秘密

1998年8月、文芸春秋刊。第52回日本推理作家協会賞(長編部門)受賞。1998年「本の雑誌」が選ぶ日本ミステリー第1位。1998年「週刊文春」選傑作ミステリーベストテン第3位。1999年9月、滝田洋二郎監督、広末涼子、小林薫主演で映画化。杉田平介の幸せな家庭を襲った突然の悲劇。妻の直子、娘の藻奈美の乗ったバスが転落事故を起こす。娘の藻奈美だけが一命をとりとめるが、信じられないことに人格は妻の直子と入れ替わっていたのだ。二度目の青春を謳歌する直子と、娘の体を持った妻にとまどい疎外感を味わう平介。バス事故の真相が明らかになるとともに、事態は意外な展開を見せる。(1999年9月2日記)

心と体の入れ替わりをモチーフにした小説は数多ありますが、「秘密」はそれを単なる荒唐無稽なファンタジーに終わらせず、リアリティーを持たせることに成功しています。それはなんと言っても人間がきちんと描けているからでしょう。いやむしろ、人間を描くことが目的で、心と体の入れ替わりはそのために用意された小道具に過ぎないと言ってもよいのかもしれません。
この小説はもっぱら主人公である杉田平介の目を通して語られていきますが、娘の体を持つことになった妻に対するとまどいと混乱、二度目の青春を謳歌する妻に対する嫉妬と疎外感。妻の男性関係に対する疑心暗鬼。断念せざるを得ない夫婦間の性交渉と、他の女性へ惹かれていく心。そういったもろもろを決してきれいごとでは済ませることをせず、人間の持つ弱くて情けなくて醜くて滑稽な面(とりもなおさず最も人間的な面)がごまかされることなく淡々としかもユーモアも交えて描かれていきます。そういった平介の心の動きには、読者が男性であれ女性であれ、容易に感情移入することができるはずです。
東野さんの主要作品の多くが複雑に張られた伏線を背景にスリリングに展開していくのに比べ、この作品の本線となるストーリーは意外なほどまっすぐに進んでいきます。一方でバスの転落事故の真相追求という読者の推理小説的な関心を惹きつけるテーマが本線と絡みながら展開していき、作品は一種の二重構造をとることになります。作品の後半でバス事故の真相が明らかになるとともに、肉体の持ち主である藻奈美の意識が目覚めはじめるという意外な展開を見せますが(一度目のどんでん返し)、このままエピローグへ進むと思いきや、最後の数ページになって結婚指輪をめぐるエピソードをきっかけに、二度目のどんでん返しが用意されます。ここに至って読者はようやく「秘密」というタイトルの意味するところを理解することになるのですが、この最後に明かされる「秘密」については読む者によってさまざまな受け止め方が可能だと思います。私には、一貫して平介の苦悩が語られていながら、その実この小説は、平介の目を通して描かれていた妻、直子の悲しみと苦しみがテーマだったのではないかと感じられました。語られることのなかった直子の気持ちがありありと浮き彫りにされているのです。
そして感動の最後の2行。涙がぼろぼろと流れるのをどうすることもできませんでした(というよりも、ここで泣かない人はいないでしょう)。平介の苦悩はとりもなおさず、直子の苦悩でもあったのです。しかしながら単なるお涙ちょうだいに堕することがないのは、永遠の「秘密」を守り通す覚悟と諦念の彼方にほのかに明るく見え隠れする未来が感じられるからではないでしょうか。しかも深刻なテーマなのに全体を通してユーモラスな味わいも感じられます。東野さんは心憎いほどのバランス感覚を見せてくれるのです。くり返しになりますが、心と体の入れ替わりは単なる小道具。
東野さん流の恋愛小説、それも人間味あふれる夫婦間の愛を描いた極上の恋愛小説。読み終わった後にあれこれと語りたくなる作品です。


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