「松館今昔:松館の由来」

松舘精左衛門精長

 松館の舘主は、智仁勇兼備の松舘精左衛門精長であった。
 ところが舘主精長卿は、無実の罪を蒙って悩んでいたところ、 正安2年(1300、一説治安2年)の旧5月25日の夜半に、貴人(菅原道真公のこと) が枕元に来臨して、精長卿の罪を消滅し、また人々の罪障や災害を退けて下さった。
 
 そこで精長卿は舘内に社殿を造営し、天満大自在綱乘天神宮と崇め奉り、 里人と共に萬歳楽を唱えて慶祝した。そのうちに夜が明けたら、不思議にも珍しい 数々の松が生え、そのうちの一本が、鏡松と云う。
「松舘天神宮縁記」参照
 
 ところで、鹿角の全貌が歴史上に具体的に、かつ途切れることなく記録されるように なったのは、鎌倉幕府が成立し、東北地方を全面的に掌握した、正安の頃(1300〜) 以降である。
 
 それ以前の鹿角辺りの出来事は、
@坂上田村麻呂の蝦夷征伐(802〜)、元慶の乱(878) などで東北地方は混乱していたり、
元慶の乱参照
Aまた915年に起きた十和田湖の大噴火で、殆どの物 − 建物や財産 − は失われて しまったり、
十和田湖の大噴火 参照
Bその後、平泉の藤原一族が繁栄したが、それも鎌倉幕府の東征により、いわゆる「北東北」辺りは混乱していたり、
などのためであろうか、歴史として記録される事柄は、断片的である。
 
 以上のように、松館などこの地方の集落は、度々戦乱や自然の被害を蒙ってきたが、 正安より以前から、乃至はもっと以前から、それなりに「集落」として形成されていた ものと考えられよう。

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