江古田原・沼袋合戦のいきさつ

文明八年(1476)に、山内上杉の家宰をめぐる後継者争いに敗れた長尾景春かげはるは上杉氏に対して反乱の兵をあげた。(長尾景春の乱)豊島氏も上杉の支配に対する在地の伝統武士の不満から反乱に参加する。太田道灌扇谷上杉おうぎがやつうえすぎの家宰として江戸城を中心に勢力を伸ばし豊島氏の豊島郡支配を脅かしていた。 豊島氏は太田道灌の江戸城河越城の連絡を遮断するため石神井城(練馬区石神井公園辺り)、練馬城(練馬区現在は豊島園)、平塚城(北区平塚神社辺り)の三城で蜂起した。 太田道灌は、文明九年(1477)四月十三日江戸城を打って出て豊島泰明やすあき(弟)の籠る平塚城を攻めた。 豊島泰経やすつね(兄)は平塚城の後詰のため石神井・練馬両城から出兵した。 両軍は江古田原・沼袋(中野区)で激突した。 この戦いで豊島勢は豊島泰明(弟)や板橋・赤塚氏ら150人の戦死者を出し手痛い敗北を喫した。 豊島泰経(兄)は石神井城に逃げ帰ったが、四月二十一日太田道灌石神井城を攻めついに陥落した。 豊島泰経(兄)は平塚城に籠った。 しかし、平塚城も翌文明十年(1478)正月二十五日落城し、長尾景春方の拠点である小机城(横浜市港北区)に逃げ込んだ。太田道灌に攻められ小机城は四月十日に落城した。ここで平安時代以来続いた豊島氏は滅亡した。 豊島氏の滅亡により、その旧領はほぼ扇谷上杉氏に接収され、その大部分は太田道灌の所領とされた。 こうした動きを通じて、江戸を中心とする地域編成が急速に進展した。