もののけ姫

若者パワー 2002_07_20

 

先日、漫画『風の谷のナウシカ』について書いた。
その時、引き合いに『もののけ姫』を出したわけだが、『もののけ姫』について考えているうち、また書きたいことが出来てしまったので、今回はそれを。

『もののけ姫』には救いがない、と先日私は書いた。
確かに救いはないのである。
しかし、救いのない映画をみんなが絶賛して観るか?という疑問が沸いてきた。
実際私も「救いがないな」と思ったのは、映画を見終わって、じっくり考えてからである。
ひょっとすると、そこにはなにかしらの誤魔化しがあるんじゃないか?と思って、このところ私は考えていた。
やはり、ここはエンディングを思い返してみる必要がある。

そうすると、「ああ、若者パワーだ」と思い至ることになった。
『もののけ姫』では二人の若者が、なんだかよくわからないままに事件を解決してしまう。
見る側もついつい納得してしまうわけだ。
要するに、「(私達はもうダメなんだけど)若者達がなんとかしてくれるよ」という理屈である。
私はこれを「若者パワー」と名付けてみた。
これはなにも『もののけ姫』だけではなく、映画・漫画・小説・ゲームなどの様々なシーンで使われる。
大抵の創作物における主人公は妙に若いのである。

しかし、本当にそうなの?と私は思うのである。
だって、周りの若者達をみてご覧なさいよ。
あんなのが世界を救えると思う?(年配の方から観れば、私もダメな若者の部類に入るのだろうが)

まあ、他人(ひと)の事を言うと角が立つので、こういうときは自分のことを考えるべきだろう。
自分が10才の時、15才の時、20才の時、25歳の時、と思い起こしてみる。
考えれば考えるほど、なんと自分は愚かだったのだろう!という結論に辿り着かざる得ないのだ。
25歳の時の私であっても、今の私と比べたら取るに足りない。
私は今も成長し続けているのだ。

私がいつも考えるのは「あの時に帰りたい」ということではなく、「なぜ今の自分であの時を過ごすことが出来なかったのか?」ということである。
今の私ならば、もっと他の選択が出来たのに。

じゃあ、若者にはなんの取り柄もないのか?というと、そうではない。
若者には「かもしれない」がある。

プロスポーツ選手になれるかもしれない。
宇宙飛行士になれるかもしれない。
世界を救うことができるかもしれない。
「かもしれない」ということのなんと輝かしい事か!
それは可能性と言い換えてもいい。
それこそが「若者パワー」の源。

とはいっても、可能性だけあればいいかというと、そうではなく、やはり人としての成長も必要なはずだ。
そしてそこにはトレードオフがある。
私達は日々を暮らしながら、何らかの選択をし、可能性を潰しながら成長していくのだ。

ということはである。
「成長」と「可能性」にトレードオフがある以上、何事か成すためのピーク年齢というのがあるだろう。
そして、それはもっと上の年齢であるはず。
どう考えても、世界を救うのは15歳やそこらの若者ではない。
つまり、およそ「若者パワー」ほど眉唾なモノはない、と私は結論づけたいのである。

もっとも、多くの作品で「若者パワー」が用いられているのは、「私達はもうダメなんだ」と大人達が感じているということである。
子供から見た大人もまた然り。
結局そこが変わらない限り、『もののけ姫』のみならず、私達の世界にも救いはないだろう。

私個人としては、自分がもうダメなんだとは感じていない。
過去には「俺はもうどうにもダメだ」と思っていたことはあるんだけどね。




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