汎神

汎神に帰れ 2002_07_27〜28

 

私は「汎神」というものについて考えていた。
『風の谷のナウシカ』(漫画)、『もののけ姫』、『千と千尋の神隠し』と連続して観てくると、どうしても「汎神」は避けて通れない。
どうにもこうにも、やたらと神様が登場してくるのだから。

しかし、そもそも「汎神」とは何か?
正確な「汎神」の定義を私は知らない。
そこにもここにも神がいる、という程度の理解しか私は持っていないのである。
正直な話、私の「汎神」は「八百万の神」と似たような概念なのだ。(ちらっと調べたところ、「汎神論」と言ったときは意味が異なるみたい)

そんな私が書いて良いのか?
ちゃんと勉強してから書かないといけないんじゃないの?
と思いながらも我慢できずに私は書こうとしているのである。


原始の人間は、「大地の神」や「海の神」が存在する、あるいは、一つ一つの山や川に別々の神が存在する、と感じたはずだと私は思う。
どうしてかというと、人間は神を作用や効果で捉えると思うからだ。
例えば、大地に「作物が育つ」とか、海から「魚が捕れる」とか、川が「氾濫する」とか。
大地に作物が育つとそれに感謝し「大地(豊穣)の神」を感じるし、海が荒れればそれに畏怖し「海の神」を感じる。
ひとくちに山だ川だと言っても、それぞれに特徴があるので、作用・効果が異なれば、それぞれに別の神を感じることになるだろう。

大昔の人間には、作物が育つ原理も、海が荒れる理屈もわからない。
それだけではなく、ありとあらゆる事がわからなかった。
それに、干ばつが起こっても、海が荒れても、人の力ではどうすることも出来ない。
だから、そこらじゅうに神はいたはずなのだ。

しかし、もう今となっては、大半の神は存在しない。
私達は沢山の現象を解明してきた。
そして自然をねじ伏せてきた。
例えば、氾濫する川に厳重な堤防とダムを建設する。
すると、川は氾濫しなくなるが、私達は川に神を感じなくなる。
また、ダムの水を灌漑に利用し化学肥料をまけば農作物は安定して取れるが、やはりその大地に神はいない。(太陽には神を感じるかもしれないが)
私達は自然をねじ伏せるたびに神を殺してきた。

代わりに私達は自分たちで創った神を持っている。
最も単純で最も強固な論陣を張ることの出来る唯一神を持つ場合が多い。
たとえ、自分で神を殺しても、やはり神は必要だったからだろう。

もっとも日本はやや特殊で、未だに汎神に生きている人が多い。
死んだ人が神様になったり、命の恩人を神棚に祭って拝んだりする、ちょっと変わった国なのだ。
(実はこれが汎神の本質だと私は思うのだが)
ここまでは私が思う一般論。

私は、宮崎駿氏の作品を見てきて、どうも彼は「汎神」に立ち帰ることが私達の生きる道なんだ、と言っているような気がしていた。
「汎神である」ということは逆からいうと、人が目の前の物事に対して、感謝の念や畏怖の念を持つということである。
感謝の念や畏怖の念を持てば、人は傲慢にならず生きられるのではないかと。
人間はなんでも意のままに出来ると思いすぎている。
その点に関しては全く同感なのだ。

しかしながら。
人間はやっぱり自分の都合の良いように生きたい。
川が蛇行していたら真っ直ぐに直しちゃうし、ゴミの捨て場がなければ海を埋め立てるだろう。
山が邪魔なら削るし、木が必要なら森を切り倒すだろう。
人間はそれが出来ちゃうから、やってしまうのである。

結局、ナウシカの世界みたいに人間がちっぽけな存在になってしまわないことには、何処まで行っても人間は変わらないんじゃないか?という気がしてならない。
人間が自分の小ささを自覚したとき、またそこにもここにも神は満ちあふれるはずなのだ。
もっとも、そのためには、いっかい絶滅の危機に瀕しなければならないことになる。
そんなことでは困るのだが・・・。

何か良い答えがないかと思って探しているのだが、今のところ見つからない。



<後記 2002_07_30>

「労働の対価」という概念を持ち込めば、解決できるんじゃないか?思ったりしているのだが、考えがまとまらないので、またいずれ。



宮崎駿氏関連コラム
ささやかな野心
若者パワー
説教



戻る