ジュネスの想い出(4)

さて、楽譜の景色と音楽を一致させるのが難しいのは、今も変らないのだが、当時はその事自体分かってはいなかった。生意気を言っても所詮はその程度のものだったのである。春の祭典のファゴットは火の鳥やペトルーシュカに比べれば、実は難しくない。簡単とは言わないが、度胸を据えて対処すれば大丈夫だとは思う。とは言え、何も無いホールにcの高い音をで吹くのは心臓がばくばく言うのは確かだ。でも、ボレロの最初の音を吹く時の方が(デカく吹くぶんには大した事はないけれど)ビビりますが。ビビらない様にするには、とにかく間違わないで吹ける様にするしか無い。しかし、音の意味が不明確なままでは単に音を出すだけになってしまう。そして当然の帰結として、三田先生に教えを乞う。

教えて下さったのは、藝大のファゴットの部屋だった。私の相談を受けて、三田先生はいろいろアドヴァイスを下さり、私も吹いてみるのだが、どうしても「違う」と言われる。結局、レコードで覚えた様に吹いてしまうのだ。楽譜が読めないと、大して良くもない耳と記憶に頼ってしまうせいだ。もっともレコードのオケはフィルハーモニアで、ファゴットはイギリス最後のバソンの名手、セシル・ジェイムズだろうと思う。違うには理由もあったのだろう。今それを聴いて見ると、当時は違う様に聴いていた気もするが、まあ何れにしても楽譜の風景とは少し違っていた。

一体何回吹いただろう。恐らく、三田先生は一度言った事は本人が考えて分かるしか無いと確信しておられたので、私が一人で苦心している間も他の学生と話をされながら、さり気なく聴いていて下さった。その内に「そう、それでいいんだよ!」と突然言われた。アラ、自分でも何か違ったなあと思った時だった。ネックになっていたのは三連音符だった。アーティキュレーションが二つずつなので、リズムをしっかり保って吹けなかったのだ。実際、音楽のリズムはほとんどが2と3で出来ているし、一見複雑なリズムも解析するとそれで説明がつく事が多い。この時にリズムの事が多少は理解出来た気がした。もちろん足りないものが多い事に変りは無いけれど、こうして一つずつ解決するしか無かった。

最初の練習になる。指揮は代振りで確か円光寺雅彦氏だったと思う。ジュネスでは最初の数回(スケジュールによっては途中でも)はいつもそうだった。当時は彼と今村能氏(この時はいなかった)が代振りで良く来ていた。席に座ると驚いた事に、慶応のOBのY君というのが対抗馬に来ていた。随分偉そうにしていたなあ。どうも今だけはそこに座らせておくが、(私が)吹けなかったら代わってやるといった風情だった。その時の練習だが、冒頭は後回しで後半の複雑な複合拍子の所からだった。勢い込んで行っていたので、拍子抜けしたけれど練習としては妥当だろう。

実は新響にしばらく行っていた事がある。これがお金の掛かるオケで、貧乏学生の身には不釣り合いだった。いろいろ考えてもらったが金が続かず(と言うよりほとんど払わなかったが)3ヶ月ほどで抜けた。その時、芥川さんの棒で火の鳥(1919年版)、ペトルーシュカ(1911年原典版)、春の祭典を一晩でやるというプログラムがあった。入ったばかりで、火の鳥は1番のアシ、ペトルーシュカは4番+コントラ(ただこの時はコントラが吹けなかったので、トラに来ていた都響の馬場さんに吹いてもらった)、春の祭典はファゴット4番+コントラの2番だった。その時の冒頭のソロは、当時AKミュージック(現・日本ダブルリード)の社員だったOさんだったが、これも余り楽譜に合ってなかったし、楽器の故障もあってかなり悲惨だった。火の鳥もペトルーシュカも、難しくてまるで吹けなかったけれど、お蔭でいけにえの踊りのリズムは分かっていたから楽だった。そして三田先生は「春の祭典は、ファゴット吹きには幸せな曲だ」と言っておられた。実際、冒頭さえ終われば気楽なものだ。その割りに高い音で難しいとみんな思ってくれる。昔の楽器では吹けなかったから、などと巷間伝えられた事も幸いしている。でも4000番台(向井氏所蔵)のhi-dのキーの無い楽器でも自在に吹ける。むしろ楽なくらいだ。

練習の事に戻ろう。遂に冒頭の部分が始まる。この時の編成はファゴット2番が東海大、3番は成蹊、4番(コントラ2番)は成城、1番のアシ立教、コントラ1番が武蔵野のY君だったと思う。このY君というのは慶応高校ワグネルで向井氏の先輩に当たる男だ。28年も前の事なので、間違っている人もあると思うが御容赦願いたい。メンバー表はあるけれど、誰が何処かまでは今となってははっきりしない。さんざん練習したし、dを外す心配は無かったので、楽に吹くことが出来た。Y氏はその後、何も言わずに1番のアシ(だったか4番+2番コントラだったか)に廻った。(同じYですが、むろん同一人物ではありません)

追加/件のY氏がこの文章を読んで「偉そうにしていたYです」とメールを下さった。まあ、最初の印象だから悪しからず。学生時代は常に空元気で生きていたので。その後の練習では特に喧嘩した訳でも無く、皆和気あいあいでやってました。Y氏は現在市原フィルで吹いておられるとの事。それにしても、油断が出来ない。誰に読まれるか分かりません。他にも「私も出てました」というメールをもらいました。

この時の春の祭典は、若杉弘氏が本番で振る。当時、読響の常任指揮者を務めるなど、新進気鋭の指揮者だった。この後、元々東京室内歌劇場を立ち上げたりしてオペラを志しておられた氏は、ドイツでオペラを振る武者修行に赴き、遂にはゼンパオパー(ドレスデン州立劇場)のGMDにまで上り詰めた。氏は4度目の練習当たりからいらしただろうか。私の第一印象を言うとすると、氏のビートがめっぽう速かった事だろうか。肘を締めて脇に密着し、まるで鞭を振る様な指揮ぶりだった。もちろんいつでもそうではないけれど。それに勉強家であり、自身が楽譜から読み取り理解した事は、皆にも理解させずにはおかないといった風情であった。それは好ましくはあっても、嫌では無かった。大分後(私がプロになってだから10年くらい)に日本に戻られて、N響でラヴェルの「子供と魔法」を振った折りの事をヴィオラのUさんから伺った事がある。「練習の時に、ピノちゃん(氏のあだ名。ピノキオに似た風貌から来ているらしい)何かぶつぶつ言ってると思ったら、フランス語でしかも暗譜で全部歌ってたんだよ。大したもんだね」と。う〜ん、勉強家だ。未だ怠け者の私には真似出来無い。

その後の練習もさほど問題無く進んだが、冒頭のソロは中々吹かしてもらえなかった。練習で一度も吹かない事もあった。一度だけかなりやらされた事がある。ソロ途中のeの音が低いと言われ、何度やっても気に入られない。時間になってしまったが、コンマスに(慶応のS)に「チェックして置いてね」などとのたまうがそいつだって分かっている訳じゃない。何と無くお終いになってしまった。実は練習の途中の休憩で、冒頭部分に付いて三田先生に言われた事を若杉さんに話していた。どうも、この生意気な学生をやり込めてみようかと、思われてしまったのかも知れない。この時の楽器は藝大のフォックスを使っていた。楽器はともかく、eで左手小指のESキーを押さえていたのが原因なのが、今は分かる。ESキーを高音域で押さえるのは鳴りが良くなるので、悪い事ではないが不都合もある。これは典型だ。冒頭のcも実は弊害があるのだが、こうした事が本当に分かるのは随分後になってからだ。本番は同じ指で吹いてしまったと思う。その事で後悔する事にもなったのだが。それは、本番の日の事を書く時に。

練習中に印象的だった事がある。途中に8分の9拍子があるのだが、若杉さんは「ここは4ツ+1ツで振る人が半分、3ツで振る人が半分くらいの場所だ。かねがね疑問に思っていた所で、私は3ツが良いと思う。その方が音楽に合っていると思うからだ。最近はそう振る人が増えてきている。」と言われ、そうした。実は新響では前者の様に芥川さんは振っておられた。この時、若杉さんは作曲家で指揮者のミヒャエル・ギーレン(この頃初来日してN響を振った)を彼が3ツに振っていた事で、引き合いに出された。作曲家でも見解は分かれるのだろう。

さて、本番の日が近付く。

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