昔々買ったパソコンに付いてきた「Bookshelf」という辞書で「貝塚」を引いたら、ひどいことが書いてありました。そこで、いくつかの辞書で、「貝塚」はどのように説明されているか引いてみました。

黒字が辞書の文、青字が小輩の感想です。

  1. BOOKSHELF(1988) 及び 小学館国語大辞典 新装版 2001
    古代人が捨てた貝殻などが堆積した遺跡。日本では縄文時代のものが多く、おおむね当時の海岸線を示す。介墟(かいきょ)。

     「おおむね当時の海岸線を示す」とあるのは大きな間違いです。「海岸線を示す」は、戦前に流布していた説と思います。確か山内清男の昭和20年代の報文にもこの説が誤りであると書かれていました。千葉市緑区・誉田高田貝塚が現在は都川を約15km遡った所にあり、海抜は約50m、貝塚の下の谷地は海抜39mです。この付近に海岸線があると、都川下流の貝塚の多くは水没してしまいます。例えば荒屋敷貝塚は海抜約30m、谷地の海抜は11mです。小輩は、昭和20年代から「当時の海岸線を示す」という風説はなくなったと思っていましたが、大出版会社の辞典に大昔の風説(根拠のない説)が掲載されています。最新式のパソコンの中に50年以上前の風説が流れています。
     調べてみると、1958年「貝塚より見た千葉市付近の海進海退」伊藤和男著に、都川下流の貝塚は造盆運動によって沈降し、都川上流の貝塚は隆起しているので、現在の海抜を比較するのはおかしいと書かれています。しかし、3000〜4000年で地殻変動の影響が10m単位で現れることはありません。伊藤さんは何でこんなことを言ったのでしょう。
     縄文中期〜後期の海岸線は1950年代初頭(千葉市の埋立てが始まる前)の海岸線より1km弱、内陸に入った辺りであることがボーリング調査でわかっています(1980年代の調査)。
     縄文人は台地に住むことを好みました。今で言う「山の手」です。縄文人は山の手に住んでいたんです。そして、貝塚は台地の端、沖積平野に出て行く所に作られました。洪積台地の端には湧き水があります。この湧き水が人の生活にはなくてはならないものなのです。きっと、小川の水を飲んではいけないという知恵を縄文人は持っていたと思います。縄文人は小川を交通路として利用し、丸木舟で魚介類を獲りに行きました。
     貝塚の分布は更新世(洪積世)の陸地の端に分布しています。戦前は地図を眺めて、洪積台地の端に貝塚が分布することから、地層調査を行うことなく、この等高線が海岸線だったと想像したと考えます。ヨーロッパやアメリカにも貝塚があります。それらの貝塚が、海岸線にあったことが明治時代にわかっていたので、日本でも同じだろうと戦前の学者は考えていたのでしょう。それらの貝塚は直線状の貝塚です。全く同じ貝塚が日本にもあります。東京都北区にある中里貝塚です。長さ1km、幅100m、厚さ5mの直線状の貝塚で、貝層の大部分はハマグリとカキです。中里貝塚は潟のような入り江の近くにあったことがわかっており、貝を煮て加工した場所も見つかっています。日本では中里貝塚のような貝塚は少なく、ほとんどの貝塚は欧米の貝塚とは異なった性格を持っています。

     この辞書以外でも、「古代人が捨てた貝殻などが堆積した遺跡」に近い表現をしています。古代人が何も考えないで、貝殻を捨てた結果、貝塚ができたように説明しています。縄文人はそんなにバカだったのでしょうか。小輩はそうは思いません。縄文人が一定の所に何百年、千数百年間、貝殻を積み重ねていったから貝塚が出来たのだと考えています。「古代人が貝殻などを堆積させることによって作った遺跡」が正しいと思います。
     貝塚は沖積平野や海を見渡せる素晴らしい光景の場所でした。最初この場所に縄文人は住居を作りました。その住居のそばに貝や魚の骨、シカやイノシシの骨を捨てていました。そのゴミ捨て場が馬蹄形や環状の貝塚のプロトタイプになってくると、縄文人はその場所に住むことをやめ、近くに住居を作り、食べ終わった貝の貝殻などを大きくなった貝塚に積み重ねました。この段階になると、貝塚を作っていくことを考えていたと思います。白い記念碑が集落のそばにあったのではないでしょうか。何を考えて貝塚を作っていたのでしょう。祖先の偉業を称えたのでしょうか。自分たちの健康のために食べられた貝や魚、獣たちに感謝の念の持っていたのでしょうか。縄文人に聞きたいところです。


  2. 三省堂 新明解国語辞典 第5版 金田一京介、山田忠雄 他 1998
    古代人が食べ捨てた貝の殻などが、地中にうずまって出来た遺跡。彼らの使用した土器・石器などが、この中に交じっている。

     貝塚は貝殻が地中に埋まって出来たのではありません。貝塚の地形を貝塚で観ると、馬蹄形や環状の貝層部分は小高くなっています。貝殻を埋めたのではなく、積み上げて貝塚を作ったのです。貝塚を目で見て、この文章を作ったのではないことがわかります。
     現代人の感覚では、「ゴミは臭いから穴を掘って埋める」ことが常識ですが、貝塚の貝層を見ると土が混ざっていない純貝層があります。貝や骨に付いている身をとことん食べようとしたから、「ゴミ」から異臭が発生することがなかったのではないかと想像します。縄文人は精進料理のコンセプトと同様にして食材を料理していたのではないでしょうか。
     精進料理で大根のフロフキを作ることを考えましょう。畑に行って、畑と相談して、一番食べごろの大根を抜きます。大根を清水で洗います。葉は和え物にしたり、オイルで炒めて料理にします。大根のヒゲ根まで料理にします。ダシ取りに使ったカツオブシも捨てることなく食べる料理に使います。かくして大根を余すことなく料理に使うことが、今朝まで畑で育っていた食材の命に感謝することにつながります。
     縄文人は貝を食べる時に、現代人のように小さな貝柱を貝殻に付けたままで捨てることはなかったでしょう。内臓が臭いからといって捨てることはなかったでしょう。どうしても食べることが出来ない殻だけを貝塚に積み重ねたのではないでしょうか。獣骨にこびりついている肉片も丁寧に削ぎ落として食べたのではないでしょうか。骨の髄はスープを取るのに使われました。現代のように生ゴミを捨てることがなかった。腐敗臭で臭くてたまらないゴミではなかった。だから、貝塚のそばに住むことが出来たと思います。

     この辞書は「まじる」を「交じる」が正しい表記の仕方であるとしています。小輩は「混じる」が適していると思うのですが。

  3. 角川 新国語辞典 山田俊雄、吉川泰雄 1981
    先史時代に、人の食べ捨てた貝がらなどの積もった所。

     有史時代の奈良時代や平安時代の小規模貝塚もあります。江戸時代もあります。現代もありますよ。広島や宮城県や釧路の近くに。

  4. 旺文社 国語辞典 第9版 松村明、山田明穂、他 1998
    先史時代の人類が捨てた貝の殻などが堆積してできた遺跡。石器・土器などがまじって発見される。

  5. 広辞苑 第5版 新村出 1998
    人が食した貝の殻が堆積したもの。全世界に分布するが、わが国の縄文時代のものが数も多く、内容も豊か。土器・石器とともに各種の自然遺物が混じり、生活や環境復元資料として重要。

     「自然遺物」が突然出てくるとわかりにくくなります。「ともに」は一緒に出土することを表現するので、「土器・石器などの人工遺物や各種の自然遺物が混じり・・・」と書くべきと思います。

  6. 広辞林 第6版 三省堂編修所 1983
    石器時代の住民が食べた貝の殻や獣・魚の骨などを捨てた遺跡。土器・石器なども混入している場合が多いので、考古学上重要な資料とされる。

     「石器時代」とあるのは英語の辞書から書き写したのでしょうか。日本の歴史では、旧石器時代→縄文時代→弥生時代→古墳時代→(飛鳥時代→)奈良時代→・・・・です。縄文時代を新石器時代、弥生時代を青銅器時代と言うのはよほど西洋かぶれの人でしょう。

  7. 学研 国語大辞典 第2版 1988 金田一春彦、池田弥三郎
    石器時代の人類がすてた魚介類の骨や殻が堆積したもの。また、それを伴う遺跡。「参」貝がら、動物の骨だけでなく、土器のかけらなども発見される。

  8. 大言海 新編板 大槻文彦 1982
    古塚ナドニ、貝殻ノ、層ヲナセルモノ。太古ノ原住民族ノ、貝類ヲ食ヒタル殻ヲ捨テタル掃溜ナリト云フ。石器、土器、骨、角、牙ナド、混ジテ発見ス。

     「原住民族」という単語は、日本人とは違う民族と認識していることを暗示しています。明治時代に日本人は朝鮮半島の民族の末裔と考えていたのか、高天原に住んでいた人が降臨して原住民を平らげたという歴史観を持っていたのか、不思議な書き方です。
     「殻を捨てたる掃溜め」は貝塚の価値を認めていなかったことを示しています。貝塚を作った「原住民族」は「掃き溜め」たゴミのそばに住んでいたと書いています。縄文人ってそんなに低次元な生活をしていたんでしょうか。日本国中の社会科の先生は「縄文人はゴミ捨て場のそばに住んでいた」と教えているんでしょうか。 違いますよ。 言海は日本で初めて辞書を作ったという点では優れていますが、内容はおかしい。辞書としては使わないでください。


  9. 講談社 日本語大辞典 梅柘忠夫、金田一春彦、他 
    古代人の食べ捨てた貝殻などが堆積した遺跡。世界的に分布。土器・石器・人骨・獣骨・住居址などが発見されている。考古学上の需要な研究対象。日本では3000ヶ所近くしられ、半数以上が縄文時代のもの。shellmound。

  10. imidas2000
    貝を食べたあとに捨てた貝殻を主とする堆積が貝塚。貝類は完新世(旧称沖積世)の温暖な水域や、海の侵入(海進)によってできた遠浅の海によく棲みつく。貝塚が盛んに残されたのは約9000年前(炭素14年代)から弥生時代の初めの2000年前ごろまでで、約1000ヶ所見つかっている。貝塚は当時のゴミ捨て場で、獣骨などの食べ滓や、土器・石器の壊れたものも多数含まれている。当時の墓地と重なることが多く、人骨が保存されている。・・・

     一番まともな辞書です。他の辞書は子引き、孫引きで作文していると想像しますが、この辞書は考古学の知見を多く持っている人の意見を聞いて作ったものと思います。ただ、「当時の墓地と重なることが多く」にクエッションマークがつきます。また、貝塚の基数を、「約1000ヶ所」と書いていますが、どこから出た数字でしょう。
     「知恵蔵」や「現代用語の基礎」が貝塚に関心を寄せてくれないのに比べると日本人が持たなければならない知識について考えていると思います。

  11. 「知恵蔵」、「現代用語の基礎」には項目なし。

    論外です。


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