加藤文太郎が登った兵庫の山々
加藤文太郎が名づけた「兵庫アルプス」の山々
小説「孤高の人」で加藤文太郎が登った山々
  加藤文太郎記念図書館    新温泉町  
浜坂に“単独行”の加藤文太郎を訪ねて

 昭和初期の登山家、加藤文太郎(1905〜1936)を新温泉町浜坂に訪ねた。「加藤文太郎記念図書館」は、1994(平成6)年、加藤の故郷であるこの地にオープンした。その山の形をした建物は、加藤がよく登った山、観音山に向かって建っていた。

加藤文太郎記念図書館


加藤文太郎

 1905(明治38)年、加藤文太郎は浜坂町(現新温泉町)に、漁師の家の四男として生まれた。
1919(大正8)年、神戸の三菱内燃機製作所に入社。会社の山歩きの会に入ったことをきっかけに、登山を始めた。はじめは近くの山の三角点を目ざすことに熱中し、また神戸から浜坂の自宅まで100kmの道のりを歩いて帰ることもあった。
 20歳、1925(大正14)年には、神戸市須磨から宝塚までの六甲を縦走し自宅まで帰る約100kmの道のりを21時間で歩き通した。また夏には一人で、日本アルプスの山々などに登頂するなど本格的な登山を始めた。
 23歳、1928(昭和3)年2月、鉢伏山から氷ノ山への冬期単独登頂を行い、これが冬山登山の始まりとなった。
 翌年、冬山単独登山を北アルプスへ広げる。
 26歳、1931(昭和6)年1月、富山県猪谷-上ノ岳-薬師-黒部五郎-三俣蓮華-鷲羽-烏帽子-濁小屋-長野県大町の北アルプス厳冬期縦走を10日間単独で成し遂げた。この驚異的な山行で、「単独登攀の加藤」「不死身の加藤」と呼ばれるようになった。
 30歳、1935(昭和10)年3月、浜坂生まれの花子さんと結婚。浜坂へ帰る途中、扇ノ山に登ったために、披露宴に遅れるというエピソードを残す。
 翌年1月、吉田富久とパーティを組み槍ヶ岳に向かったが、猛吹雪の中、北鎌尾根で遭難。30歳の短い生涯を終えた。

 
加藤文太郎(「孤高」加藤文太郎記念図書館.1997より)

 加藤の残した手記や記録は、「単独行」として出版された。その生涯は、新田次郎「孤高の人」の主人公のモデルとして著され、多くの人に読まれた。谷甲州は、新しい視点で加藤をモデルにした「単独行者」を表した。
 毎年秋に、「六甲全山縦走大会」が開かれているが、これは加藤の登山が先駆けとなっている。2018年には、この大会に合わせて加藤が愛用した登山道具などを集めた企画展が「六甲山ビジターセンター」で催された。
 加藤の足跡を訪ねて六甲や北アルプスを歩く人も絶えないという。加藤文太郎は、今も多くの人々をひきつけている。
加藤文太郎山岳記念室

 図書館の二階に「加藤文太郎山岳記念室」がある。階段を上がると、槍ヶ岳をバックにした加藤のレリーフが迎えてくれる。

加藤文太郎レリーフ

 山岳記念室には、加藤が使った登山用具や登山手帳、山で撮った写真、槍ヶ岳での遭難を伝える当時の新聞、これまでに発刊された「単独行」など、加藤にまつわるものが展示されている。

 登山靴は牛革製で、長さ28.5cm。靴底は厚く、本体との間ははがれないように金属で補強されている。スキーをはいたときの跡も溝となって、全面や側面に残されていた。
 カメラはドイツ製。飯盒の横にあるのは、登頂記念のスタンプを押した扇子。5つ、6つのスタンプが押されているが、インクの色が消えかかっていてどこの山かはわからなかった。
 
登山靴 カメラや飯盒

 ガラス戸の向こうに、山スキーが3組立て掛けられている。どれもヒッコリー製、木の板で作られたスキーである。
 真ん中のものは、花子夫人のスキー。
 結婚したその冬、加藤は花子夫人を赤倉のゲレンデに連れて行き、スキーを教えた。そして、「これからは毎年冬には一緒にどこかへ行こう。子供が生まれたら僕が負ってすべるよ」と言って、女用のスキーを買ってきて楽しみにしていた。1年足らずの短い二人の結婚生活の中での、楽しいひとときであった(『新編 単独行』より)。
 その約束は果たせず、このスキーはそのまま使うこともなく終わってしまった。
 
愛用のスキーとピッケル

 ガラスケースの中に置かれているのは、一冊の登山手帳。手帳の中身は、写真パネルとして手帳の周りに展示されている。
 手帳には、持ち物を入念にチェックしたあとが残っていた。食糧も装備も彼独特の創意によるものが多かったが、それをこの手帳に垣間見ることができる。
 手帳にはまた、重なる北アルプスの山並みのスケッチや、タイムメモ、「単独行」のもととなる山日記が記されている。
加藤の登山手帳

 加藤は、当時としてはめずらしく多くの写真を撮った。単独行のため、実際に登ったという証拠を写真に残す必要があった。
 加藤の撮った写真は、大きく引き伸ばされたものが壁に7点、また記念室の中央のパネルに20点。北アルプスの山々が中心で、どの写真にも雪と岩が写されている。
加藤の撮った山岳写真

新聞記事・「単独行」と「孤高の人」
 
 加藤文太郎は、1936(昭和11)年1月、槍ヶ岳で遭難してその短い生涯を終えた。遭難時や死体が発見されたときの新聞が、当時の緊迫した様子を伝えている。その見出しを追ってみよう。

 ◆「冬山に醸す憂ひ 『槍』に山の猛者消ゆ」 「不死身の加藤君驚嘆すべき数度の死線突破 家族ら捜査に向ふ」(1月9日 大阪朝日新聞)
 ◆「吹雪の“槍”で遭難 神戸の二人絶望か 消息をたち既に五日間」(1月9日 大阪毎日新聞)

 ◆「絶望の色濃し 山の猛者に集る美しい友情 “槍”の遭難事件」 「雪解けまでは死体の発見困難」(1月10日 大阪朝日新聞)

 ◆「国宝的山の猛者 槍で遭難 死体発見さる」 「四月ぶりにこの悲報! 遺児を抱いて夫人ら急行す」(5月1日 大阪毎日新聞)

 ◆「霊はピッケルで呼ぶ アルプスの犠牲者 涙の帰宅」(5月5日 大阪毎日新聞)

 新聞記事やその写真を見ていると、小説「孤高の人」のラストシーンがよみがえってくる思いがした。
遭難時の新聞記事

 花子夫人は、文太郎の新聞記事などをスクラップブックに残していた。
 スクラップブックには、「冬の槍を征服して」や「単身、槍穂高の雪中登山に成功 神戸の加藤文太郎君」など、輝かしい文太郎の偉業を報じた記事がある。
 スクラップブックの最後のページが開かれていた。そこには、「国宝的山の猛者 槍で遭難 死体発見さる」と題された大阪毎日新聞1月10日の記事が貼り付けられていた。
 
花子夫人のスクラップブック
最後のページ

 加藤の手記を集めた「単独行」は、遺稿集として遭難した年の8月、早くも刊行された。以後、「単独行」は、「日本山岳名著全集」などに収められたものを含めると7回に渡って刊行され、それを集めて展示されていた。
 新田次郎が加藤をモデルに描いた「孤高の人」は、1964(昭和39)年6月、「山と渓谷」に連載が始まった。その第1回の冒頭のページが、ガラスケースの中で開かれていた。ピッケルを手にした加藤が山に向かって佇んでいる。挿絵は小林泰彦である。
 
『山と渓谷 1964年6月号』 「孤高の人」の第1回

 山岳資料室の隣は、山岳図書閲覧室。ここには、山岳図書の古典から新しく出版された本まで、山岳に関する書籍、雑誌、資料が数多く揃っている。

浜坂 ゆかりの場所

 浜坂には、加藤文太郎ゆかりの場所が多くある。
■観音山
 加藤の家から、岸田川の向こうに観音山が大きく見えた。加藤は、この山によく登った。山頂からは、海と山に囲まれた浜坂の町がよく見える。
 
浜坂県民サンビーチから観音山を望む

■新田次郎文学碑
 浜坂県民サンビーチの松林の一角に「孤高の人」の著者、新田次郎文学碑がある。
 新田次郎は、加藤文太郎に冬の富士山で1回だけ会っている。新田次郎が中央気象台に勤務していた頃、富士山観測所に交代勤務のため登山する途中、5合5勺の避難小屋で加藤文太郎に会ったのである。
 「突風が吹きまくる富士山の氷壁をまるで平地でも歩くような速さで彼は歩いていきました。私たちは、天狗のようなやつだなと云いながら見送ったものでした。」と、新田次郎は記している(加藤文太郎記念図書館発行の冊子「孤高」より)。
 この碑には、「孤高の人」の一節が刻まれている。文太郎が、結婚式の当日に観音山に登り、そこからから浜坂の川や山や町を眺める場面である。
 
新田次郎文学碑

■加藤文太郎ふるさとの碑
 浜坂の港を眼下に見る城山公園遊歩道に、この碑は立っている。自然石を3つ並べ北アルプスの山々を形どった碑には、「不撓不屈の岳人 加藤文太郎ふるさとの碑」と刻まれている。

■宇野神社
 この神社は、新田次郎「孤高の人」に印象的な場面として登場する。小説中、文太郎は父が急病で浜坂に帰ったとき、この神社の石段で美しい目の少女と出会った。後の妻、花子である。(小説「孤高の人」)

2019年11月1日探訪


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