市 天文一六(1547)年 〜 天正一一(1583)年
経歴
織田信秀の娘、織田信長の妹。小谷の方。信長の命により江北の大名、浅井長政へ嫁ぎ、一男三女をもうける。しかし天正元年に兄であった信長に攻められ、夫であった長政は自害。小谷城は落城し、三人の娘ととも城を落ち延び、信長の庇護を受けることになる。その際に男子は、叔父でもある信長により斬られている。本能寺の変後は柴田勝家に嫁ぐぎ、越前の北の庄で暮らす。しかし翌年の天正一一(1583)年に、今度は羽柴秀吉に攻められ、自身二度目の落城。しかし今度は三人の娘は城から落ち延びさせるが、自らは夫の勝家と共に自害。長女の茶々は秀吉の室となり後の淀君、次女の初は京極高次の室となり後の常高院、三女のお江は徳川秀忠の室となる。



吉乃 ???? - 永禄九(1566)年<
経歴
尾張の生駒氏の息女。はじめ尾張のとある豪族に嫁いでいたようだが、夫がいくさで討死。実家である生駒家へ出戻る。そこで館に出入りしていた織田信長の目にとまり寵愛を受ける。信長の嫡男である奇妙(のちの信忠)をはじめとして、二男一女をもうけた。織田信長が新しく築城した小牧山城へ移るが、病を発してしまいこの世を去る。



帰蝶 天文四(1535)年 − 慶長一七(1612)年
経歴
濃姫。斎藤道三の娘である。天文一七(1548)年に美濃の斎藤家と尾張の織田家との間で、攻守同盟が結ばれた。その翌年の天文一八(1549)年に織田家の嫡男であった信長の元へ嫁ぐ。信長との間に子は出来ず、その後は歴史の表舞台へ姿を現していない。ちなみにお墓は、京都の大徳寺総見院にある。
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小松  天正二(1574)年〜元和六(1620)年
経歴
徳川家の重臣である本多忠勝の娘。稲姫。大蓮院。天正一四(1586)年に徳川家康の養女として、真田信幸へ嫁ぐ。物怖じしない性格であったそうで、たとえ相手が徳川家康であっても、自分の言いたい事を言い通したと伝わっている。また慶長五(1600)年に犬伏において、夫である真田信幸と義父昌幸、義弟信繁が別れた際も、居城であった沼田城の門を閉ざし、鎧に長刀を手にして義父昌幸等の入城を拒んだ。真田家と徳川家のパイプ役となっていたと思われる。



諏訪姫  ????〜弘治元(1555)年
経歴
諏訪頼重の娘。武田勝頼の実母。天文一一(1542)年、諏訪頼重は諏訪に侵攻してきた武田信玄に捕らわれ、甲斐の東光寺で自害させられた。甲斐で人質生活をしていた所、兄の敵である武田信玄に魅入られて側室となった。そして男児(のちの勝頼)を産む。その後は故郷である諏訪の地で暮らしていた様だが、弘治元(1555)年に病によりこの世を去った。新田次郎氏の「武田信玄」では湖衣姫。井上靖氏の「風林火山」では由布姫という名で知られている。
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武田信玄  □風林火山  



千  慶長二(1597)年〜寛文六(1666)年
経歴
徳川秀忠の娘。母はお江。慶長三(1598)年に豊臣秀吉の息子の許嫁となる。慶長八(1603)年に大阪城へ輿入れをする。しかし元和元(1615)年の大阪夏の陣において、大阪城が落城。その際、夫の豊臣秀頼および姑である淀君は自刃。千は城を落ち延びた。その後、伊勢桑名城主であったの本多忠刻に嫁ぐ。本多忠刻が播磨へ転封された後は播磨姫君とも呼ばれた。本多忠刻との間に一男一女をさずかるが、息子は夭折し忠刻も寛永三(1626)年にこの世を去り、播磨本多家は断絶。本多家より江戸に戻り尼となり天樹院と号す。



玉  永禄六(1563)年〜慶長五(1600)年
経歴
明智光秀の三女。一六歳の時に細川忠興に嫁ぐ。夫の忠興とは仲睦まじい間であったと言われている。天正一〇(1582)年に父の明智光秀が本能寺にて主君織田信長を討つと、玉はたちまち逆賊の娘という事で丹後三戸野にて幽閉される。その幽閉生活はおよそ二年におよんだ。そしてキリスト教に帰依し、天正一五(1587)年に侍女の手により洗礼を受けガラシャと称する。慶長五(1600)年の関ヶ原直前、石田三成の人質に成ることを断固拒否。そして大阪の細川屋敷に火を放ち自らも死した。



松  天文一六(1547) 〜 元和三(1617)年
経歴
芳春院。前田利家の正室。幼少の頃に父が他界し、親戚にあたる前田利昌に引き取られ養われる。一二歳の時、前田利昌の四男利家に嫁ぎ、二男九女に恵まれる。ちなみに三女は羽柴秀吉の側室に、そして四女は同じく養女になっている。前田利家の死後は出家して芳春院と名乗る。また慶長五(1600)年には、徳川家の人質として江戸へ赴き、前田家の危機を救うことになる。慶長一九(1614)年には嫡男利長の死に際して金沢へ戻り、元和三(1617)年にこの世を去った。
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ねね  天文一七(1548)年 〜 寛永元(1624)年
経歴
おね。高台院。羽柴秀吉の正室。杉原謀の娘であり永禄四(1561)年に、織田家足軽頭の浅野長勝の養女として、当時の木下籐吉郎に嫁ぐ。籐吉郎との間に子は出来なかったが、縁のある者を招いて育てる。その中には福島正則や加藤清正がいた。夫の木下籐吉郎が出世して、関白に就任すると、従三位に叙せられて北政所と名乗る。さらに従一位に叙せられて、豊臣吉子を名乗る。夫である豊臣秀吉の死後は、京の東山に高台院を建立して余生を送る。徳川政権樹立後は、河内の地に一万三千石の禄を得ている。



淀  永禄一二(1569)年 〜 元和元(1615)年
経歴
茶々。信長の姪。豊臣秀吉の側室。浅井長政と市の長女。浅井氏の居城である小谷城が叔父の織田信長によって陥落この時はじめて落城を経験する。さらに母が柴田勝家の元に嫁ぐと一緒に茶々も北の庄へ身を寄せる。しかしここも羽柴秀吉に攻められて落城。三姉妹の中で一番の美貌と謳われ、のちに母の敵でもあった豊臣秀吉の側室となった。天正一七(1589)年に、鶴松を生むが早世。文禄二(1593)年に秀頼を出産し、豊臣家での地位を堅めてゆく。この頃に淀城を秀吉から与えられ、淀君と呼ばれるようになる。秀吉の死後は政治においても関与するようになり,さらに正室のねねとの間で確執が生まれ,豊臣家臣の対立を生む誘因となった。関ヶ原の合戦後は度重なる徳川側から要求を拒み続け、慶長一四(1614)年には徳川幕府の軍勢により大阪城で籠もることとなる。そして翌元和元(1615)年に大阪城は落城。淀も息子の秀頼と共に自害した。