瓢箪から駒、と言うのはあるものだなあと思った。
大学を無事(?)卒業し、藝大の別科(ファゴットのみの専攻コース)の2年生になった。実は大学4年で別科に入り、1年間は言うなればダブルスクールだった。当時プロになろうとも、なれるとも考えていなかったので「より良いアマチュア」になる為に、と思って行く事にした。別科は他の大学にいても入れるんだよ、と三田先生に言われてその気になり入ったのだけれど。授業料も入学金も学部の学生の半分。とは言え貧乏学生の自分には払い切れるんだろうかと不安もあった。当時、深夜のアルバイトの収入は安定的にあったので、何とかなるかとは思っていたのだが。この辺の経緯はまたの機会に。
身分としては何だろう。別科は大学でも無く、各種学校でも無いし誠に妙なものだった。そのくせ学割は100%使える(大学と合わせて20枚貰えたが、そんなに要る訳は無い)のが可笑しい。定期も学生用なのだが、学歴としては書けないと言う摩訶不思議な状態だ。もちろん音楽歴としては使えるのだが。学部の学生とは(歳が違うせいもあるが)どうも差別区別がある様でやり難かったし、私も自分のファゴットがからきし駄目、と感じていた。どうしたら良いのか分からなかった。そんな事もあり、学籍は無くなっても普段練習したりしているのは、相変わらずホームグラウンドの法政大学だった。まあ、居心地の問題ですな。この辺の事は書き出したらきりがないので、話をジュネスに戻そう。
ジュネスでストラヴィンスキーの「春の祭典」をするのは分かっていた。しかし、ジュネスは現役大学生が中心なので、誰が吹くのかなと思っていた程度だった。そんな折り、後輩と飲んでいるとジュネス担当だった2年後輩のKがやってきた。開口一番「森川さん、春の祭典の1番ファゴット吹きませんか」だと。聞けば、出たがりの多い大学オケの中で1番ファゴットの希望者が無かったと言う。まあ、みんなビビったんだろうなあ。困った運営委員長が「法政のオケで別科に行っている人がいましたよねえ」と、白羽の矢が立ったそうだ。指揮は若杉弘氏、断る理由は無い。二つ返事で決まった。ジュネスではこれが初演だ。編成の大きい曲が出来る様になった現在でも、春の祭典はさすがに多くは無い。やって置いてよかった。しかし、確かに楽しくもあり、恐くもある冒頭のソロをどう処理するか考えないといけない。しかし、これがその後に不十分ながらも、楽譜を真面目に検討するきっかけになった。
カラオケほどでは無いが、聞き覚えでやっていてもアマチュアのオケ(だけで無く、プロでもそれなりに)でやって行く分には何とかなる。と言うより、ほとんどの人はそうしているだろう。真似が出来る才能があれば、少なくとも文句は言われない。楽譜から充分な情報を得るには、かなりの才能と知識知力が必要だ。自分にはある、と言いたい所だが、随分後になるまで分からなかった。続けていたから多少分かる様になっただけだろう。しかし、音楽を人に言葉でかなりの程度説明出来て(不充分な事も多い)、突っ込まれても揺るがず(良く揺れて考え込む事は多々)、何時でも同じ事が言えなければ(これは自信がある)駄目だと思う。本当に分かるのは難しい。それに、分かりたくない人は存外多い。自分と違う事を言われて、素直に聞ける人は私も含めて多くない。後で効くのは、オヤジの小言と冷や酒だけでは無いのだ。
エチュードをやっていても、そうしたうろ覚えの音楽に沿ってやるから、指が回っていても意味が分かっているとは限らない。演奏する才能が、音楽を理解する才能と同じでは無いからだ。音だけなので、頭の中の処理が違っても、同じ様に聞こえるから周りも気が付かないし、本人はもっと分からない。だからアマチュア(音大出ててもほとんどは同じだが)のオケやアンサンブルに行くと困る事が多い。縦も横も、音楽も合わないのだ。そして当然吹けなくなるし、疲れる。加えてむかつく事には、他の人達が「あの人、下手」ときっと思うだろうと分かるからだ。「何やってるの?!」と言える関係になるまでは、他人の事に関係なくデカい音で周りを従わせる様にしないと駄目だ。アマチュアには妙な信仰があって、音が大きければ「上手い」と思っている人は多い。そんな事も若い時は平気で出来たけれど、今は恥ずかしくて出来ない。やろうと思えば出来るが、自分がバカをやっている事に耐えられなくなるからだ。音楽が分かって来ると適当にも、気軽にも楽しめなくなる、と言うジレンマが此処にもある。
また話がそれたので、軌道修正。私の持っていたレコードはI.マルケビッチ指揮フィルハーモニア管弦楽団だった。当時1000円で買えるLPはそれぐらいしかなかった。楽譜を貰って見ると、どうも楽譜の景色とレコードの演奏が違う。活字に組まれたものを信じる様に、レコードを信じている時代だ。今はどちらも無条件には信じないし、自分が理解出来てないくせに、ものを言ったり書いたりしている連中が多い事も知っているが、当時は実にナイーブ(もちろん幼稚と言う意味で)だったのだ。しかし、このソロを練習し理解する事で、3連音符の感覚を身に付ける事が出来た。
兎にも角にも、今と違って(ヴェルディでも書いたけれど)気楽にレコードも買えない時代だ。2枚以上同じ曲に投資するのは大変だった。ほとんどのLPは2000〜2800円したので、当時の生活費の5%近くになってしまう。フィルハーモニアとマルケヴィッチと言えば一流とされるオケと指揮者だし、間違っている訳では無いだろう、従って真似をして吹ければ何とかなるだろうと考える。これが悲劇(喜劇?)の始まり。high-dは問題無い。この頃、さすがにeは出せなかったが、dならいつでも出せた。そして藝大に行き、三田先生にこの部分を聴いて戴く事にした。(続く)