加藤文太郎が登った兵庫の山々
『単独行』より
 
1926年9月 扇ノ山
浜坂4:00ー霧ガ滝10:00ー大ズッコ13:00ー扇ノ山ー浜坂(午前1:00の汽車で浜坂駅を経つ)
 霧ガ滝から大ズッコまでは、スズ竹を漕いで登っている。大ズッコでは、木に登って四方を眺めた。扇ノ山から東へスズ竹を漕ぎ、岸田川の源頭から川を下って村に出た。
 このあと、文太郎はいろいろなコースから何度も扇ノ山を訪れた。
 
1927年4月 駒ノ尾、後山、三室山、赤谷山
4月29日 志戸坂峠ー板根ー岩津原ー小才田ー駒ノ尾ー後山17:30ー西河内18:30(泊)
4月30日 西河内6:00ー川井ー三室山10:30ー河内ー峠(カンカケ峠と思われる)ー戸倉18:00(泊)
5月1日 戸倉6:00ー赤谷山9:30ー戸倉11:00ー若杉峠ー養父駅21:00
 熊笹からスズ竹を漕いで登った駒ノ尾(大海)で、落ち葉の下に眠っていた三角点を見出し万歳を三唱した。駒ノ尾から後山までも大部分がスズ竹のラッセル。この頃、文太郎は、どの山頂でも自分の名を書いた小さな杭を打ち込んでいる。
 三室山・赤谷山でも、山頂で万歳をしている。文太郎は、登山記に登頂の喜びを素直に表現した。
 2日目は、三室山から河内へ下り、そこから戸倉まで歩いている。また、3日目は、赤谷山を下りて若杉峠を越え、養父駅まで歩いている。山を下りたあとも、驚異的な体力と速さで遠く離れた駅まで歩き続けた。
 
1927年5月 氷ノ山、鉢伏山、三ツガ谷
5月28日 八鹿駅0:39ー福定ー氷ノ山9:00ー大久保ー鉢伏山13:00ー八反滝ー秋岡16:00(泊)
5月29日 秋岡6:00ー三ツガ谷12:00ー佐坊ー小長辿−蒲生峠ー塩谷ー岩見駅21:30
 文太郎は、県境の山脈を兵庫アルプスと呼び、山々に兵庫白馬、兵庫乗鞍など名をつけた。兵庫槍と名づけた氷ノ山の山頂では、自ら名前をつけたそれらの山々を展望した。
 大久保へ下ったあと、草原を鉢伏山へ上り、そこから北へ下りた。
 2日目の三ツガ谷は、ずい分迷った上、ようやくその三角点を見つけた。三ツガ谷を下ったあと、県境を越えて岩見駅まで歩いているのも驚異的である。
 
1928年2月 氷ノ山、鉢伏山
2月11日 八鹿駅0:30ー関宮の堂7:00ー大久保11:00ースキー練習ー大久保17:00(泊)
2月12日 大久保8:00−氷ノ山14:00ー奈良尾ー大久保21:00(泊)
2月13日 大久保8:00ー鉢伏山12:00ー大久保14:00ー八鹿駅20:52
 初めての冬山。氷ノ山から東尾根を下ったが、スキーがへたなのと、絶壁の所があったりしてフラフラになって奈良尾の村に着いた。農家でめしを食わせてもらい、大久保に帰ってみると宿の人が心配し村人が探しに出ていた。
 鉢伏山に登るのもずい分苦労をしたが、「冬はなかなか夏のように早く行けません。どこでも夏のように寝られませんから、スキーが上手にならねば思うように山へは行けない事がわかりました。」と書いている。
 
1928年3月 仏ノ尾、扇ノ山、三ツガ谷
3月18日 浜坂駅5:00ー菅原10:00ーカンバ−仏ノ尾14:00ーカンバ15:00−菅原(泊)
3月19日 菅原7:00ー青山尾根ー石小屋尾根ー扇ノ山11:00ー大ズッコー西ノ丸ー上山14:00ー青下ー菅原(泊)
3月20日 菅原6:00ー石切り(1153m)ー三ツガ谷9:30ー池ガ丸(1088m)11:00ー(石小屋尾根)−菅原13:00ー浜坂駅
 前年5月登れなかった仏ノ尾にスキーで登った。2日目は扇ノ山へ。扇ノ山から北へ尾根をたどり、西ノ丸、上山と小さなピークをつないで下っている。3日目は、三ツガ谷(青ガ丸)へ。
 残雪の春山を、尾根をつたい谷を渡って、大胆なコース取りでねらったピークに立っている。この頃の文太郎は、宿を拠点として、そこから波状攻撃をかけるかのように日帰りで周辺の山々に登った。
 
1932年3月 氷ノ山、陣鉢山、三ツガ谷
3月19日 福定23:30ー地蔵堂20日3:00(泊)
3月20日 地蔵堂7:00ー氷ノ山11:00ー赤倉の頭ー桑ガ峠ー1059.6m−陣鉢山18:00ー(夜通し歩き続ける)……
3月21日 ……1057m……(迷う)……三ツガ谷18:00……(迷う)……(ビバーグ)……(雪の中に倒れる)……
3月22日 ……(再び倒れる)−三ツガ谷直下ー菅原18:00ー田中ー湯村
 氷ノ山、陣鉢山を極めた20日、夜になっても霧の深い中を北へ進んだ。21日の朝になって1057mで朝食をとったが、そこから迷ったり雪庇から落ちたりして三ツガ谷に立ったのが午後6時頃だった。三ツガ谷を下ったところで、再び雪庇をふみはずして、その雪庇の下に穴を掘ってビバーグした。湿った雪に肌着まで濡れ、このまま眠ると凍死すると思い、穴を抜け出し暗闇を歩き出す。しかし、行程ははかどらず疲労と睡魔のため錯覚が起こり始めた。
 やがて22日の朝がやってきた。三ツガ谷の頂上近くまで登ってきたが、山頂へ登るだけの力が残っていない。スキーを脱いでルックサックに腰掛けて眠ってしまった。4、5時間後、突然我に返ったとき、空は素晴らしく晴れていた。元気を取り戻した文太郎は、こおどりし、歌を歌ったり猟師に声をかけながらふもとの村へと滑っていった。
 
1934年3月 鳴滝山、東山、沖ノ山、駒ノ尾、後山、三室山、天児屋山、二ノ丸、氷ノ山、赤谷山
1日目 若桜ー三倉ー973m−鳴滝山ー東山ー吉川(泊)
2日目 吉川ー1158.9m−沖ノ山ー氷晶山ー駒ノ尾ー後山ー西河内(泊)
3日目 西河内ーー河内ー三室山ー大通峠ー天児屋山ー天狗岩ー吉川ー若桜ー舂米(泊)
4日目 舂米ーワサビ谷ー二ノ丸ー氷ノ山ーコシキ岩ー氷ノ山ー二ノ丸ー落折(泊)
5日目 落折ー戸倉峠ー赤谷山……
 病気の父を見舞いに帰った文太郎であるが、「山に迷う」あまり「ねえお父さん、ほんの二、三日ですよ」と山にでかけてしまう。
 ふもとの村に泊まり歩きながら5日間歩き通した。その行程を追ってみると、文太郎がいかに超人的であったかがわかる。
 実家では、5日も帰ってこない文太郎を心配して、父が捜索を頼んでいた。文太郎は、「いくら山に迷えるとはいえ、病気の父にこれほどまでも心配をかけるとは、なんという不孝者であろう。」と自らを省みている。 
 
1934年3月 氷ノ山ー陣鉢山ー三ツガ谷ー仏ノ尾ー扇ノ山
八鹿ー氷ノ山ー陣鉢山ー三ツガ谷ー仏ノ尾ー扇ノ山ー海上ー浜坂
 氷ノ山から扇ノ山を越して、父の見舞いに帰った。浜坂に着いたのは夜中であったが、文太郎は朝まで父のそばにいた。
 
その他
六甲山・雄岡山・シャクナゲ山・帝釈山・高尾山・高倉山・伊川谷村北方の山
 寮のあった神戸の近くの山によく登った。上記の山は、「神戸付近の三角点」に、一等三角点または二等三角点があった山として記している。

『孤高』(加藤文太郎記念図書館発行)より
 
扇ノ山(大正15年9月)※   三室山(昭和2年4月)※   氷ノ山・鉢伏山(昭和2年5月)※   鉢伏山ー氷ノ山(昭和3年2月)※   扇ノ山(昭和3年3月)※   妙見山(昭和4年2月)   妙見山ー蘇武岳(昭和4年2月)   妙見山(昭和5年3月)   妙見山(昭和6年1月)   氷ノ山・鉢伏山(昭和6年3月)   扇ノ山(昭和6年3月)   蘇武岳(昭和7年1月)   扇ノ山(昭和7年1月)   妙見山ー蘇武岳(昭和7年2月)   氷ノ山・陣鉢山(昭和7年3 月)※   妙見山ー蘇武岳(昭和8年1月)   氷ノ山ー鉢伏山(昭和8年2月)   氷ノ山(昭和8年2月)   妙見山ー蘇武岳(昭和8年3月)   若桜ー沖ノ山ー三室山ー三国岳ー氷ノ山ー戸倉峠(昭和9年3月)※   妙見山ー蘇武岳(昭和10年3月)   扇ノ山(昭和10年3月)

※のついたものは、「単独行」に記されている。