風の谷のナウシカ

ささやかな野心 〜風の谷のナウシカを読んで〜 2002_07_12〜13

 

学生Iが私に言うのである。
「『風の谷のナウシカ』の漫画はメチャメチャ深いんですって。是非読んでください。」と。
なんと漫画版・全7巻を持ってきたのだ。
正直「うわぁー、メンドくせー」と思ったのだが、その昔学生達に無理矢理『デビルマン』を読ませたことを思い出して、観念することにした。
漫画『風の谷のナウシカ』は、昭和57年から13年もの歳月を経て完結した宮崎駿氏の描く大河ドラマである。

私は漫画『風の谷のナウシカ』を書く前に、まず映画『風の谷のナウシカ』をどう考えていたのかを書いておきたい。

私は何かを考えるとき、比較対象物を置いてみることにしている。
今の私の映画『風の谷のナウシカ』評は、『もののけ姫』を見たときに定まった。
映画『風の谷のナウシカ』はダメじゃん!って。

どうしてかというと、映画『風の谷のナウシカ』は結局「ビバ!大自然!」という話だからである。
見る側として受け入れやすい。
自然に逆らわず生きていければ、私達はまだ救われる余地があるかもしれないのだ。

しかし、それは真実ではないだろう。
『もののけ姫』にそれは描かれている。
人にせよ、自然にせよ(イノシシ、猿、etc)、要するに自分の都合で生きているのに過ぎない。
お互いの都合でせめぎ合っているのだ。
自然が正しいワケじゃない。
また、神は人間に与するものでもなければ、自然に与するものでもない。
本当の神とは、もし存在するならば、身勝手な秩序制定者に過ぎないのだ。

つまり、『もののけ姫』というのは救いがない。
「正しい」ものが何処にも存在しないんだから。
それが故にこれは真実である。
だって、私達は生きているということの不確かさに、いつも怯えているじゃないか。

とはいっても、そんなことを言っていると商業映画にはならないはず。
そこを娯楽作品として鑑賞に堪えうるだけの作品に『もののけ姫』を仕上げてきたところが、宮崎駿という人間のすごいところだよなあ、と私は思ったのである。
私の中では『もののけ姫』を持ち上げるための材料として、映画『風の谷のナウシカ』は貶められていた。

で、ようやく話は漫画『風の谷のナウシカ』へ。
私は今日第7巻を読み終え、更に検証を加えて、何かを書こうとしている。
例によって、話の内容を説明する気など私にはさらさらない。

漫画『風の谷のナウシカ』から私が受けたメッセージ。
それは「生きよ、生きよ、生きよ」ということである。
たとえその命が何かの目的のために創り出されたものだとしても、ひとたび生まれ出でたからには自らの意志で生きるんだ、と。
そして出来ることならば、笑い、喜び、慈しみ合いながら生きていきたいものだね、と。
この世界というのは、そうした生きようとすることの調和なのである。

これはかなり『もののけ姫』に近い。
時系列的に考えても、漫画『風の谷のナウシカ』を描きながら『もののけ姫』の方へ宮崎駿という人物が寄ってきたんだな、という印象だ。
それは事によると、非常に辛い精神活動だったかもしれない、という気がしている。
ナウシカが発見していく真実は、宮崎駿がかつて発見していった真実でもあるはずだから。

結局のところ、漫画『風の谷のナウシカ』はメチャメチャ深いんだ、と言っていたI君は間違っていなかったわけである。
ただ、じゃあ私達は具体的にどうすればいいのか?という問いかけに答えはない。
我々はナウシカにはなれないからね。
彼女は破壊と慈悲の混沌。
漫画『風の谷のナウシカ』を読んでも私達はただ不安になるばかりだろう。
そうと判っていながら、漫画『風の谷のナウシカ』を描き、『もののけ姫』を世に送り出した宮崎駿は驚くべき表現欲に取り憑かれた人間なんじゃないか。
CMで言っていた「凶暴な野心」という言葉が思い出されて仕方ない。

実を言えば、私もこうして書いていることが、読む人の不安を煽るばかりで何の役にも立たないじゃないか、と思うことがある。
それでも、やはり書いてしまうのである。
これも「ささやかな野心」なのだ、などと言ったら、宮崎駿氏に失礼だろうか。




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