東野圭吾さんについて

本物の大衆小説作家、東野圭吾さんの魅力を私ごときの文章力で語り尽くせるとは思いませんが、ひとりでも多くの方に新たに読者として加わっていただきたいと願っています。ところで私見になりますが、戦後日本文学界最高の作家のひとり(しかも最も過小評価されている作家)北杜夫(川端某や大江某ではなくこの人こそノーベル文学賞にふさわしかった)の遺伝子の一部を、東野さんが確実に受け継いでいるとは言えないでしょうか。(1999年9月2日記)

初めて読んだ東野さんの作品は、実は小説ではありませんでした。当時(1998年5月)文庫化されたばかりの自伝風エッセイ「あの頃ぼくらはアホでした」だったのです。なんの予備知識もなく、新幹線の車内での時間つぶしのためにたまたま手にしたのですが、ほぼ同世代の東野さんのエッセイには共通する思い出も多く(小学生の頃のゴジラやガメラ、中学生の頃のビートルズなど)、味わい深いユーモアのあふれる文体の魅力も相俟って、ぐいぐい引き込まれていきました(この種の自伝風エッセイとしては数多の作家の数ある作品のなかでも最高級のもののひとつだと思います)。それで興味を持って読んでみた最初の小説が「パラレルワールド・ラブストーリー」。どんでん返しの連続がスリリングなSF風ミステリー。私のなかでは今でも東野作品ベストスリーに入る(あとは「秘密」と「天空の蜂」)傑作にいきなり出会ってすっかり夢中になり、その後約半年で当時刊行されていた全作品を読破してしまいました。
東野圭吾さんは1958年大阪生まれ。大阪府立大学電気工学科を卒業後、日本電装に生産技術エンジニアとして勤務。1985年「放課後」で第31回江戸川乱歩賞を受賞後、専業作家に。デビュー時は期待の本格推理小説作家と目されていましたが、徐々にその作風を広げ、推理小説だとかミステリーとかいう枠には収まらない当代一流のエンタテイメント作家の地位を築きあげています。東野さんの作品は、理系出身ならではの豊富な知識と綿密な取材に裏打ちされた精緻な舞台設定を背景に、人間が生きることの切なさや喜びをみごとに描き出しています。社会性も十分にあります。しかもそれが「純文学」もどきのものに堕することなく(私の苦手な高村薫さんのことです)、豊潤な物語性を帯びた極上のエンタテイメント作品として成立しているのがすごいところです。これは東野さんの最大の武器のひとつである明快な文体のなせるわざでしょう。あまりにも読みやすいので見過ごしてしまう人たちも多いかもしれませんが、これだけ説得力のある文章を書ける作家はそうはいないはずです。これこそが「知性」です。
もちろんその作風の幅の広さにも触れておかなければならないでしょう。「どちらかが彼女を殺した」「私が彼を殺した」のような実験的な推理小説があるかと思えば、「浪花少年探偵団」シリーズのような大阪の下町を舞台にした人情味あふれる作品もある。さらには「名探偵の呪縛」「名探偵の掟」のようなちょっとシュールな推理小説パロディーもあります。スキーのジャンプ競技を扱った「鳥人計画」、音楽ならぬ光楽を楽しむ新しい人類の誕生をめぐる「虹を操る少年」、最先端のコンピューター技術を背景にした「パラレルワールド・ラブストーリー」。
広末涼子さん主演で映画化された「秘密」は突拍子もないシチュエーションをリアルに描いた恋愛小説と言えるでしょうし、「白夜行」は東野流悪漢小説。「怪笑小説」「毒笑小説」のようなブラックユーモアもみごとです。原発をテーマに「天空の蜂」以上のエンターテインメント作品を書くことのできた作家がいたでしょうか。そして現在『週刊文春』で連載中の「片想い」ではとうとう性同一性障害用語についてを参照)を題材にとっています。これだけ多様な作品群を前にすれば、だれもがそのどれかに興味を惹かれるはずです。作品の数だけ入り口がある。それも東野圭吾さんの小説の大きな魅力だと言えるのではないでしょうか。


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