大湯環状列石:〔51〕十和田湖の噴火とは? |
△十和田湖の成り立ちと平安時代に起こった大噴火 (2) 平安時代に起こった大噴火 京都延暦寺の僧侶によって平安時代に書かれた『扶桑略記』(ふそうりゃっき)の延 喜十五年(915年)七月の条に、「915年8月18日の朝日には輝きがなく、まるで月のよう だった。人々はこれを不思議に思った。8月26日になって、灰が降って二寸積もった。桑 の葉が各地で枯れたそうだ、と出羽の国から報告があった。」(日付はユリウス暦に直 した)という記述がある。これは十和田湖のもっとも新しい噴火を記録したものと考え られる。 十和田湖の噴火堆積物のうち、最上位にあるのは発荷(はっか)峠の地表をつくる厚 さ2mの毛馬内(けまない)火砕流堆積物である。この堆積物は、谷底だけでなく尾根の 上にも薄く広く分布している。毛馬内火砕流は猛スピードで四周に広がり、五色岩火山 の上に開いた噴火口から測って20km以内のすべてを破壊しつくした。 疾走中の毛馬内火砕流の上には火山灰を多量に含む熱い入道雲(サーマル)が立ち上 がり、それはやがて上空の風で南へ押し流され、仙台市の上空まで達した。 仙台市の陸奥国分寺では、古記録で870年と934年に対応する遺物に挟まれて、この入 道雲から降下した火山灰がみつかった。また秋田県鷹巣町の胡桃(くるみ)館遺跡では、 902年の年輪をもつ杉材がこの火山灰におおわれている。 中緯度地方の降下火山灰は上空の偏西風に流されて噴火口の東に分布することが普通 であるが、この火山灰が南に分布している異常は、上空の西風が弱まる夏期に噴火が起 こったとすると説明しやすい。『扶桑略記』の噴火記述が晩夏であるのは、それを十和 田湖の噴火であるとみる考えと矛盾しない。 京都は十和田湖から800km離れている。火山灰を運ぶ上空の風の速さは、ジェット気流 (西風)で時速100km程度、北風の場合はもっと遅いから、京都から見える水平線の位置 で朝日の見え方に影響を与えるためには、噴火はその前日に起こっていなければならな い。したがって、毛馬内火砕流の噴火は915年8月17日に起こったと考えられる。 この噴火では50億トンのマグマが噴出した。浅間山の1783年噴火(7億トン)、雲仙 岳の1991年噴火(4億トン)より桁違いに大きい。十和田湖のこの噴火は、過去2000年 間に日本で起こった噴火のなかで最大規模である。 噴火の最終段階で火道を上昇してきたマグマは、五色岩火山の中腹に開いた火口から 少し盛り上がったのち、斜面を北と東へ流れ下って御倉(おぐら)山を形成した。中湖 に面した千丈幕の崖には、斜面をわずかに流れた厚い溶岩流の特徴である垂直方向の規 則正しい柱状節理がみられる。 米代川流域でしばしば出土する平安時代の家屋や器は、この噴火後まもなく発生した 大洪水によって埋められたものである。地形的に不安定な毛馬内火砕流堆積物がこの大 洪水発生の誘因となった。菅江真澄(1754-1829)は、文化十四年(1817年)の豪雨のあ とに出現した埋没家屋のスケッチをなまなましく描いている。 十和田湖の最近の噴火が平安時代に起こったことは出土遺物の種類と年代からみて確 かであるが、噴火を記した古記録は、現地では、みつかっていない。このため、毛馬内 火砕流以外の事件(たとえば噴火の開始、御倉山溶岩流の形成と噴火の終了、米代川大 洪水の発生)の日時の特定はまだできていない。 (H18.02.11)
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