〈蝦夷との交易〉
 元慶の乱の基本的な性格が地方の役人の苛政に由来するとの見方は、政府側にも蝦夷
側にもあったようである。事件の頃、秋田城は政府が直接支配していた北限の地であっ
た。しかし反乱軍の主体は秋田より北の、直接には政府の支配の外の地域の人々であっ
た。このような地域に対して、地方官はどのような関わりがあったのだろうか。
 菅原道真の『菅家後集カンケコウシュウ』に収められた「哭コク奥州オウシュウ藤使君トウシクン」と云う
詩は、延喜元年(901)に没した陸奥守の藤原滋実の死を悼んだものであるが、それに
は、下僚には財貨に賎しい者が多く、彼等は蝦夷との交易によって金、皮衣、鷹、馬な
どを入手し、それらを都に持ち帰って贈物とし、更に有利な官を得ようとしていること、
また蝦夷との交易はうまく行けば利益が莫大であるが、交易における障碍トラブルが元で変
乱が起こると述べられている。なお藤原滋実の父は、元慶の乱の時の出羽守藤原興世で
あり、当時滋実は父に従って出羽国に居り、様々な形で事件に関わっていたのである。
 
 蝦夷との交易には、国家自体も大きく関わっていた。陸奥国や出羽国が都に貢上すべ
き品目を見ると、鹿の尾、熊の膏、昆布、砂金、薬草があり、『延喜式』では交易雑物
コウエキザツブツとして陸奥国は葦鹿皮、独干ドッカン(獣扁+干)(山犬のような獣)皮、砂
金、昆布、索昆布、細昆布が、出羽国は熊皮、葦鹿皮、独干(獣扁+干)が挙げられて
いる。
 秋田城や胆沢イサワ城の任務の中には、交易によって北方の産物を入手することがあった
のであるが、実際にそれらの任務に当たる官人は、ある場合には王臣家と結託し、また
自己の利益のために、蝦夷に対して不公正な交易を強要したものと想像出来る。しかし
ながら、蝦夷の側でも交易によって入手する様々なな鉄製品、繊維製品、米、酒、塩な
どは、必要欠くべからざるものであった。
 
 元慶の乱の中心となった勢力は、政府側の直接支配の外にあった秋田県北部の蝦夷で
あるにも拘わらず、彼等が地方官の苛政を訴え、政府側もこれを認めたのは、蝦夷社会
に対する政府側の影響力が無視出来ない程強かったことを示すものであろう。事件の解
決が年内になされたのは、生活の可成りの部分を政府側に頼らざるを得なくなっていた
蝦夷側の事情もあったのである。
 そして政府側と蝦夷との交易の輪は、北海道にまで及んでいた。延暦二十一年(802)
には渡嶋ワタリシマの狄エゾ(エビスとも)が来朝して種々の皮を貢ずる時に、出羽国司は王臣
諸家が競って好い皮を買い、悪いものを官に進めることを見逃してはならない、と云う
法令が出されている。渡嶋の狄とは北海道の蝦夷のことで、陸奥側の蝦夷と出羽側の蝦
夷を区別する場合には、出羽側の蝦夷は狄と呼称されていたのである。北海道の蝦夷が
皮革を交易品として、政府側から様々な品物を入手しようとしていたことが知られるの
である。
 
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