホースから水が出ない屈辱。そんな手記を読んだことがある。地震で水道管なんか潰れてる。消火栓だって潰れてる。だから水が出ない。生きてて、そんなにくやしいことはない。自分の力足らずだったり、いわれのない誹謗中傷で悔しいことはいくらでもある。でも、俺はその消防士のくやしさは一生理解できないと思うのだ。いや、聞いただけで俺が泣くほどなのだが、俺が生きてきた中では一番悲しい話である。多分、ウルトラマンのスペシウム光線がでないより悲しい。あの状況で水の出ないホースを持って立ち尽くす消防士。もしどんなに罵倒されたって、一番くやしいのは彼だったと思う。いや、具体的にはもっと悲しい人もいるだろうけど。
それ意外にこのアルバムで感銘を受けたのはライナーノーツの「しかも今すぐに。時間はあまり残されていない。」というくだりであった。時間があまり残されていないことを何故か圧倒的に実感させられた。俺は今、自分の時間は結構ある。学生ほどはないが、所帯持ちでもないのであき時間は自分の為に使うことが出来る。それでもできることは少ないし、実は時間はあまり残されていない。平均寿命からすると、俺はもう折り返し地点を過ぎている。社会人としても未経験者として転職できる歳も過ぎているし、例えば40までに英語やパソコンスキルを身につけるとしても、もう時間はない。50までには時間はあるが、誰も待ってくれないし、俺の頭も待ってくれない。
時間は実は俺だけのものでもない。いとこを待っているめいにはまだ時間はあるが、孫を待っている親にはそんなには時間がない。祖父母参観日や運動会で走れなくなってしまうかもしれない。祖母には曾孫の顔を見せてやれなかった。普通なら見ててもおかしくない程度には長生きしてくれたのに。めい達も幼稚園くらいの可愛いさかりに俺の嫁のウエディングドレスの裾を3人で持たせるつもりだったのだが、おそらくそれははとこ達にとって代わられてしまうだろう。
締め切りのないことを一日一日、明日延ばしにすることはとても簡単だ。ずっとそうして生きてきた。しかし今日俺は実は時間はそんなに残されていないことに気がついた。いつかやるって、一生やらないこともあるだろう。したいこと、出来ることは早めに、いや、今すぐはじめなければ。などといいつつ今晩も酒を飲んで寝るわけだが、いずれにしても俺にそんなに時間は残されていない。酒を飲んでいい気持ちになることすらも。
問題は黄色いお空でBOOM BOOM BOOMである。モーニング娘。のメイン阿部なつみと陰のメインヴォーカル保田と、ソロヴォーカルの平家みちよ、太陽とシスコムーンのルルを率いた完全なヴォーカリストを集めたチームである。この曲が良い。実はダンス重視にすら見えるこの曲は、つんくの中では完全に曲重視である事がわかる。何故かというと、1度としてこの曲がTVで生で歌われたことがないのだ。激しいダンスで唄えないから完全口パクなんじゃない。唄が大事だから乱したくないんだろう。 それだけこの曲を大事にしていると言う事だ。 この曲は俺が何年振りかで買ったCDで、とてもいい曲である。一見馬鹿馬鹿しいリフに聞こえるが、「何があるか知りたくて 僕達二人は旅立つけれど」である。いいんだなこれが。
槙原が嫌いだった。「どんなときも」で彗星のようにデビューを果たしたがそのなかの「ビルの谷間窮屈そうに・・・」というくだりがどうしても男らしくなくて好きではなかったのだ。槙原を好きなのはみんな女の子ばかりだったし、ちょっとおとなしめの女の子のアイドルみたいで、取るに足らず、と思っていた。
それからしばらくして「もう恋なんてしない」で槙原の声は俺にやっと届く。非常に日常感のあるこの恋の歌はおそらく一緒に暮らしている恋人との生活を歌ったものであろう。しかしとてもいいこの歌もあるひとつの疑惑によって、まったく別のイメージに転化してしまうのだ。それはまことしやかに言われている槙原の穂も疑惑である。いや別に俺は槙原が穂もであろうが世間の誰が穂もであろうが知ったこっちゃない。俺を誘わない限りは。しかしこの槙原の「もう恋なんてしない」は男と棲んでいるシチュエイションだと考えるとリアリティが倍増してしまうのだ。
それはさておきこの辺から俺のカラオケのレパートリーは槙原が増えていく。絶品であったのは「どうしようもない僕に天使が降りてきた」である。タイトルからしていい。「Someday My Princess will come」を身上としている俺にはかなりはまった。 また歌詞がストーリー仕立てになっていてまるで目に浮かぶようだ。昔何かの映画で見た羽根枕の羽毛が部屋一杯に広がる様子がフラッシュバックする。
第一次槙原の最後の作品になる「Hungry Spider」もなかなかの作品だ。このひと、多分帰国子女かなんかなんだろうな。詩とメロディの乗せ方が見事というか、なんかネイティブっぽい。紙芝居仕立てのプロモーションビデオに髭もじゃで登場する槙原はなんか行き詰まってるようにも見えるし、開き直っているようにも見える。ある意味新境地に入ったかに見えたのだが、それが薬によって入った感がどうしても否めない。 しかしいつまでたっても槙原の彼女には男の影が付きまとってしまうのである。
「春〜spring〜」でジュディマリのパクリと言われ「なぜ」でレベッカのパクリと言われつづけたヒステリックブルーの声がやっと俺に届いた。無論、稀代の天才女性ヴォーカリストに似ているんだ。どっちに似ていたとしても、パクリと言われようが何だろうが、TAMAがヴォーカリストとして優れているのは言うまでもないことに気がつかなかった。
見事な二流と言うのか稀代のパクリ師と言うのか、天才的な二流さだ。特徴のない綺麗な高音の声、癖のない歌い方、コギャル系のラメ入りのアイメイク。古着系の今風のファッション。例えばYUKIのようにこけおどしのファッションセンスもないし、ノッコの様にこれでもかと搾り出すような歌い方でもない。迫力も、脅しも、がんばりも、不良性もあおりもない。そこにあるのは今の子がただ淡々とわかりやすい歌詞を歌うというだけのステージだ。恐ろしいほどのりきみの無さ。カリスマ性の無さ。女性ロックボーカリストとしてではなく、女の子が女の子としてがんばってる普通さ加減に舌を巻く。
なのに、俺は最近この歌を聞くと鳥肌が立つ。それは日常を日常のままその辺にいる女の子が体現したというすごさなのかもしれない。いや、ほんとはそうじゃないな。彼女がほんとはまれに見るヴォーカリストであるはずだ。それを感じさせないことがすごい。
ひとめ見て、すごくない。そして曲の良さがやっと解るようになってしばらくして見てみても、やっぱり凄くない。簡単に言うと迫力というか華がないんだろうな。別にそんなものは必要じゃないんだけど。
これは2000年の年末に書いたものだが、その時はヒスブルの普通の凄さに引かれていた。が、きちんと書き直そうと思ったら、今まったくテレビで見ることもなくなり、感動もまったく薄れてしまっている。中途半端な文章になったことをお許し願いたい。(2001/02/12)
音楽と言うのは不思議なもので、どんなにヒットしていても他人に勧められても、好きになれないものは好きになれない。私の場合、グレイがそうだ。逆に言うと急に訳の解らない趣味じゃない筈のものにはまってしまうこともある。何故こんな当たり前の前振りが必要かというと、俺は今「プッチモニ」の「ちょこっとLOVE」という歌にめちゃくちゃはまっているからだ。
ビデオを撮って何度でも見る。すげえ見る。うっかりすると口ずさむ。なんでこんなにはまっているのか自分でも良く解らない。記憶にある限りではアイドル系でこんなにはまったのは、中森明菜の「TATOO」以来じゃないだろうか。か、最近では初期のパフィーくらいだ。
俺は今までモーニング娘。には何の興味もなかったし、今見ていてもプッチモニというモーニング娘。の居残り寄せ集めのユニットがそんなに魅力的だとも思わない。しかし見ちゃうんだよな。
たまたま見た朝ヤンで「変な曲」と思ったのだがそれから急に気になりだした。まあ、「メイキングオブ〜」みたいなものをやるわけだが、あれを見たから余計だな。例えばぱっと見ははちきれんばかりに元気丸出しの小娘の歌なんだが、裏事情を見ちゃうと、見方がちょっと変わってしまう。あのわざとらしいメロディーラインの外し方も、あの激しいダンスをしながら乱れないヴォーカルもレッスンの成果だし、おちゃらけて見えるダンスも、アドリブに見える完成形だ。激しいダンスをしながらの笑顔すら楽しいわけじゃない、トレーニングの賜物だ。よく考えたら楽しいだけであんなにちゃんとかわいらしく若さをアピールしながら歌えるわけじゃないよな。素人じゃああはいくわけがない。
初めて見たら若くて元気で可愛いだけのグループなんだろうが、すべて努力の上に完成されていると思ってみると、それはそれでけなげさもかわいらしさも倍増する。歌にしても「〜ぞ」で決める非常にあざとい歌詞にしているし、「わっはははは」などというバックコーラスもダサダサだ。ちょっと恥ずかしいくらいの「アイドル」を見事に体現したという陳腐な表現しか今のとこ思いつかない。
って、完全に浅ヤンとつんくの手口にはまってるだけだな。でもはまっちゃった。
若い時は「プッチモニっていいよね」ですむんだが、
ある年齢になると素直にはそう言えなくなって、前置きをして能書をたれて、
もっともらしく説明しなきゃいけなくなるんだよね。めんどくさいもんだ。
訳の解らないメロディラインと異常なオーバードライブのかかったギターのイントロで始まる 「そばかす」。 それだけでふざけてる。こんなもの紅白で歌ったってわかんねえだろうし、
事実その頃俺はジュディマリに興味はなかった。しかし今にして思えば歌った事がすごい。 注目を浴びさせ様とはするが理解は求めていない。それは歌詞にも如実に現れる。
理解不可能なイントロから早口の出だし。
「大嫌いだったそばかすをちょっとひとなでしてため息を1つ ヘヴィー級の恋は見事に角砂糖と一緒にとけた」
簡単な言葉を使いながらその内容を想像できない。 ジュディマリの歌詞はそのものは難解ではない。解り易い、というかおそらく確信犯的に
メルヘンチックな子供っぽい言いまわしをしている。が、ユキの持つ世界観は我々オヤジには理解しにくい。 というか、このへんは歌詞を見ないと何言ってるのかよく解らない。
ところがロックヴォーカリストとしては比較的聞き取りやすい、 しかし割舌が良いとは言い難い彼女の歌が、符割とあいまって突然聞こえてくる。
「思い出はいつも綺麗だけどそれだけじゃお腹が空くわ」
突然聞こえるこの歌詞に年寄りは首をかしげる。
サビになって急に聞き取れるこの歌詞はあまりにも解りやすく、平易だ。 あまりに解り易いこの歌詞があるがゆえに、それがユキの世界観を更に難解にしている。
次に聞き取れる「かえるちゃんもうさぎちゃんも笑ってくれるの」
聞き取れる言葉は解り易いのに、何を言ってるのか解らない。 そして俺達オヤジはついうっかり聞き取れる言葉だけをキーワードにして、
「訳のわかんない事を歌ってる派手な今風のねえちゃん」の烙印をユキに押してしまいがちだ。
「思いきり開けた左耳のピアスには 笑えないエピソード」がある事も解らないし、 「〜おなかが空くわ」から 「人はパンのみにて生きるにあらず」という概念や、
空腹が悲しみを助長させるという事実すら、その歌詞からは思いつかない。 私はもう、これに同意できるジェネレイションではないのか、
少し理解できるようになったのは、「くじら12号」くらいからだった。 タイトルからしてふざけてる。しかし彼女の声は俺に届いた。
「太陽が目覚めたらあの船でゆこう」勇ましく歌いあげる彼女はひとこと付け加える。
「よりそって」と。
「雪解けを泳ぐ くじらみたいな」
この一連の歌詞に何の意味があるのか、意味がないのか良く解らないが 妙に説得力のあるYUKIのヴォーカルが少し好きになった。
彼女達は最後のパンクスである。だからこそファンタジックで解りやすそうな歌詞は 平易な形を取りながら実は難解である。硬い猫のような彼女の声は、猫なで声のような甘い振りをしながら実は
何物も受け付けない固い意思を持っているようにすら聞こえる。
華原朋美が消えた。あっけなく、あっという間に。永遠に続くかに見えた小室帝国の歌姫は 「DAIRY NEWS」をリリースして98年の 紅白歌合戦に出た後、まるで消息不明のように消えた。ふと気が付くとレコード会社とも プロダクションとも契約が切れているという。芸能界というのはほんとにすごいところだと再認識した。 確かにレコードセールスは落ちていたのかもしれない。しかしその辺のチンピラ歌手よりはまだまだ 稼いでいたはずだ。一世を風靡したヴォーカリストが、ある思惑によって、あっという間にいなくなる。 いくらビッグネームでも落ちる時は来る。しかしビッグセールスがなくてもシンガーはその業界に しがみついて生きていくのが通例だ。 しかし今回の場合は非常に作為的な印象を拭いきれない。
私は、全く彼女のファンでもないし、アンチ小室と言うわけではない。だからそれほど彼女を 取巻く音楽事情に詳しいわけではないのだが、彼女についてはなんだかかわいそうな気がする。 ただ1つ救いなのは小室が彼女を見限ったと同時に、社会も小室を見限った事だ。後期TMNから始まった 小室哲哉旋風はは篠原涼子、TRF、浜田、globe、安室奈美恵、幾多のシンガーを送りだし、ビッグヒットを飛ばし いつまでも続く小室王国には揺らぎすらないのかと感じさせるほどだった。 しかし翳りの日は来た。あげまん華原朋美を見捨てた事で、彼は自分の運を手放したのだ。 もちろんただみんなが小室に飽きただけなんだろう。ヴィジュアル系バンド、つんくプロデュース等、 他が少し当たり始めたからね。
これを書いてしばらくして、華原朋美は「As a person」で復帰した。が壊れていた。 瞳が明らかに過去の、いや常人のそれとは違う。心理的な病気にかかっているような感じだ。 復帰して小室なぞ見返すほど元気になって欲しかったのだが、 壊れた華原は見たくなかった。
m.c.A.T.というミュージシャンがいる。初めて彼の曲を聞いたのは忘れもしない、スキーに行く途中の 車の中。従姉妹が持っていたカセットテープで聞いた。もちろん「BOMB A HEAD」 くらいは聞いたことがあったが、通して聴いたのは初めてだ。確かセカンドだった。 その時聴いて俺の持っている音楽観とまったく相容れないセンスの良さが気になってはいた。 明らかに自意識過剰の方法論はカッコ良すぎるとは思ったし、センスもいいと思えた。 ただ、解りにくかった。
俺の記憶の中では、「ラップ」という概念の中で一番最初にあそこまで売れたのは彼だと思う。 明らかにブラック志向のクラバーで、Fight 4 DA Future などと標榜するちょっと恥ずかしいくらいのラップ男のセンスのよさはメジャーになりきれず、 それでも内田有紀と組んだりしてその音楽性を発揮していた。
ところで、DA PUMPだ。m.c.A.T.の高いと思われる音楽性とセンスを俺のような凡人にまで 浸透させるのには解りやすさが必要だった。 彼の世界観を体現するのには「エキゾチックな顔立ちの」「クラブにいそうな」「若い男のユニット」と、 「ダンス」と「ユニゾン」というファクターが必要だったのだ。 ちょっとダサ目のDA PUMPは彼のセンスを少し丸くし、が富樫の世界観を持ったまま とても解りやすく安心した形で表現してくれた。 というよりも圧倒的に強烈な富樫の世界観はDA PUMPというフィルターをかけることで 少し甘くなり、丁度よくなるのかもしれない。 やっぱり人を説得させるのには演出と方法論が大事なんだなと痛感した。
モーニング娘。は無名性のユニットとして機能していた頃の方がパワーがあると思う、と思っていた。
僕等の世代では「おニャン子クラブ」とどうしても比較してしまいがちだが、 おニャン子クラブが一番エキセントリックだったのは「セーラー服を脱がさないで」
であることは明白だ。
ブレイクしていく過程のサウンドの方が、 その後ある程度成功を治めた時点のそれよりもとても面白い場合が往々にしてある。 それは素人から有名になりたいというパワーなのか、 無名性に名を借りたやりたい放題なのかは解らないが。
特に少し色物がかった、というか完全に狙いすましてやってくる企画グループの場合、 企画を練ってターゲットを絞りこんでエキセントリックな仕掛で一発当てるわけだが、
認知されると同時にターゲットをさらに底辺まで広げていこうとするため、 初期の過激なまでの面白さは薄まらざるを得ない。
野猿、スピードなどはまさにこの典型である。
(ミュージシャンの場合はアーティスティックになっていくという名目で難解になり 面白くなくなる、あるいはついて行けなくなる場合がよくある。)
当然、モーニング娘。もこの典型に当てはまるはずだった。
しかし、冒頭の書き出しの 「モーニング娘。は無名性のユニットとして機能していた頃の方がパワーがあると思う」 で始まったこの考察は、「と思っていた」と書き足さざるをえない羽目になった。
グループとして認知されてしまうと 当然、混沌とした大勢のグループの中からソロとして、あるいはユニットとして 個人別に認識されていく訳だが、 そのプロジェクトの真っ只中でつんくは「モーニング娘。」を「モーニング娘。」として再構築するような 「LOVEマシーン」を発表する。
つんくは「LOVEマシーン」で狙ってるところをきっちり狙って作って、しかもヒットさせた。 それはあきらかにショーパブ、あるいはオカマパブ、
例えばベティのマヨネーズとかで絶対コピられる曲を意識している。
つまり中森明菜の「DESIRE」とか、アンルイスの「ああ無情」の合いの手の部分、 「フウフウフウフウ」のとこを 完全に体現させるというか、突出させるあるいは抽出させたものだ。
狙って、作って、当てるという3段階をクリアしたところがすごい。 典型的なパターンの曲を典型的に作りかえるという このパクリ方法論は初期の桑田圭佑が絶品だったが、今回のつんくの「ヴィーナス」
のパクリは見事という他ない。
水商売っぽさにかけては天下一品というか丸出しのつんくがやりたくてしょうがなかったとこだろう。 また、モーニング娘。(それはつんくプロデュースのグループであるという認識があるという意味で) でなければ出来なかったかもしれない。つんくとまったく関係のない新しいグループがいきなりこれで デビューしたのではただのきわものになってしまうだろう。 ダンスにしても、今回は完全に計算された混沌を感じさせる。
まあもともと番組作りのためのユニットらしいので、いきさつとかはどうでもいいんだが、 ここまでブレイクするとはな・・ってそんなオチかい。
そんなに才能があるとも思えなかったけどな、でも「いかにも」って曲つくらせたらうまいか。 シングルベッドとか。しかしどの曲聞いてもつんくイズムだもんな。
俺にとって、美空ひばりは楽器である。好きなヴォーカリストではないが、人に真似できない音色を出せるという点で、類稀なる才能を持っていると思う。今のイメージの中で、宇多田というのは俺の中で一番美空ひばりに近い存在である。美空ひばりというわかりやすい概念を借りればの話だが。 カリスマ性とめちゃくちゃな譜割を自らのセンスによって、完全に解りやすい音楽として体現していくという点では宇多田は美空ひばりだ。 いや、宇多田のすごさを表現するのに美空ひばりを引き合いに出しただけで、俺は実はどちらも評価しているが、どちらのファンでもない。が、否応無しに凄さを認めねばならないという点で、共通点があることに今日気がついた。どちらも凄さを感じさせるという点で似ていると思うのだが。
おそらく、日本で今一番ステージの高いシンガーはこいつだろう。ステイタスじゃなくて、数字の稼げるシンガーという意味で。CDのイニシャルも実績も、視聴率もこいつにかなう奴はいないと数字を稼ぐ方も思っていると思う。どこまで計算なのか、どこまで魅力なのかはよく解らない。カリスマ扱いだが、カリスマティックに見えないな。タンクトップの重ね着で出てくる。へその見え隠れするチューブトップとタンクトップの組み合わせは、センスなのか、完全に計算尽くされたものなのか。話し合いの結果か。 しかし、親しみやすいというか露出度は高くないのに見なれた顔だ。そんなに個性的でもないのに、忘れない顔。藤圭子とダブってるわけじゃないだろうが、珍しい顔じゃないのによく見てて忘れないような顔。なんか懐かしいというか、特徴はないのに忘れない顔だな。気取ってるわけでもないのにな。数字の裏付けか、自信か、本物なのか。ぼろが出るもでないもこれからか。じゃあボロってなんだ。異次元っていうのに今は近いな。じゃあカリスマ扱いなんじゃないの、俺ん中で。