本番の日だ。貧乏だったので、背広は一組しか無いから迷う事は無い。その一張羅を着て出掛けたのだが、待ちに待った日に何故か遅刻してしまった。寝坊だったのか? 多分そうだろうけれど、交通機関に不都合があった気がするけれど思いだせない。何せ、渋谷の駅からNHKホールは遠い。必死で歩いて、楽屋口を入る。ファゴットが来ないので、他の所から始めようかと言っている所に息急き切って駆け付けた。期せずして拍手が湧いたのはびっくり。後で「あれは演出ですか?」と言われたが、もちろんそんな事は無い。そんな余裕がある訳が無い。
楽器を急いで組み立てて練習開始、滞り無く終わったと思う。ついでながら楽器に付いてだが、私は藝大のフォックスを借りて吹いていた。これは日本に入ってきたフォックスの最初のものだったと思う。001と言う機種だ。この頃のフォックスは安くて良く鳴ると評判だったが、程なく値上がりしてヘッケル並みの値段になったのは御承知の通り。この楽器を見てフォックスにした人も結構いた様だ。この時良い楽器で吹けた事は、やはり仕合わせな事だった。
この演奏会の時に、音楽評論家の吉田秀和氏が練習段階から来られて、時折参加者達と質疑応答する機会を持ったと思うが、他の演奏会での事と混乱しているかも知れない。その中で良く覚えている事がある。ある参加者が「日本と違って、ドイツでは、空港に降りた時からクラシック音楽が鳴っているそうですが」との問いに「そんな事はありませんよ」と言下に否定された事だ。この頃の学生に外国はまだ遠い所だった。今なら自分で行けば「そんなばかな事」と言えるだろう、噂話や与太話でも真偽のほどを確かめる事など出来ない。音楽ジャーナリズムも未成熟な時代だ。しかし、独墺に誰もが憧れていたし、知りたいと思っていた。この出来事を思いだすと、その時代と青春を感じてしまうのだ。
その吉田秀和氏を囲んで、本番前に客席でトークをする、という企画があった。お前も行く様にと言われ、話をする事になった。10人ほどいただろうか、音楽や楽器の事をそれぞれに話した。
さて、本番。合唱、マンドリンオーケストラ、「春の祭典」、最後が合唱と合同演奏でブルックナーのテ・デウム(東大オケのコンマスだった大平貴規君が見事なソロを聴かせた)で幕というプログラム。開演後、待つ事1時間で出番だ。
最初のcが出ない事には話が始まらないので、気を入れてステージに向かう。不思議に上がっていなかった。相応の準備が出来ていたからだろう。若杉さんが指揮台に登場すると、当たり前だが私の方を見られた。最初の音は何の問題も無く出た。しかし、気が入り過ぎたのか少々高かったと思う。でも、比べるものが無いまったくのソロなのでそのまま吹き切った。途中で入るホルンが音を外したのは私の所為か、本人の所為か...。dが一度出損ねたが、少し遅れただけで何とか自分の役割を終えた。春の祭典は冒頭が終われば、ファゴットに取ってはそんなに大変な曲では無いのだ。変拍子複合拍子は分かってしまえば、どうと言う事も無い。若杉さんが2部の11拍子の所で1拍足りなく振り違えられたがオーケストラは混乱せず、このミスは御愛敬だった。何かこうした事があった方が本番の想い出になる。ヴェルディでフーガを作った私としては、多少の救いになる。終了後もステージで立たせてもらい、実に幸せな一時だった。
終わるとNHKの食堂で、打ち上げがあった。余りしない事だったが、この時はさすがにマエストロのサインをねだる列に加わった。結構な行列が出来ていた。順番を待っていると、私に気付かれた若杉さんが10人ほどを飛ばして先にサインして下さった。皆もそれは納得してくれた。この時の"Bravo!Bravo!!Bravo!!!"と記してあるプログラムは今も青春時代の宝物だ。多分、二次会にも行ったのだろうけれど、さすがに余り記憶に無い。後の話だが、吉田秀和氏がこの演奏会の事を朝日新聞に書かれ、嬉しい事に大平君のヴァイオリンに次ぐお誉めの言葉を戴いた。
当然ながら、ひと月ほどしてこの時のテレビ放送があった。テレビを持っていなかったので、白黒だったが後輩の家で見た。驚いた事に、春の祭典が始まる前に客席でのトークが入り、当時はまだまだ少なかったファゴットという楽器の面白さを伝えたい旨を話し、「でもこの曲は私がいないと始まりません」と言った途端ステージでのクローズアップ、そして私と若杉さんのアップの切り替えながら曲が始まったのには予想していなかったので、ど肝を抜かれた。後から後輩に「あれはずるいですよ」と言われたが、私の企てではもちろん無い。カラーで見たかったし、VTRがあれば録画したかった。私だけで無く、あの頃ジュネスに出た人はきっとそう思っているだろう。私も含めて、かつて出演した人達に頒布する事をNHKにお願いしたい。著作権と隣接権の問題はあるだろうけれど、アーカイヴにある事は分かっているのだから有料で良いので、是非そうしてもらえないものだろうか。切なる願いである。
加えてジュネスの復活も望みたい。NHKの受信料はこうした活動にこそ役立てて欲しいと思うのだ。(春の祭典篇/終わり)