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道尾秀介
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光瀬龍
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SYUSUKE MICHIO
道尾秀介
「背の眼」
形態
単行本
種別
ノヴェル
部門
長編
出版
幻冬舎
値段
¥1800
初版
2005-01-20
総合
−
ストーリィ
−
技術
−
2004年度の <第五回ホラーサスペンス大賞> において特別賞を受賞した、道尾秀介のデビュー長編。ちなみに一つ上のグランプリ(大賞)作品は
沼田まほかる
の
「九月が永遠に続けば」
。
ホラーサスペンス大賞の受賞作ではあるが、大雑把な分類としてはむしろ推理小説――ミステリだと判断するのが妥当だろう。
大賞受賞の「九月が永遠に続けば」は、新人離れした著者の技術力が買われた作品であるが、どちらが売れる商品かと問われれば、むしろ特別賞を受賞した本作の方ではないかと思われる。
もちろん大賞と特別賞との技術差は顕著で、その点においては改めて比較する気にもなれない。しかし沼田まほかるの「九月が永遠に続けば」は、ある日とつぜん家族の1人が蒸発するという事件を地味に淡々と描いた作品である。
あるべきものが唐突に消失するという、いわば誰の身にも起こりうる恐怖を題材としているためリアリティに飛んでいるが、反面、人間関係が複雑すぎてもはやファンタジー的であったりとチグハグな面も目立つ。
なにより展開が地味で、結局この作品でなにがやりたかったのかも不明。エンタテイメントとしては致命的に盛り上がりに欠ける。
高い技術をもって製作された物であっても、良く売れるとは限らない。物の売り上げを左右するのは、ある意味で演出効果次第であったりもするのだ。
その演出面での弱さ「九月が〜」に顕著である反面、本書「背の眼」は演出が上手い。
結局、軽く読めて大きな刺激を得られる物語が <売れ筋> であるからして、掴みやすいキャラクターと人間関係、ある意味単純で集中できるストーリィ展開、楽しみどころの分かりやすさなどが、エンタテイメント系の作品としては不可欠な要素なのである。
「背の眼」は、「九月が〜」よりはこの点に優れていると言えるかもしれない。よりライトノヴェル的、と言い換えても良い。重厚で濃密な「九月が〜」は表紙をめくって本文を読み進めていくのにエネルギィを要するが、「背の眼」は手軽に気楽に読める。
同じ文学新人賞の受賞作同士でありながら、まったく方向性が異なり、しかも読者層も違ってくるであろう。この辺りは大変に興味深いところである。
「背の眼」が演出重視の作品であることは、やはりその具体的な内容を追っていくと分かりやすい。
主人公は売れない壮年の男性作家と、その学生時代からの友人で、心霊現象を研究する美貌の変人男性。後者をいわゆるホームズ型の探偵とし、前者を探偵の活躍を記録する助手役――すなわちワトスン的ポジションにおいてストーリィは展開していく。
うだつの上がらない貧乏作家と、対照的にスタイリッシュで奇抜な性格をしたハンサムな探偵役。みごとに分かりやすい。漫画的、ライトノヴェル的な個性のつけかたであり、特徴を掴みやすいように記号化された人物が中心にすえられているわけだ。
そんな彼らが追うのは、「背中に人の眼」が浮き出て見えるという心霊写真の謎である。これはある片田舎で撮影された写真で、その田舎町に何らかの形で関わった者たちが、単なる観光客も含めて何人も自殺するという事件が付録としてついていた。
天狗の伝説が残るその街では、ほかにも子供が複数「神隠し」にあい、そのうちの1人は首だけの死体で発見される、という行方不明事件もかつて発生していた。
小さな田舎町で同時多発的に起こった事件としては、あまりに奇妙であり不自然。すべての現象は何らかの必然で繋がれた、互いに関連性をもつ事件なのではないか。
作家と心霊現象研究家は、現地の旅館を拠点に独自の調査を進めていく。
巻末の選評で、同賞審査員をつとめた綾辻行人が指摘しているように、本書は全体的な雰囲気や世界観、キャラクターの基本設定、ストーリィ展開、オチに至るまで、京極夏彦のシリーズ作品を彷彿とさせるものになっている。人によっては安易な模倣に見えるであろうし、著者は恐らくそれに反論する資格を持たない。影響は如実に見て取れるものの、本家を超える要素や独自のアレンジを加えた部分が見受けられないからだ。これではデッドコピー、劣化コピーと揶揄されても仕方がないだろう。
綾辻行人
はこれをエピゴーネン(軽蔑すべき模倣者)とするより、若者による熱烈なオマージュとして解釈する、としているが、そうはとらない人間もまた多いだろう。
大賞受賞作と比較したときに目立つ技術的な拙さと、こうした模倣作としての側面。これらは、本書を評価するうえで避けて通れないポイントとなっている。どのように作用し、どのように判定されるかはその読者によるだろう。
ハードカヴァーで2段組、400ページ近い作品であるが、前述したようにライトノヴェル的・漫画的な演出と味付けがされているため手軽に一気に読める。巻末には、同賞選考委員を務める
桐野夏生
、綾辻行人、
唯川恵
の三者による、各人2ページずつの選評あり。
2005/08/05
RYU MITSUSE
光瀬龍
「百億の昼と千億の夜」
形態
文庫
種別
ノヴェル
部門
長編
出版
角川文庫
値段
¥680
初版
1996-12-25
総合
☆☆☆
ストーリィ
☆☆☆
技術
☆☆
初出は、 <SFマガジン> 1966年09月号〜1966年8月号。連載終了後、早川書房より『日本SFシリーズ11』として1967年01月15日に刊行。判型は小B6版だった(354頁、400円)。同書はこの後もデザインや判型、出版社を変え何種類か出版されている。1973年04月15日には、早川文庫(JA006)から、1980年10月06日には角川文庫から、1996年のクリスマスに角川文庫 <リバイバルコレクション> として本書が刊行されている。
なお、2番目(1973年)に早川文庫から刊行する際、著者が結末部分に若干の加筆を入れている。よって、1973年以前と以後に刊行されたものの間には、若干の相違が存在することを付け加えておく。
ここで紹介するのは、一番新しく(1996年)刊行された角川文庫リバイバルコレクションの1冊である。解説は本書の長年のファンであった中島梓(栗本薫)。……ただしこの角川文庫リバイバルコレクション版、既に絶版となっている模様で、今から書店で新規購入するのは難しいかもしれない。現在、この「百億の昼と千億の夜」を読むためには、版を重ねて未だに存在している <早川文庫> 版で入手するほか手はない。
躊躇うことなく三ツ星をつけられる作品というのはそう無い。この「百億の昼と千億の夜」は、その数少ない例外のひとつだ。個人的に特別な1冊と言っても良い。
この作品は、日本SF界の金字塔として良く例に持ち上げられる作品だが、ジャンルという枠に押し込んでどうこうなるものでもない。とにかくスケールが壮大で、宇宙の創世と終焉、神、時間などといったテーマが根底ある。
誰もが一度は考えたことのある「神とは何者で、どこにいるのか」「この宇宙を作ったのは何者か」「時はどこから始まってどこで終わるのか」……といった疑問の中核に超越者 <惑星開発委員会> を置き、これにギリシアの哲人プラトン、釈迦国の王子悉達多(ブッダ)、そして少女の姿をした阿修羅王の3名が挑むといった物語になっている。
個人的に、修羅の王が少女だという発想――「阿修羅王」の存在が衝撃的だった。
できるだけ若いうち、理想を言うなら中高生といった思春期の少年少女に手にとってもらいたい1冊。歳を取るとなまじ世間に揉まれた経験を持つから、調子に乗って世の中の全てを知り尽くしたような傲慢な人間になりやすい。第一、年齢を自覚するような人間は自分のことに手いっぱいで、本書のテーマである神や悠久の時の果て、我々の種族としての行く末などに思いを巡らせる余裕などありはしない。世界を外に広げるどころか、なるべく小さく縮めていって面倒事をできるだけ排除する方向に向かう。素直にこの世界を受けとめるだけの柔軟性など失われて久しいのだ。だからこれは、モラトリアムの特権をいかして読んでほしい本なのである。
――なお、本書には萩尾望都がてがけた漫画版が存在する。同名タイトルで秋田書店から刊行されているので、補完的な意味で是非一読して欲しい。SFファンからも非常に高い(ほとんどこれ以上ないという)評価を受けており、それに相応しい出来となっている。原作世界を上手く表現しているのだ。もちろん、私のお気に入りである阿修羅王も素晴らしい描写で再現されている。イメージの大いなる助けとなるだろう。
最後に、本書の著者を紹介しておく。筆名、光瀬龍。1928年東京生まれ。本名、飯塚喜美雄。東京教育大学理学部動物学科卒業。卒後、同校哲学科に学ぶ。その後、都内の女子高校で生物学及び地理学の教鞭をとる傍ら執筆を開始、同人誌 <宇宙塵> に参加。1960年『同業者』という作品で <ヒッチコックマガジン> から商業紙デビュー。
1962年、 <SFマガジン> 5月号に『晴の海 1997年』で登場、本格的な作家生活に入る。1966年、 <SFマガジン> で『百億の昼と千億の夜』の連載を開始。翌年、早川書房より出版。東洋的無常観を基調とした壮大なスケールの宇宙叙事詩として高い評価を得た。
その他の主な代表作は、『宇宙年代記シリーズ』、NHKでドラマ化された『夕ばえ作戦』など。『喪われた都市の記録』『たそがれに還る』などの硬派な作品から、『宇宙航路〜猫柳ヨウレの冒険〜』『魔導師リーリリの冒険』等、今で言うライトノベルのようなテイストの作品、ジュヴナイル作品も手がけている。時代小説にも『秘伝宮本武蔵』など名作が多い。1999年07月07日没。享年71歳。
追記:2004/02/29
「復讐の道標」
形態
文庫
種別
ノヴェル
部門
長編
出版
ハヤカワ文庫
値段
¥240
初版
1975-04-15
総合
−
ストーリィ
−
技術
−
平凡社の <POCKETパンチOh!> 1974年07月号〜1975年01月号に全7回に渡り連載、その後ハヤカワ文庫から刊行された文庫本。値段が安いのは約200ページの薄い本であることと、1975年刊行の初版本の値段であるから。――現在は絶版になっているので、古書店でしか入手はできないだろう。
主人公は小島良介という、3度目の大学受験に失敗して失意のどん底にある浪人生。厳格な父と実家の電気店の手伝いをしている兄を何とか説き伏せ二浪までは許しを得ていたものの、三浪となると彼らの説得は極めて困難。父兄が自分を使い走りの店員として起用し、人件費を節約したがっていることを知るからこそ、もう逃げ場はないと良介は落ち込む。
そんな良介は、ひょんなことから立ち入ったスナックで奇妙な女の悲鳴を聞く。店員に確認してみたところ、急に彼らは険悪になり良介は店から叩き出されてしまう。しぶしぶ日常生活に戻り、ついに実家の手伝いをさせられることになった良介だが、例の女の悲鳴が気になって仕方がない。
そんなおり、良介は身に覚えのない宅配便を受け取る。首を傾げながらも中身を検めてみると、それは懐中電灯のような形をした奇妙な機械で、説明書には <瞬間移動> ――すなわちテレポーテイションを可能とさせる特殊な装置だと書かれていた。
悪質な悪戯であると確信しながらも、半信半疑で機械の使用を試みる良介は、気になっていた女の声の正体を確認するため、例のスナックの2階をジャンプ先の座標に指定するが……。
簡単にまとめてしまうと、少年少女向けのジュヴナイル小説。映画で言うとB級SFということになるだろう。瞬間移動やタイムスリップなど、使い古された――1974年当時はそうでもなかったのかもしれないが――ネタが盛りだくさんで、現代人が無邪気にこれを楽しめるかは疑問である。
連載元の雑誌はアダルト色の強いものだったらしいから、随所に散りばめられたそういうシーンに胸を高鳴らせつつ、中学生くらいの少年が楽しむのが正解なのだろう。
2004/02/29
MIUKI MIYABE
宮部みゆき
「魔術はささやく」
形態
文庫
種別
ノヴェル
部門
長編
出版
新潮文庫
値段
¥552
初版
1993-01-25
総合
☆
ストーリィ
−
技術
☆
先日、本書を再読した。数年ぶり――ひょっとすると前回から10年程度の時を経ていたかもしれない。それにも関わらず、物語の大雑把な流れやトリックなどを記憶していた。それだけ、印象深い作品であったのだろう。
個人的な話になるが、本作「魔術はささやく」は私が最初にふれた宮部作品である。まだ学生の頃の話である。当時の私には、週に一度、土曜日に必ず図書館で会う知人の存在があった。その人物が「お勧めできる作家がいる」という風な言葉とともに、宮部みゆきの名を教えてくれた。その言葉に従い、館内で宮部女史の著書を探し、「魔術はささやく」を借りて帰ったのである。
知人の言葉に嘘はなかった。幾つかの面で首を捻りたくなる箇所もあったが、総じて優れたミステリであったし、サスペンスであり、一級のエンタテイメント作品であるように思われた。読了後、私はすぐに他の宮部作品を探すようになった。図書館で彼女の著作を見つければ、間違いなく借りて帰るようになった。
現在の宮部みゆきは、日本を代表する著名な小説家である。直木賞を獲った作家であるし、近年は文学新人賞の選考委員を務めるまでになっている。自身も数多の文学賞を受賞し、不況が囁かれる出版業界にあってなお新作を出せば必ずベストセラーになる。累計数十万部を易々と売りさばく。
しかし当時の彼女は今ほどの注目を集めておらず、せいぜい「注目の新人作家」の一人でしかなかった。人間描写のうまさや構成の妙、日常生活を描き出す鋭い切り口などは新人時代から見られたが、キモの部分での弱さもあった。本書「魔術はささやく」でも、『そのトリックを使うなら何でもありの世界になってしまう』という印象があった。SFにおけるナノマシン(orマイクロマシン等)の存在に近い。。
部屋の照明を落とし、巧みなマイクパフォーマンスで観客を盛り上げ、ドラムロールとスポットライトで緊張感を煽る。そうした演出は上手いが、肝心のビックリ箱の中身が貧弱――といったところか。
そうした核の弱さが初期の彼女の作品には共通して存在しており、私や宮部みゆきを紹介してくれた知人の間では「面白いがツメの甘い作家」というような認識があった。
ただ、急いで言っておかねばならないのは、本書がトリックや謎を楽しむ種のミステリではない、という歴然とした事実である。むしろ人間という生き物、その人間が作り出す社会の実態を鋭く抉る物語というべきかもしれない。
ただ、そうした「人間を描く」ことを高い水準でやってのけているため、あまりにもトリック部分の貧相さや無節操さがアンバランスに見える、というだけの話である。
本書「魔術はささやく」は1989年に発表された著者の(おそらくは)第一長編で、 <日本推理サスペンス大賞> を受賞している。同年単行本として新潮社から刊行され、1993年に同社から文庫版が発売された。今回紹介するのは、入手の容易な1993年出版の文庫版である。
巻末の作品解説は文芸評論家として著名な北上次郎。なお、種明かしとまではいかないものの、かなり作品の具体的な内容に突っ込んだ解説となっているため、個人的には本編読了後に眼を通すことをお勧めしたい。
――以下、大まかなストーリィを紹介しておく。
主人公は、両親を失い特殊な環境下で育った16歳の少年。孤児である彼は叔母夫婦の家に身を寄せていたのだが、ある日、タクシー運転手をする叔父が不幸にも人身事故を起こし、被害者を殺してしまう。
状況が叔父にとって不利に働いていることを知った主人公は、なんとか彼に有利な材料を探そうと奔走。やがて被害者が詐欺まがいの商売を働いていた過去をつきとめ、その当時の仕事仲間が次々と不可解な死をとげている事実をつきとめる。4人の仕事仲間のうち、すでに3人までが死んでいる。これを何者かによる計画的連続殺人と見た主人公は独自の調査にのりだすが、事件は思わぬ方向に展開していく。
この著者の最大の武器は、類稀な想像力と、人間にむけられた鋭い観察眼。これに尽きるだろう。
前者は読んで終わりの薄っぺらな作品ではなく、奥行きのある味わい深さを物語に与えている。また切れ味の鋭い描写や表現力は、これに裏打ちされてもいる。後者は登場人物たちに血を通わせ、感情移入を容易にしてくれる。
復讐や人を裁くといった行為に対する著者の考え、少年の成長を描くジュブナイル的部分、人間の表裏、「赦す」「哀れむ」といった宮部の好む概念など、小説家・宮部みゆきのある意味すべてが凝縮された、まさに彼女の入門書として相応しい作品かもしれない。
2005/06/10
「ブレイブ・ストーリー」上・下
形態
単行本
種別
ノヴェル
部門
長編
出版
角川書店
値段
¥1800+1800
初版
2003-03-10
総合
☆☆
ストーリィ
☆
技術
☆
昨今、冒険という言葉は多少ネガティヴな意味を持たせて使われることが多い。必要以上のリスクを負って成功率の低い賭けに出る愚行――というような響きがある。
恐らく、出版社や編集者にとってこの「ブレイブ・ストーリー」の企画は少なからずそうした冒険的要素を含んだものだったのではあるまいか。日本人が書いたファンタジー長編が商業的に大成功を収めた例は稀有といって良いほどだし、下手に奇抜なことをやらせて大作家の域に達しつつある宮部みゆきのイメージを損ないたくない。そうした危惧や不安が多少はあったかもしれない。
しかし、無類のTVゲームマニアで知られる宮部みゆき本人自身には、いつかこうした作品を書く気があったのだろう。本書ブレイブ・ストーリーが書店に並んでいることが、そのことの証明になる。原稿用紙2300枚の大作を書き上げるにはそうした情熱が必要なのだ。冒険者が長い旅を経て目的の地に辿り着くために、強い意志の力と勇気が必要とされるようにだ。
剣と魔法の存在する世界を舞台にしたファンタジー小説は、少年向けの <ライトノヴェル> や児童書の分野ではそれほど珍しくない存在であるようだが、対象読者を成人にまで広げた一般書籍としては珍しい。想像力をフル活用しなければならないハイファンタジーは、退化の進んだ成人の脳には負担が大きいのだ。それがハードカヴァーで1000ページを軽く超えてしまう大作としてはなおさらだ。ハリィ・ポッターのシリーズ作品が商業的大成功を収めたことを考慮に入れても、宮部級の作家がファンタジーをリリースすることなどそうそうあることではない。
しかし、著者の宮部みやきは真正面から剣と魔法のハイファンタジーを書ききった。現実世界で穏やかな日常生活を営む11歳の少年を主人公に据えて、彼が突如として現実の荒波に飲み込まれ絶望していく様を語り、そして自分と家族にふりかかった悲運を拭い去るため異世界に旅立つまでを迫真のタッチで描いた。
現実世界とは違う法則の支配する <幻界> を訪れた少年が、仲間を得、失い、多くを学び、現実を知り、自らを受け入れ、人として再生するとともに成長していく様を書いた。
彼と同じものを背負いながら違う道を進むもう一人の少年を配置し、異世界に住まう魅力的な人々を生んだ。現世と幻界に共通する歪を作り出して、世界が変わっても人の心が変わらない現実を浮き彫りにした。
1000人の大人を集めても、勇気ある1人の少年がなしうる決断に到達し得ないことがあることを物語った。
最も優れたファンタジー小説にはなり得ないだろうが、一つの形としてブレイブ・ストーリーは歴史に残るかもしれない。また、人によってはこれを名作と呼ぼうともするだろう。そうあって然るべき要素が確かに本作にはある。著者の筆力は確かなものだし、本体価格の設定も決して悪いものではない。退化しすぎていないのなら、イマジネーションと共に行く幻界の旅は爽快で、多くのものを読者に提供するだろう。
この作品は、対象とする読者の年齢を広く設定している。おそらく、主人公と同年代の少年少女が読んでも楽しめ、また彼らの親が読んでも得るものがある――そんな広く深い作品を目指したのだろう。ただ、間口を広く取りすぎた分の欠点が少なからずあるのも確かだ。
たとえば完成度を上げ、物語にもう少し奥行きを持たせるつもりなら語り部を増やした方が良かったのではないか。話の大半は主人公ワタルの目を通して進められるが、かなり中途半端に別人にスポットが移る。彼のライバルであるミツルなどがそのスポットライト泥棒の最もたる例だが、最初からミツルにもある程度カメラを向けもうキャラクターとして掘り下げていれば、ワタルとミツルの関係がもっと上手く書けたような気がしないでもない。
なかなか姿を見せない謎の声についても、いかにも思わせぶりな存在として序盤から登場しているがそんなに重要な役割を与えられておらず、その正体が明らかになった時点で主人公は既に確固たる決意を固めている。もっと関わらせ、大きな揺さぶりをかけるトリックスター的存在として魅力的に描けた存在であるはずだが、竜頭蛇尾なキャラクターに終わってしまった。
人間関係も、主人公にとって少し好都合的すぎた。小野不由美の <十二国記> はタイプこそ違うが、国産ファンタジーの傑作のひとつだ。この <十二国記> では異世界に迷い込んだ主人公が、まず人間関係に苦労する。そうした緊張感の演出がたいへんに上手く、片時も目を離せない。ブレイブ・ストーリーにはそういう緊張感のようなものがほとんどない。
異世界で自分の両親と似た人間と出会い、ショッキングな経験をするエピソードにしてももう少し上手い活かし方があったのではないだろうかと思われる。異世界の世界観や基本設定も、既存のものを焼きなおしただけでオリジナリティに欠ける。ハイファンタジーとしての新鮮味としては皆無に近い。
本人がその気なら、著者はこうした作品の欠点をクリアできるだろう。それだけの力を持った書き手であるはずなのだ。ただ、元が雑誌連載という都合、対象読者を広くとろうという戦略、その他諸々の事情があって彼女は意図的にそうした部分を犠牲にしたのだろう。その結果得られるものの方が大きいという計算のもとで。
いずれにしても、本書が一読に値する作品であることにかわりはない。舞台設定はありきたりだが、テーマと着地の仕方は非凡なのだ。子供だましと失笑する大人は、自分が主人公と同じ立場にあったとして彼以上の結論を導き出し、そして結論することができたかを考えてみると良い。何も得られなかった者がいたとして、それは本書に責任があるのではない。触れた者に何も汲み取る能力がなかっただけなのだから。眼と心を開く者は大いなる何かを得、眼と心を閉ざす者は何も得ない。それが冒険でありファンタジーの本質なのだ。
2005/01/12
I N D E X