先日、漫画『風の谷のナウシカ』について書いた。 その時、引き合いに『もののけ姫』を出したわけだが、『もののけ姫』について考えているうち、また書きたいことが出来てしまったので、今回はそれを。 『もののけ姫』には救いがない、と先日私は書いた。 確かに救いはないのである。 しかし、救いのない映画をみんなが絶賛して観るか?という疑問が沸いてきた。 実際私も「救いがないな」と思ったのは、映画を見終わって、じっくり考えてからである。 ひょっとすると、そこにはなにかしらの誤魔化しがあるんじゃないか?と思って、このところ私は考えていた。 やはり、ここはエンディングを思い返してみる必要がある。 そうすると、「ああ、若者パワーだ」と思い至ることになった。 『もののけ姫』では二人の若者が、なんだかよくわからないままに事件を解決してしまう。 見る側もついつい納得してしまうわけだ。 要するに、「(私達はもうダメなんだけど)若者達がなんとかしてくれるよ」という理屈である。 私はこれを「若者パワー」と名付けてみた。 これはなにも『もののけ姫』だけではなく、映画・漫画・小説・ゲームなどの様々なシーンで使われる。 大抵の創作物における主人公は妙に若いのである。 しかし、本当にそうなの?と私は思うのである。 だって、周りの若者達をみてご覧なさいよ。 あんなのが世界を救えると思う?(年配の方から観れば、私もダメな若者の部類に入るのだろうが) まあ、他人(ひと)の事を言うと角が立つので、こういうときは自分のことを考えるべきだろう。 自分が10才の時、15才の時、20才の時、25歳の時、と思い起こしてみる。 考えれば考えるほど、なんと自分は愚かだったのだろう!という結論に辿り着かざる得ないのだ。 25歳の時の私であっても、今の私と比べたら取るに足りない。 私は今も成長し続けているのだ。 私がいつも考えるのは「あの時に帰りたい」ということではなく、「なぜ今の自分であの時を過ごすことが出来なかったのか?」ということである。 今の私ならば、もっと他の選択が出来たのに。 じゃあ、若者にはなんの取り柄もないのか?というと、そうではない。 若者には「かもしれない」がある。 プロスポーツ選手になれるかもしれない。 宇宙飛行士になれるかもしれない。 世界を救うことができるかもしれない。 「かもしれない」ということのなんと輝かしい事か! それは可能性と言い換えてもいい。 それこそが「若者パワー」の源。 とはいっても、可能性だけあればいいかというと、そうではなく、やはり人としての成長も必要なはずだ。 そしてそこにはトレードオフがある。 私達は日々を暮らしながら、何らかの選択をし、可能性を潰しながら成長していくのだ。 ということはである。 「成長」と「可能性」にトレードオフがある以上、何事か成すためのピーク年齢というのがあるだろう。 そして、それはもっと上の年齢であるはず。 どう考えても、世界を救うのは15歳やそこらの若者ではない。 つまり、およそ「若者パワー」ほど眉唾なモノはない、と私は結論づけたいのである。 もっとも、多くの作品で「若者パワー」が用いられているのは、「私達はもうダメなんだ」と大人達が感じているということである。 子供から見た大人もまた然り。 結局そこが変わらない限り、『もののけ姫』のみならず、私達の世界にも救いはないだろう。 私個人としては、自分がもうダメなんだとは感じていない。 過去には「俺はもうどうにもダメだ」と思っていたことはあるんだけどね。 宮崎駿氏関連コラム ささやかな野心 説教 汎神に帰れ |