[詳細探訪]
 
               参考:(株)平凡社発行工藤雅樹著「蝦夷の古代史」
 
〈元慶ガンギョウの乱のこと〉
 元慶の乱とは、元慶二年(878)三月十五日、秋田の蝦夷、即ち俘囚が反乱を起こし秋
田城を襲い、秋田城・郡院の屋舎・城辺の民家などを焼いたことに始まる。当時秋田城に
は国司の次席である介スケが駐在することになっており、鎮秋田城国司と云われていた。
秋田城に駐在していた国司は漸くのことで脱出し、事態を国府に報じた。出羽国府は山
形県酒田市の城輪キノワ柵遺跡と呼ばれる処にあった。
 事件の経過は『三大実録』の他に、事件の収拾に携わった藤原保則ヤスノリの伝記『藤原
保則伝(三善清行ミヨシキヨユキの著)』などで詳しく知ることが出来る。
 
 国府にあった出羽守藤原興世オキヨは朝廷に急を告げると共に、秋田城や雄勝城所属の兵
士を以て反乱の拡大を防がせ、また出羽国内の諸郡からも兵士を徴発して秋田城を攻め
させた。しかし相手(俘囚)側の人数の方が多く、然も日毎に増加すると云う具合であ
り、その上出羽国の武器類の大部分は秋田城にあり、それが城と共に焼けてしまってお
り、大敗を喫してしまった。このような状況なので、朝廷では陸奥国に対しても、出羽
国を応援するよう命じた。
 
 出羽国の側では、野代営ノシロエイに六千人の兵士を派遣して守りを固めようとしたが、兵
士が野代営に辿り着く途中の焼山と云う処で、一千人に及ぶ反乱軍(俘囚)の待ち伏せ
に遭い、五百人以上が殺されたり捕らえられたりしたと云う。
 朝廷は度重なる敗戦に、陸奥・上野・下野の諸国に合計四千人に上る応援の兵を出すよ
う命じた。しかしこの間にも反乱軍の勢いは益々強く、「秋田河以北の地域を自分達の
地とする」との要求を出すなど大いに気勢が上がっていた。この段階では度々の合戦で
も蝦夷側の勢いが強く、政府軍は苦戦を強いられ、逃散する者が相次ぎ、陸奥国から援
軍を率いてやって来た陸奥大掾藤原梶長カジナガも、山道を求めて逃げ帰ったと云う。
 
 この頃の反乱軍の根拠地は、今の秋田市以北の八郎潟周辺から米代川流域に及ぶ広範
囲な地域の、上津野カヅノ(鹿角市)、火内ヒナイ(比内町・大館市)、榲淵スギブチ(鷹巣町・
阿仁町)、野代ノシロ(能代市)、河北カワキタ(琴丘町・山本町森岳)、脇本ワキモト(男鹿市脇
本)、方口カタクチ(八竜町浜口)、大河オオカワ(五城目町・八郎潟町)、堤ツツミ(井川町)、
姉刀アネタチ・アネト(五城目町)、方上カタガミ(昭和町・天王町)、焼岡ヤケオカ(秋田市金足)の
十二村であった。
 また、津軽の蝦夷は、反乱軍に味方しているかどうかははっきりしないが、もしそう
であれば大変なことであり、大軍を以てしても制することは不可能であろう、と云うの
が政府側の認識であった。津軽の蝦夷は多くの党に分かれており、天性勇壮であって、
常に戦いを事としているからであると云うのである。津軽の蝦夷のこのような状況は、
この時期の蝦夷社会の様相をよく伝える証言と云うべきであろう。
 
 このほかの蝦夷では、反乱に加わって戦ったり、或いは秋田城の南に接する地域にあ
る添川ソエカワ(秋田市旭川)、覇別ハベツ(秋田市太平川)、助川スケカワ(河辺町)の三つの
村などは、反乱に加わらなかったと云う。
 政府側は事件解決のために、当時有能な地方官として名のあった藤原保則ヤスノリを起用
した。保則はこの時には右中弁(太政官の事務機構を担った右弁官局の幹部)であった
が、先には備前国・備後国の国司として善政を行い、良吏の誉れの高かった人物と云う。
保則は出羽権守に任じられ、権掾に任じられた清原令望コレモチ、権大目に任じられた茨田
貞額マンダノサダヌカと共に任地に向かい、六月末には現地に到着したようである。
 
 保則は反乱軍に対して国司の非を認め、苛政カセイを行わないと云うことで、戦いを拡大
させずに反乱を収める手段を探った。保則は、自分の片腕として都から伴って来た鎮守
将軍小野春風に命じて交渉を行わせ、春風は遠く上津野カヅノの方まで出掛けたと云う。
春風は父石雄イワオも陸奥国の官人であったので、蝦夷の言葉を話すことが出来、これは交
渉に大変効果があった。
 このようにして事態は次第に解決に向かい始め、七月から八月にかけて政府側に降を
求める者が続出し、十月には三百余人の蝦夷が秋田城下にやって来て降を請うた。そし
てこの時には、権掾文室有房フンヤノアリフサと藤原滋実が単身で賊の許に赴き、その降を聞き
届けたと云う。こうしてこの年の末までに、事件は収まったのであった。
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