作者別一覧
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ウィリアム・ギブスン
(1)
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木俣冬
(2)
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桐野夏生
(3)
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スティーヴン・キング
(1)
WILLIAM FORD GIBSON
ウィリアム・フォード・ギブスン
「ニューロマンサー」(原題:NEUROMANCER)
形態
文庫
種別
ノヴェル
部門
長編
出版
早川SF文庫
値段
¥680
初版
1986-07-15
総合
☆☆☆
ストーリィ
☆☆☆
技術
☆☆☆
1984年に刊行された長編SF小説 <Neuromancer> の全訳日本語版。
本編は約429頁。翻訳者は黒丸尚氏で、ハイテク用語をスラングのように多用した「ギブスン節」ともいうべき本書独特の文体を、漢字とルビ(読み仮名)の組み合わせで巧みに表現している。彼の手なくして本書の翻訳は成功し得なかったのではあるまいか、と思えるほどにその手腕は見事。
一部で「読みにくい」「馴染みにくい」という声も聞かれるが、これは映像的な文章を満足な状況説明もせず、怒涛の勢いで紡いでいく――というギブスンのスタイルにこそ問題がある。また、その癖についても疾走感と圧倒的情報量を兼ね備えたギブスン一流の魅力であり、ついてこられないのは読者側の受容力の問題ととらえることも可能だろう。
巻末には主に著者の略歴紹介を中心にした、山岸真氏による作品解説が添えられている。
この解説にもあることだが、本書はSF界最大のタイトルである <ヒューゴー賞> と <ネヴュラ賞> を同時獲得しダブルクラウン(二冠)の栄誉に輝いているばかりか、 <フィリップ・K・ディック賞> 、 <SFクロニクル誌読者賞> 、 <ディトマー賞> といった世界の主だった文学賞を総なめにし、五冠を達成している。本書の巻き起こした半ばパニック的な衝撃が見て取れる端的な例だろう。
また、本書は「サイバーパンク」という言葉とジャンルを生み出した開祖的存在としての顔も持つ。
その波紋たるや一ジャンルを創設しただけにとどまらず、映画 <マトリクス> や同じく劇場映画を含め他メディアで展開された <攻殻機動隊> などにも絶大な影響を与えている。
一読してみれば分かるが、そもそも仮想現実世界を <マトリクス> と最初に呼んだのは本書 <ニューロマンサー> であり、著者のギブスンである。
サイバースペース(電脳空間)という言葉もこの作品から誕生しているし、他にも「光学迷彩」、「拡張現実(電脳を利用して実際には存在しないものを他人に見せる等)」、「首の後ろにつけられたケーブル端子」、「人間を操る自我を持った人工知能」、「融合がもたらす上位システムへの進化」、「電脳を通じた、他人との視覚・感覚などの共有」等々…… <マトリクス> や <攻殻機動隊> の全てがここから生まれていると言ってよい。
本書の凄さは、コンピュータが一般化する一〇年も前――1984年に書かれたということだ。それでいて、世界をネットが覆った21世紀でも通用する作品であり続けていることだ。その先見性と比類なき完成度、後世への絶大な影響力を考えれば、本書とギブスンにはどれだけ賞賛の言葉を浴びせかけようと足りないだろう。
最後に、本書の具体的な内容を大雑把に紹介する。
物語の主人公は――かつて一流の「カウボーイ」としてならした青年、ケイス。
彼が電脳による仮想世界を行き来し、企業のセキュリティシステム(ICE)を破って情報を盗むことを生業としていたのは、もはや遠い過去のことだった。ある時、雇い主を裏切るという禁忌を犯したケイスは、その報復として神経の一部を焼かれ、電脳空間に接続する――カウボーイとして必須の能力を失ったのである。
救いを求めて闇医療の先進地区・千葉シティを訪れたケイスだったが、頼みの医師たちにも匙を投げられ、回復の望みは経たれつつあった。
そんな矢先、彼の元にモリイを名乗る女が現れる。全身を強化し、体内に武器を内蔵した彼女が持ちかけてきたのは、焼き壊されたケイスの神経系を修復するという願ってもない話だった。
その代償として突きつけられた条件は、モリイと組み、アーミテイジなる謎の男の依頼に応じること。
話に乗ることを決めたケイスは、カウボーイとしての能力を回復。アーミテイジの手足となって、モリイと共に世界を飛び回りはじめる。一方で、依頼人の真意を知ろうとその素性を調べはじめたケイスは、アーミテイジの背後に自我をもった人工知能 <冬寂:ウィンターミュート> の存在をかぎつけるのだった。
アーミテイジを操る人工知能 <冬寂> の狙いとはなにか? 影のようにケイスにつきまとう <ニューロマンサー> とは?
幾つもの謎を孕みながら、 <冬寂> はケイスたちを軌道衛星上の企業都市 <迷光:ストライト> へと導いていく……
サイバーパンクという新ジャンルを生み出し、SFや文学の垣根を越え時の社会に衝撃的影響を与えた傑作長編。ヒロイン「モリイ」の過去を描いた短編「記憶屋ジョニィ」や、続編である「カウント・ゼロ」「モナリザ・オーバードライブ」なども是非、あわせ読んで欲しい。
2007/07/04
FUYU KIMATA
木俣冬
「TRICK 2」
形態
文庫
種別
ノヴェル
部門
短編連作
出版
角川文庫
値段
¥600
初版
2001-12-25
総合
−
ストーリィ
☆
技術
−
2002年01月11日から同年03月22日まで、全11回放送されたテレビ朝日系連続ドラマ「トリック2」を元にした小説版。
前作(トリック1)の小説化の際と同様、ドラマで演出を手がけた堤幸彦が監修。ただし小説化は、前回の百瀬しのぶから木俣冬に変わっている。因みにドラマの脚本は蒔田光治、太田愛、福田卓郎の三者。彼らのシナリオを元にこの小説版は制作され、2002年03月に角川書店より単行本として出版された。本書はその文庫版。
ちなみに「トリック」には劇場版が存在し、これもノヴェライゼーションされたようだ。やはり担当は木俣冬だという。(未確認)
前回と同様、小説化の出来には及第点をやれると思う。しかし繰り返しになるが、ドラマ本編を見たほうがこの物語の面白さは伝わりやすい。やはりドラマの理解を補完する意味合いで読むのが一番だろうと思う。
「六つ墓村」「100%当たる占い師」「サイ・トレイラー」「天罰を下す子供」「妖術使いの森」の5編収録。
2004/01/16
「TRICK 劇場版」
形態
文庫
種別
ノヴェル
部門
長編
出版
角川文庫
値段
¥400
初版
2003-09-25
総合
−
ストーリィ
☆
技術
−
2002年に劇場公開された、人気TVドラマシリーズ「トリック」の映画脚本を小説化したもの。2002年11月に同出版社から単行本として刊行されたものを文庫化したのが本書である。
毎度お馴染み、売れない女流マジシャンである山田奈緒子と、日本科学技術大学のヘッポコ上田次郎教授の凸凹コンビは今回も健在。村に伝わるという財宝と、三文芝居によって得られる報酬に目がくらんだ山田が、300年に1度の周期で訪れる災厄から糸節村を救うという神になりすまそうとすることから、物語は大きく展開していく。なんと山田の他にも、神になりすまして村の財宝を狙おうという輩が複数いたのである。彼らは <神1> 、 <神2> と番号をふられ、互いに対決させられるのだが、山田は得意の気合とハッタリで無事に勝ち抜いていくのだった。だが、彼女に敗れた神たちが次々と不可解な死を遂げ、山田は窮地に追い込まれていく。
果たして、糸節村を襲う災厄とは何なのか。村に伝わる神は実在するのか。山田は村の財宝をまんまと手にすることができるのか。そもそも上田はどうした。
やはり、劇場版を素直に視聴した方が良いと思う。その補完的な意味合いで本書を手に取るのが正解だろう。
2004/01/16
NATSUO KIRINO
桐野夏生
「顔に降りかかる雨」
形態
文庫本
種別
ノヴェル
部門
長編
出版
講談社
値段
¥619
初版
1996-07-15
総合
−
ストーリィ
−
技術
−
桐野夏生の一般デビュー作にして、第三九回江戸川乱歩賞受賞作。一般デビューというのは、一般読者向けの本をはじめて書いたという意味で、純粋な作家デビューとは多少意味合いが異なる。というのも著者は、本作で乱歩賞を受賞する以前から野原野枝実というペンネームで活躍していた過去がある。この頃は若年層向けの少女小説を手がけていたようだから、一般的にはほとんど知られていなかった。
本書は、乱歩賞受賞作に加筆修正を加え、一九九四年六月に講談社から単行本として刊行された同名小説の文庫版である。巻末の作品解説は松浦理英子氏。何者であるかは不明。
さて、この「顔に降りかかる雨」だが、女性作家による女性を主人公とした本格ハードボイルドとしてその筋では高く評価されているそうだ。
私は著者の性別には関心がないし、主人公が男であろうと女であろうとどうでも良い。そして、この作品がハードボイルドだとは全く考えていない。また星を見てもらえば分かるように、作品としても特別に評価するつもりはない。
ページを捲り出すと止まらなくなる桐野マジックの片鱗はこの頃から既に窺えるが、それを除けば本書に魅力はほとんどないと言ってよいと思う。乱歩賞らしくはあるが、ミステリとしての魅力もそこそこ。ハードボイルドとしては明らかに失格(特に主人公が全くハードボイルドに向かない)。
原稿の枚数制限と格闘した痕跡が如実に見える構成にも問題があり、人物描写も著者の非凡なものが窺える部分もあるが、総合的には中途半端。風呂敷の広げ方にも問題があるし、特殊な趣味を持つ人間たちの世界やネオナチの描き方や物語との親和性も不十分。完成度が低く、粗が多すぎる。
特に酷いのは主人公、村野ミロ。慣れた人ならこの時点で構えるだろうが、まず名前の段階からして危ない。ミロの名前は、著者曰く、ジェィムズ・クライムリィの著作に登場する酔いどれの探偵「ミロドラゴヴィッチ」からいただいたものなのだそうだ。こういう奇妙な思い入れから自作のキャラに無駄に捻った名前をつけるような作品にはロクなものがない。今回もその例外ではないような気がする。
孤独にいきるタイプだとか、他人との距離を置く種の人間だとかいう割には、村野ミロは相棒となる男に依存しきりだし、感情の処理が全く出来ていない。頭が悪く、基本的な確認事項を全く怠るから自分をどんどん不利な状況に陥れていく。感情の揺らぎが大きく、ショックを受けるたび最悪な選択しかとれない体育会系の人間なので、ちょっと情が傾くと相手の身元や信頼性を確認する前にぺらぺらと情報を漏らしてしまう(特にこの部分は探偵役として、ハードボイルドの主人公として最低だ)。
男の腕力に潰されては泣き、昔の男を思い出しては泣き、友達の家が荒らされては泣きと、とにかく泣きまくる。
ハードボイルドの主人公は、ろくでなしで良い。救いようのない愚かものであっても良く、手酷い失敗や不運の連続から人生のどん底に落ち込んでいても良い。しかし、必要以上に口を開きすぎる人間には務まらない。何かあるたびに涙を流していてはハードボイルドにならない。流す涙ももはや無い、という人間にこそむしろ相応しいのだ。そして、馬鹿には絶対に務まらない。頭が弱いと、一匹狼としてやっていけないからだ。そもそも事件を解決できないから物語が進展せず、小説として成立しない。
ミロは探偵役を務めるには頭が悪すぎ、情にほだされすぎ、情報の管理が甘すぎ、ショックに弱すぎる。
本作の欠点は主人公ばかりでなく、描かれる恋愛の突飛さなどにも現れている。大人の間でならどんな恋愛が成立してもおかしくない、という現実は分かるが、それを言い訳に無茶なラヴストーリィを描くのはどうかと思われる。事故は突然起こるものだ、と開き直ってストーリィ上の様々なご都合主義を「事故」として処理するようなものだ。
2004/03/11
「光源」
形態
単行本
種別
ノヴェル
部門
長編
出版
文芸春秋
値段
¥1619
初版
2000-09-20
総合
☆
ストーリィ
☆
技術
☆☆
桐野女史の著作には本書で初めて触れることになったのだが、まず最初に驚かされたのは、その何とも形容しがたい筆力だった。展開は決して派手ではないし、冒頭に強烈な掴みの部分が用意されているとも思えない。なのに知らず知らず物語に引きこまれて、ふと気付くと表紙を開いてから随分と時間が経過していることに気付く。物語に深入りしている自分がいる。そうした吸引力の魔術のようなものを感じた。これをいきなり感じさせることのできる書き手は、もちろんプロの世界でも希少だ。
確かにハードカヴァーの表紙をめくると、カヴァーの折り返し部分に著者の実力を客観的に証明する輝かしい受賞経歴が並べられている。1993年、「顔に降りかかる雨」で第39回江戸川乱歩賞を受賞。1998年には
「OUT」
で第51回日本推理作家協会賞を、翌年発表の「柔らかな頬」では第121回直木賞を受賞している。本書はその直木賞受賞後の長編第1作となるとか。また「OUT」は英語版も出版されていて、これが最近
MWA(アメリカ探偵作家クラブ)賞
というアメリカの権威ある文学賞にノミネートされたことがTVニュースになったり、新聞に大きく掲載されていることも知っていた。
基本的に、こうした受賞歴は「あまりアテにならないもの」として受けとめることにしている。今回もそうだったし、実際にその経歴にはあまり関心を払わず読み始めた。文学賞というのは、それがどんな歴史や社会的評価を有していようと、時として信じられないような(つまり正気を疑うような)作品に栄冠を授けることがあることを知っているからだ。
だけど多分、桐原夏生という小説家は、これらの受賞経歴を誇るに相応しい技量と才能を持った書き手なのだろう。とりあえず、最後まで読み通し本を閉じた後でそう思った。
著者の何が優れているのだろう。技術は文句なしに一流だと思うが、世界をリードする超一流には及ばない。情景描写は彼女より遥かに巧い人間がわんさかいる。心理描写も、故意にそうしている部分はあるにせよストレートかつ単純なもので、極品というほどではない。業界に関連する表現も、門外漢が資料を集めて構築したものなのではないかと疑わせる――無論、全くの勘違いかもしれないが――ところがないでもない。空行が多用しなければならない点や、人物にスポットを当てるタイミングなどを見る限り構成にずば抜けたものがあるわけでもない。
じゃあ何が凄いんだ、ということになるが……要するに、世界を構築してそこに観客を引きずりこむ力に優れているのだと思う。桐野ワールドを形成して、それだけで人を魅せられる才能があるということなのだろう。
――さて。大雑把にいってどのような内容の物語なのか、粗筋を語るとどのような感じになるか、その辺りを表現することが非常に難しい種の本というものがある。とてつもない枚数を費やした超大作は、話が複雑に入り組んでいたり主役級の登場人物が大勢いたりするので、とても一口にはその内容を語り尽くせないのだ。また、不可思議な雰囲気と捉えどころのない話の流れなどをウリとする作品も、他人に紹介するのが困難だったりする。本書もそんな1冊だ。
乱暴に言ってしまえば、この本にストーリィはない。ある1本の映画制作に携わる、それぞれ野心と思惑を持ったスタッフたちの愛憎、対人関係などを描いたドラマだ。
映画の成功に人生をかける女プロデューサーと、彼女に捨てられた過去のある撮影監督、プロデューサーに恩のある大型俳優に、自分の才能を信じて疑わない頑固な新米監督、芸能界での再起にかけた強かな元アイドル女優。映画制作を通して、彼らが展開する人間模様を描いたのが本作だ。あくまで主役は人間という名の彼らであり、ストーリィやその中で発生するささやかな事件・トラブルなどはそれを浮き彫りにする道具に過ぎない。
妻に先立たれた男が北国を旅してフィルム1本分の写真を撮り、その完了と同時に自らの命を絶つ……という内容の、映画「ポートレイト24」。果たしてその映画は出来あがるのか。その完成は、制作に携わった人々に何をもたらすのか。
地味に、わりと大人しめに展開していく静かな物語。だが、静かだからこそ際立つ激しさやリアリティなどもあるようだ。万人にお勧めできるタイプの作品ではないが、ここまでのレビューで興味や関心を持てたのなら一読してみても良いかもしれない。
ここでは図書館で借りてきた単行本(四六判上製カバー装)のデータを紹介しているが、本書は既に文庫化もされている。文春文庫から2003年10月10日に刊行されたものがそうで、値段は590円。432頁。
2004/03/11
「OUT」
形態
単行本
種別
ノヴェル
部門
長編
出版
講談社
値段
¥2000
初版
1997-07-15
総合
☆
ストーリィ
☆
技術
☆
1998年、第51回日本推理作家協会賞受賞作。2004年、
MWA(アメリカ探偵作家クラブ)賞
候補作。著者自身の言葉によると、「死体をバラバラにした主婦と、死体解体業の中国マフィアが歌舞伎町で戦う」というアイデアを元に1996年夏から書き始め、8ヶ月間を費やして完成させた作品でもあるらしい。中国マフィアは出てこないが、死体をバラバラにする主婦たちに焦点を当てて描かれている作品であることは間違いない。
弁当工場のアルバイトでチームを組む4人組がある殺人事件に巻き込まれ、その死体の処理に関して腐心することになる。結局、彼女たちは死体をバラバラに解体して生ゴミとして片付けることに半ば成功したわけであるが、この件がきっかけで死体解体を商売として請け負うようになるのだった。後戻り出来ない道を歩き始めた彼女たちは、やがて事件のことを嗅ぎまわる刑事、事件に巻き込まれ冤罪に落とし入れられた裏社会の男たちによって追い詰められていく。
もう戻れないと知りながら、それでも状況や環境、そして自らの孤独に急き立てられてその道を進まざるを得なくなった人々の人間模様を迫真のタッチで描いた大作。
著者は人間を観察する能力に長けているので、さも実在しそうな庶民を作品内でリアルに描き出している。そうした生きた人間たちがぶつかり合い、摩擦から確執や憎悪が生み出され、そして彼らが形作る社会や日常が崩壊していく様を書くのもまた上手い。
ただ、どうなのだろう。市井の人々を描くことについてなら『邪魔』『最悪』などの奥田英朗の方が数段腕が立つし、「あれ?」と唐突に思わされる視点の切り替えの拙さも健在である。たとえば第2章の後半まで、話は香取雅子、山本弥生、吾妻ヨシエ、城之内邦子の主婦4人組の視点に絞られて進行していくのだが、100頁を超えた辺りで唐突に十文字という馴染みのない金貸しの男に視点が入れ替わる。彼は後に重要な役割を担わされることになるキャラクターなのだが、この時点ではそうではない。
これは
「光源」
の時もそうだったが、主人公だと思っていた人物たちから突然スポットがはずされ、脇役だとばかり思っていた人間に突然それが向けられる――という種の唐突さは構成上明らかにまずいし、改善の余地がある部分だ。同じような指摘は、複数の読者から上がっている。
また、人物をこれとはっきり書き過ぎる点も個人的にひっかかった。たとえば、262頁に、『邦子の内部には、金を持ち、派手な格好をして目立ちたいという願望と、人目につかない暗がりで蹲っていたいという劣等感とが、コインの裏表のように存在している。』というようなストレートな描写があるが、これは邦子という人間の思想や言動などから読者にそう感じさせる方がより高度で効果的なやり方だと思われる。この人物はこういう人なのです、間違いありません――というような直接的な記述は、どこか押し付けのようにも感じられてしまうことがある。
正直な話、ときに <クライムノヴェル> と呼ばれるような、この手の話はあまり好きではない。確かに人間の多様性や、社会や日常の脆弱さ、正気と狂気が紙一重であること、また現代社会が抱える諸問題などを鋭い切り口で描けるという長所はある。だが、それはあくまで現実社会の暗部を小説というフィルター越しに眺めさせるだけの行為に過ぎず、問題提起にはなっても問題の解決には全く結びつかない。読み終わって、社会問題や人間の抱える闇を鋭く抉る佳作だと感心することはあっても、それ以上には決してなり得ないからだ。
そこには、エンタテイメントの形をとったのはあくまで問題に関心を持ってもらうための最良の手段だからであって、書き手の本心としては小説というエンタテイメントを超えたもっと身近な問題としてこれを真剣に捉えています……というような覚悟が感じられない。
桐野作品はミステリでもなく、純文学でもない。それは両者のいずれにも属さない新しい種の小説であることを意味するのではなく、ミステリにも純文学にも成り得なかった――つまり半端な存在だという印象を拭い切れないことを意味するのだと思う。正直、その辺が本書延いては桐野作品を絶賛できない理由である。……まあ、好みの問題なのだろうけど。
2004/03/11
STEPHEN KING
スティーヴン・キング
「キャリー」(原題:CARRIE)
形態
文庫
種別
ノヴェル
部門
長編
出版
新潮文庫
値段
¥520
初版
1985-01-25
総合
−
ストーリィ
☆
技術
−
チェンバレンという小さな街に、ある少女がいた。彼女は幸運に――或いは周囲を取り巻く人間に――恵まれなかったが故に、その資格を充分に持ちながら幸せな生涯を送ることができなかった。
少女の名はキャリィ。キャリエッタ・N・ホワイトといい、本作の主人公である。
本書『キャリー』は、モダン・ホラー界の巨匠であり、その分野において恐らく世界で最も著名な小説家であるスティーヴン・キングの処女作である。本書巻末の永井淳氏の解説によれば、元は「ものになるはずがない」とゴミ箱に放りこまれていた原稿だったのだそうだ。当時のキングは、新人賞にことごとく蹴られた無名の物書きで、ハイスクールで英語の教鞭をとるかたわら細々と執筆していたそうだ。生活は貧しく、妻タバサの協力を得て何とか生活しているような状況だったらしい。
そのタバサ夫人が、やがて夫とキャリィの両方を救うことになる。ゴミ箱に捨てられていた原稿を拾い上げ、夫の尻を蹴っ飛ばして最後まで書くように焚きつけたのだ。スティーヴン・キングはそれに大人しく従い、原稿を完成させた。やがてその原稿には2500ドルという値がつき、 <ダブルデイ社> に引き取られたのである。1974年のことだったという。
また夫人に尻を蹴っ飛ばされたのか、キングは翌年に第2作目となる『Salem's Lot:呪われた町』を刊行。その2年後の1977年にはベストセラーとなる『Shining:シャイニング』を発表して、その地位を不動のものとしていった。キングのファンは、だから例外なくタバサ夫人の黄金の右脚に感謝しなければならない。唸りを上げたその脚がキングの尻に炸裂することがなけば、彼は走るのを止めていたかもしれないからだ。
もし自分が誰かの妻で、夫がかつてのキングのように冴えない働きしかできていないのなら、タバサ夫人にならって彼の尻を蹴っ飛ばしてみるのも良いかもしれない。結果として左手の薬指から指輪が消えることになるかもしれないが、その一撃で目がさめて夫が2500ドル分余計に稼ぐ男になるかもしれない。結婚前の自分に人を見る目があったのなら、もしかすると彼が第2のスティーヴン・キングになる可能性だってある。……いや、多分ないだろうし、キングは1人で充分なんだけど。
ともあれ、キングの記念すべき処女作として一読してみる価値はあるかもしれない。ホラーと聞いて想像するような恐怖感ではなく、キャリィという運に恵まれなかった少女の哀しさと切なさのようなものの方が強く感じられる作品であることを容認できれば。それからキャリィが不幸な16歳であり、酷い苛めを受ける娘であり、街をひとつ崩壊に導けるほどの強力な超能力者であるという設定を受け入れられることも、本書の読者となるための条件のひとつだ。
逆にこれらの条件を満たせるのなら、その読者にとって本書は充分に楽しめる作品となるだろう。
それから、この作品はハリウッドが1976年に映画化している。監督はブライアン・デ・パルマで、キャリィ役には後にアカデミー賞を受賞するシシー・スペイセクが起用された。原作は出版当初あまり話題にならなかったが、この映画の興行的成功と相俟って徐々に評価を上げていった。現在のキングは、この映画がなければ生まれていなかった可能性もある。
その出来にはキングも非常に満足がいっているらしく、「原作よりも優れた表現が幾つか見られる」というような内容のコメントので寄せているそうだ。キングの作品はほとんどが映像化されているが、本人はこのキャリィがお気に入りの模様。というか、他の作品にはかなり辛めの評価をしている。彼が認める数少ない例外がキャリィだと考えて良い。
その後、1999年にキャリィ2(原題:THE RAGE / CARRIE 2)が制作されたようだが、これは事実上のリメイクで原作者のキングは直接的には絡んでいない。
ちなみに小説『キャリィ』の日本語版単行本は1975年05月20日に新潮社から刊行されたが、既に絶版となっている。翻訳は永井淳。
2004/03/12
I N D E X