縄文時代とは、貝塚とは


<< 縄文時代とは >>  縄文時代の歴史は支配者の歴史ではなく、ふつうの人の暮らしの歴史です。
 今から約16,000年前から2,500年前頃までの期間を縄文時代と呼びます。代表的な土器が、縄(麻などの繊維で作ったヒモ)で模様をつけた土器であるため、縄文時代と呼ばれています。日本では、新石器時代が始まる頃、土器が使用されるようになり、土器が歴史を計る物差しとなりました(普通の国の歴史を計る物差しは、青銅製や鉄製の武器が歴史の物差しです。)。

 縄文時代は文明が1万年も停滞していた?
 縄文時代が1万年以上続いたのは、平和であったためと言われています。しかし、1万年間も縄文土器を作り続けているのは、技術革新が行われず、文明は停滞していたと思う人がいるかもしれません。ちょっと違います。日本独自の文明が生まれています。ちょうど鎖国だった江戸時代に日本独自の数学「和算」を発展させて、明治維新の大きな変転を成功させた日本人のように。
 土器の作成方法を考えて見ましょう。大陸では、焼き物の機能を向上させるために、登り窯を用いて、高い焼成温度(1100℃以上)で焼き物を作る技術が発明されました。日本で焼成温度を上げるイノベーションが発生しなかったのは、焼き物生産が専門人の集団にゆだねられなかったことが1つの理由と考えますが、800〜900℃という限定された条件の中で、最高の製品を作り出す技術を持っていたからと想像します。焼成温度を高温にすれば粘土粒子が融着して水が漏れない焼き物ができますが、その技術を探す必要がなかったためと考えます。磨き、削り、厚み方向の多層構造作成の技術を確立したことによって、粘土粒子が融着しない温度で焼成した素焼きの焼き物でも、水漏れしないものを作る技術を縄文人は持っていました。
 漆の技術。現在伝統工芸として製造されている漆器の技術は大陸から渡来したものですが、縄文時代に日本に存在した漆工芸は日本独自の技術のようです。漆製品作成の温度、湿度などの酵素重合最適条件を知っていたのに驚かされます。
 イルカを多量に捕獲した集落があります。知能が発達しているイルカを捕獲するには、チームワークと的確な作戦、判断力が必要です。縄文人はシステマティックに行動することができました。
 種々道具にも創意工夫が施されています。


<< 貝塚について >>
 千葉市には約100の大型貝塚があります。縄文時代の小型貝塚は、食べた貝を住宅のすぐそばに捨てた跡です。このような小型貝塚は、1万年前〜2300年前の間、ほぼ一定の個数、集落に存在しましたが、加曽利貝塚や荒屋敷貝塚のような直径100m以上の大型貝塚は、5000年前〜3000年前(縄文中期〜後期)の間に作られました。
 「大型貝塚は単なるゴミ捨て場ではない」と、貝塚に関する本によく書いてあります。しかし、「単なるゴミ捨て場」ではないとすると、何でしょう? 具体的に何であるか、書いてある本はほとんどありません。貝塚を取扱う以上、「単なるゴミ捨て場ではない」で済まそうとするのは無責任です。説明する責任があります。小輩は、貝塚モニュメント説をここに記します。本にこのような説が書いてあるのを読んだことはありませんが。

 大型貝塚は食品工場?
 大型貝塚は交易で干し貝と石器とを交換するために、貝を加工して干し貝に加工した跡と考えられたことがありました。現時点では千葉市の貝塚が貝加工場であるという説は否定されています。千葉市では貝はとれるが石がない内陸地方では石器用の原石は産出されるが塩分の摂取が難しい、という2つの地方の需要と供給を補完するために、交易で貝が利用されたと考えたのがこの説です。否定された理由は次の3点です。
  1. 分析が充分行われなかった時代は、千葉市で出土するヤジリなどの黒曜石は長野県の和田峠で産出されたものと考えられていました。和田峠の黒曜石産出遺跡が有名であったからです。1980年代に黒曜石の蛍光X線分析などによる分析結果から、千葉市のヤジリの多くは伊豆七島の神津島や箱根山系の黒曜石で作られていることがわかりました。この産出地域は海産物が豊富な地域です。貝を物々交換する物にできません。
  2. 貝塚の貝は、ハマグリやアサリが多いと考えがちですが、千葉市の多くの貝塚はイボキサゴと言う直径2cm程度の小さな巻貝が主体です。貝層の80%以上がイボキサゴであることが普通です。このイボキサゴを干し貝にすると、小指の爪程度の大きさにしかなりません。このような干し貝を交易の材料とするのには疑問符がつきます。
  3. 貝塚食品工場説では、縄文中期と後期に大型貝塚が生成され、晩期に大型貝塚の生成が激減したのは、茨城県霞ヶ浦南部や東北地方の太平洋沿岸で海水を煮詰める製塩が始まり、干し貝の需要がなくなったためとしています。この製塩工業を行うために、千葉市の住民が茨城県に移動したことも考えられますが、千葉市の人口が減少したのは、気温の低下が大きな原因と考えられます。
    南極大陸氷河の酸素原子安定同位体分析から、縄文晩期は気温が現在より2℃程度低かったことがわかっています。気温が比較的温暖だった時に、千葉市は照葉樹林地帯であったのが、冷涼化することによって、落葉樹林地帯になり、植生が変化したことから、食物に大きな変化があり、その変化に住民は対応できなかったのではないかと想像されます(縄文中期の気候は若干冷涼であったので、この説明は矛盾をはらんでいますが)。
 ただし、東京都北区にある中里貝塚(上中里駅近くの京浜東北線のすぐ東に存在)は、カキ、ハマグリからなる貝塚であり、貝の加工が行われた遺跡と言われています。縄文時代の海岸線近くにあり、長さ約1km、幅 約100m、最も厚い所で厚さ約5m の貝塚です。欧州北海沿岸、米国大西洋沿岸にある大規模貝塚と同様な性格の貝塚です。
 小輩は1999年に食品工場説が素晴らしいものと思っていました。貝塚を縄文時代の文化として捉えるのではなく、文明と捉える角度から切り口を入れていたからです。しかし、確かな分析データに基づく説でなかったために仮説は崩壊しました。残念と考えます。小輩は仮説を否定するには、分析データに基づくアンチテーゼを持って論争すべきと思いますが、アンチテーゼを持たないで批判されたに過ぎないと考えています。議論には accoutability を認識
する必要があります。
 貝塚馬蹄形集落説
 現代の未開人の集落を参考にして、貝塚の中央部を祭祀や集会を行った場所とし、馬蹄形や環状の貝層部分に住居が環状に存在したとの説が1950〜60年代にもてはやされました。この学説に基づいて調査が行われ、遺跡が破壊された例があります。犢橋貝塚です。さつきが丘団地を造成するに当たって、犢橋貝塚の貝層部分に環状に存在する住居跡を発掘すべく幾つかの大学考古学科によって調査されましたが、貝層付近の住居跡は発掘されませんでした。さつきが丘の造成工事は1972年に完成しましたが、貝塚から少し離れた場所で、幾つかの住居跡が発見されましたが、詳細な調査が行われることなく、消滅しました。貝塚に伴う集落は貝塚の貝層に存在するのではなく、貝塚から少し離れた所に存在したのです。民俗学的手法を貝塚に応用しようとしたことに問題があったと考えます。貝塚馬蹄形集落説を否定します。
 貝塚モニュメント説
 加曽利北貝塚の調査例を見ると、馬蹄形/環状貝塚生成初期は、地形が小高くなっている所に住居が作られ、その住居のそばに小型貝塚が作られたことが判ります。舌状台地の小高くなっている地形は馬蹄形を呈することが多いのです。先導谷と言います。馬蹄形のあいた部分が谷に繋がります。低地部分が谷に繋がるから、先導谷といいます。馬蹄形貝塚の生成原因はそこに存在した地質学的地形にあったと考えます。即ち、千葉市付近は水を比較的通しやすいローム層が表層にあり、その直下に常総粘土層があります。その粘土層の表層からの距離が蛇行していて雨水の浸透が舌状台地の真ん中の時に舌状台地に窪地ができる。それが馬蹄形や環状の地形になる。全ての舌状台地がそうではなく、窪地やそれを囲む小高い地形がある所に人が住む。そんなことが千葉市で起こっていたのではないかと考えます。最初から馬蹄形の貝塚生成を意図したものではないと考えます。何世代か小型貝塚の場所を変えて作っていくうちに、馬蹄形の連続した貝層が生成します。ある時期から、住居を小高いところに作ることをやめ、貝層から少し離れた所に住居を作りました。そして、貝塚を作る目的が馬蹄形にすることに意思が変わり、大型貝塚が生成されたと想像します。
 貝層のそばに縄文人は住居を作りました。貝層のそばに埋葬ゾーンを作り、お墓としました。人間は巨大なゴミ捨て場のそばに住んだでしょうか。ゴミのそばにお墓を作るでしょうか。小輩は、貝塚に積み上げられた貝殻は現代の生ゴミと同じではなかったと考えます。縄文人は貝の内臓を捨てることなく食べ、貝柱も貝殻に付着することなくそぎ落としたと想像します。食べた後の貝殻はきれいだったと想像します。現代の人間は食べられるものも捨てていますが、本来人間は無駄なく自然の恵みを自分の生命を維持するために、健康を維持するために食べたと考えます。そして、食べれないものだけを貝塚に積み上げたと思います。貝や魚の命は人間の命と等価であると考えたので、貝層のそばに住み、埋葬ゾーンを作ったと考えます。
 貝塚は、自然の恵みと祖先の偉業を表す白い巨大なモニュメントだったと考えます。 最近、貝塚に漆喰(貝を徹底的に焼いて作る)を作った跡があることがわかってきました。単なる貝の白さではなく、漆喰の白さを貝塚に持たさせようとしたと思います。もっと白い馬蹄形/環状貝塚の方が見えやすい。矢作貝塚や花輪貝塚のように斜面に環状貝塚があって遠くから見える貝塚は舟で海川を遡る人には移動の目印(ランドマーク)になったのかもしれません。

 日本では、高度経済成長時代以前は食材を無駄なく使うことを料理が上手と言われましたが、現在は味だけに関心が向いて、可食部分を捨てて豪華な料理を作ることが上手と言われています。日本人が滅ぶのではないかと危惧を抱きます。高度経済成長時代以前と比較しても、現在の生ゴミ発生量は多いと想像します。現在の感覚で貝塚をゴミ捨て場を想像するのはおかしいですよ。
 2002年夏に奈良県桜井市に家族でお墓参りに行きました。大阪道頓堀に一泊しました。朝、地下鉄の駅まで歩いた時に、次男(中3)が「大阪って臭い町だ」と言いました。大量に発生する生ゴミは毎朝捨てられていると思います。が、腐敗菌が廃棄用ポリバケツに棲みついており、そのバケツを充分に洗浄しないから臭くなると想像します。現代人は生ゴミを平気で捨てて、臭いのが当たり前と思っています(東京も朝、臭くてたまらないのですが、うちの子供が朝、東京を歩くことはないので、大阪だけが臭いと思っています)。小輩は荒屋敷貝塚をしょっちゅう見ていますが、時々、「縄文人は何でも大切にした。縄文人はえらい」 と感じます。この意味で、貝塚は縄文人にとってだけでなく、現代人にとってもモニュメントです。
 大型貝塚中央部の空間は?
 貝塚中央部は集会や祭礼が行なわれた場所ではないかと言われています。しかし、顕著な遺構がないことから、雨が降ると水が溜まり、使用しにくい空間であったと考えます。 馬蹄形の開口部はもともとの地質学的地形であったことと同時に、排水機能を持っていたと想像します。犢橋(こてはし)貝塚を見ると、この感を強く受けます(犢橋貝塚で草原に寝転がっているとそんな光景が浮かんできます)。


 縄文人の食べ物 : 貝塚があるからと言って、貝だけを食べていたのではありません
縄文時代に千葉市民は貝だけを食べていたのではありません。大型貝塚の近くには埋葬ゾーン(墓地)があります。人骨()のコラーゲン(骨髄のタンパク質)を分析することにより、食物の種類の割合を調べることができます(C/N分析)。大型貝塚を作った人は貝だけを食べていたのではなく、主食はクリやクルミ、ドングリ等の植物(たぶん野草やイモ類も)だったことが判っています。シカやイノシシも食べています。
 イボキサゴの秘密
千葉市には、貝層の80%以上の貝が「イボキサゴ」からなる貝塚が多くあります。「イボキサゴ」は扁平な直径2cmに満たない巻貝です。貝を食べることを目的として採ったのではなく、鍋物(煮炊きもの)に塩味や旨味をつけるために使用したと想像します。この「イボキサゴ」が貝塚に多いことは、縄文時代の暮らしを解明する一つのキーです。
 千葉の石器
千葉市貝塚の出土品には石器や、装飾品があります。千葉市には石が採れる山もなく、川原にも石がありません。千葉市で出土する石器や装飾品は、関東山地、茨城県、房総半島南部、伊豆七島・神津島の原石を使用していることが分析で判明していますが、 どのように石を手に入れたかは判っていません。(自分で取りに行った? 市場のような集落が神奈川や東京や市川付近の湾岸地帯にあって物々交換を行った? 売り歩く商人がいた?)。


縄文時代の人骨が現在まで残ったのは、その人骨が貝塚のそばにあったからです。大量の貝が土のアルカリ性を高くしているために、人骨のCaが溶けることを防いだのです。通常の日本の土は酸性(pH5〜6)です。貝塚から遠く離れたのところに埋められた人骨のCaは、土が酸性であるために雨水によって何百年の間にあとかたもなくなってしまいます。幸運にも貝塚のために、人骨やシカやイノシシの骨、魚骨、骨で作った道具が現在まで残っているのです。コラーゲンも、それを取巻く骨が溶けなかったから残りました。

 : 縄文人は貝殻や食べた後の魚の骨をゴミと考えなかったと、私は考えています。人間が食べた部分/加工した部分は命でした。その命に感謝するために、貝殻を貝塚に集めたと考えています。縄文人は貝の命を人間の命と同じように大切と考えたのではないか。縄文人は貝をきれいに食べたから、貝殻を貝塚に積み重ねても腐敗臭はしなかったのではないか。現代の人のように料理に使用した食材のうち、食べれるのに捨てるようなことはしなかったのではないか。アサリの貝柱を貝殻に付けたまま貝塚に積み重ねることはなかったのではないか。食べ残しを貝塚に積み重ねることはなかったのではないか。 荒屋敷貝塚に寝転がっていると、そんな気がしてきます。 住居のすぐそばにある白いお城である貝塚を見て暮らしていた光景が目の前に広がります。  

左 : 「千葉名物 干貝」のラベルと干貝です。大型貝塚食品工場説が素晴らしい説だと思っていた1999年に、栄町の小田原屋本店や千葉駅ビル・ペリエの小田原屋ブースで買っていました。アサリを多分煮てから干したものです。煮ないで干す物もあると聞きました。マテ貝の干貝もありました。

右 : 袋入りの干貝です。2002年7月ころに在庫がなくなり、販売をやめたとのことです。店の人はアサリが高くなったからと言っていましたが。すごく美味しいものと言うほどではありませんでしたが、古を想像させてくれる味でした。
 伝統の灯火が1つ消えました。
大型貝塚食品工場説を唱えた後藤氏は、縄文中期と後期は干貝が塩のソースであったため、多量の貝を採取できる千葉市が栄え、縄文晩期になると製塩工業が霞ヶ浦南岸や東北地方太平洋岸で行われるようになったため、千葉市は衰退したと述べておられます。データがそろわないころは、後藤氏の説は人に夢を与えました。
大型貝塚食品工場説が千葉市の貝塚に当てはまらないことは、千葉市の大型貝塚ではイボキサゴという直径2〜3cmという小さな巻貝が貝層の70〜80%を占め、このような小さな貝を干貝にするのは無理があることが主たる論点です。
小輩は、縄文晩期に千葉市が衰退したのは、気候の冷涼化が急激に進み、貝類の漁獲量が減少し、植生が照葉樹林から落葉樹林への遷移がスムーズに進行せず、環境の変化に対応できなかったのが、千葉市の衰退の原因と考えています。 「縄文時代の気候の変化」のグラフを見ると、縄文中期も気温が低下しているじゃないか、晩期と同じことが起きてもいいんじゃないかと言う人がいるかもしれません。 縄文早期末〜前期のヒプシサーマルの部分を見てください。ヒプシサーマルの時期に、東京湾東海岸に広大な遠浅の海浜が生成しました。この海浜で続く縄文中期に貝類が大繁殖したのです。 この自然の恵みのために千葉市が繁栄しました。 もしかすると、日本の他の地方では暮らしづらくなったため、千葉に住居を移す人が多かったかもしれません。 現代の千葉市も住みやすくして、人が集まる都市にしたいですね。 縄文時代の歴史を見ていると、そんなことを考えます。

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