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小説「孤高の人」の作品の中で、加藤文太郎が登った山々(茶色字は兵庫の山)
須磨後背の山
 
海を見るために山に登った。暗くなって道を間違え、市街の灯に向かって森の中をおりていった。
高取山※1

 寮のあった和田岬から近いこの山に加藤はよく登った。海の見えるこの山から故郷の浜坂を想った。
 関東大震災の日は、海は静かな表情を見せていた。友人金川義助と登ったは、この友人が山頂の神社で詩吟を神主に聞かせた。
東六甲山
 芦屋から東六甲の山に登った。そこで、ロッククライミングを指導している藤沢久造に会い、文太郎は藤沢に「汗を流すために山に登る」と答えた。
六甲山縦走
 和田岬の寮を6時に出て塩屋から山に入り、横尾山、高取山、菊水山、再度山、摩耶山、六甲山、大平山、岩原山、岩倉山、宝塚と約50kmの縦走路を踏破し、その夜の11時半に神戸の町を和田岬まで歩いて帰った。
北ア 中房温泉ー燕岳ー大天井岳ー槍ヶ岳(大正14年夏)
 研修所を卒業し、神港造船所の技手になった文太郎。ヒマラヤ挑戦を夢見て、日本アルプスへ初めて入った。
 大天井岳の下で雷に打たれ、燕山荘に帰る。大天井岳の頂上から槍ヶ岳を見た文太郎は、「いつか、おれは北鎌尾根をやるぞ。」と言った。
高取山
 同期生たちに連れて行かれたネオンの街から逃げ出し、夜の高取山を駆けるような速さで登った。
穂高連峰・立山連峰・後立山連峰・南アルプス・富士山・乗鞍岳・御岳・木曽駒岳・山上ヶ岳・大山・船上山・白山・扇ノ山氷ノ山・八ヶ岳など
 大正14年〜昭和3年の4年間の夏期を通じて、許されるすべての休暇を投入して登った。
鉢伏山ー氷ノ山(昭和2年12月)
八ヶ岳(夏沢鉱泉ー夏沢峠ー硫黄岳ー横岳ー赤岳)(昭和3年12月〜昭和4年1月)
 初めての本格的な冬山は、寒さと猛烈な風と孤独、そして硫黄岳のモルゲンロートの美しさが文太郎を迎えてくれた。
常念岳(昭和4年2月)
沢渡〜上高地〜槍ヶ岳(昭和4年2月)
 夏期、何度か登っていた槍ヶ岳の頂上を厳冬期に踏む。山頂手前で、大学山岳部の5人のパーティーを追い抜いた。
北ア 立山(昭和4年3月)
 冬山に惹かれた文太郎。この年の有給休暇が、あと2日になってしまった。
奥穂高岳(昭和4年4月)
伊吹山妙見山
 冬の八ヶ岳以来、2年の間にこれらの山も冬に訪れている。
高取山
 下宿で金川に再会。金川の妻の陣痛が始まった朝、この山の頂で御来光を迎えた。
北ア 立山〜剣沢小屋(昭和4年12月30日〜)
 弘法小屋で6人のパーティーと出会ったが、文太郎は仲間に入れなかった。その6人は剣沢小屋で雪崩にあい遭難。
北ア 奥穂高岳(昭和5年2月)
 ツェルト1枚で雪の中に寝る。体力に余裕があり、食糧があれば、雪の中で眠っても死ぬことはないという確信を得た。
但馬妙見山(昭和5年3月)
 故郷に近い妙見山の残雪を踏んで、この期の冬山を終えた。
鍋蓋山・帝釈山・笠形山・段ケ峰・笠杉山・須留峰・鉢伏山・瀞川山
 神戸と浜坂を直線で結び、その直線付近の山頂を縫いながら浜坂へ進んだ。土曜日になると山支度をして、汽車やバスを利用して、その前の週に到達したところまで行き、そこから歩き出すのである。冬山山行にほとんどの休暇をとってしまった加藤が、次の冬山シーズンに入るまでの山行として考えついた。
北ア(昭和5年11)
 厳冬期北アルプス横断のための偵察山行。
北ア 富山県猪谷ー上ノ岳ー黒部五郎岳ー三俣蓮華岳ー鷲羽岳ー黒岳ー野口五郎岳ー三ツ岳ー烏帽子岳ー長野県大町(昭和5年12月〜昭和6年1月)
 厳冬期北アルプス横断を成し遂げた。連日の吹雪が視界を閉ざしたが、文太郎はビバーグした雪洞の中に吹き込んでくる粉雪の流線を見てディーゼルエンジンの形状を考える余裕もあった。山から下りると、遭難騒ぎが待っていた。
鹿島槍ヶ岳から後立山縦走(昭和6年2月)
 立木海軍技師の口添えで、有給休暇を超過して山に行くことができた。
藤橋ー剣岳ー立山(昭和6年2月)
 文太郎の単独山行は、新聞や雑誌にセンセーショナルに報じられるようになった。
高取山
 再会した園子は30分遅れて山頂の神社へやってきた。
八方尾根ー後立山(昭和7年1月)
 下山後、松本駅で買った新聞に、上海事変が伝えられていた。不況・言論統制・戦争の足音と、時代は重苦しくなっていた。
上高地ー槍ヶ岳(昭和7年2月)
 この山行後、文太郎は技師に昇格した。
富士山(昭和7年12月31日〜)
 5合5勺の山小屋に泊まる観測所員たちを追い越し、強風と蒼氷の富士を登り続け、夜に山頂に達した。実際に、作者新田次郎は、富士山頂の観測所に勤務しているとき文太郎に会っている。
氷ノ山ー三ツヶ谷山※2(昭和8年12月31日ー昭和9年1月3日)
 吹雪と霧と湿った雪のため、故郷の山で危うく遭難しそうになった。消耗し、睡魔にとらわれそうになったとき、文太郎の前に花子が現れた。文太郎は、花子の幻覚に導かれ、やっとのことで生きて下山することができた。
立山ー竜王山ー針の木峠小屋ースバリ山(昭和10年1月)
 結婚を目前に控えた文太郎。花子を思い、結婚後の自分を思いながら雪の山を歩いた。
檜原山、観音山※3(昭和10年1月)
 結婚式の日、故郷の山・観音山のいただきから生家に向かっておりていくのが自分らしいやり方だと加藤は思った。加藤は、前日の夜に香住で下車し浜で寝た。翌日、檜原山を経て、指杭の部落から裏道を観音山に登った。観音山の頂上からは、故郷浜坂の町の周りに三成山・空山・摺鉢山・秋葉山・愛宕山が見えた。その時、すでに結婚式の始まる午後3時が過ぎていた。
乗鞍岳(昭和10年12月31日)
 乗鞍岳、肩の小屋で宮村と落ち合った。乗鞍岳を下山し、栃尾村で花子に葉書を書いたあと二人は槍ヶ岳に向かった。
槍見温泉ー槍平ー槍ヶ岳ー北鎌尾根※4(昭和11年1月)
 単独行の文太郎が、これで山を止めるという宮村にひきずられて初めてパーティを組んだ。悪天候に無理を重ねた二人は、北鎌尾根からの帰路を吹雪に失う。滑り落ちた天井沢から、ビバークを繰り返しながら脱出を試みたが、宮村が命を絶ち、やがて文太郎も雪の中で二度と覚めることのない眠りに入った。



「孤高の人」は、加藤文太郎著「単独行」を参考に書かれているが、あくまでも小説である。文太郎の足跡は、事実と一致しているところもあるが、フィクションや事実とのずれも多い。

※1  小説では、何か心が揺れ動くときに心の発露として高取山へ登っている。もちろん、このような状況は創作である。しかし、実際の文太郎が高取山を何度も訪れたのは確かなようである。加藤花子は「夫 文太郎の思い出」で、文太郎が最後の槍ヶ岳山行の前に朝早く起きて高取山に登ったことを書いている。
※2 「単独行」では、昭和7年3月19日〜22日
※3 山に登ったために結婚式に遅れたが、この山行は創作と思われる。記念図書館山岳資料室の加藤文太郎年譜には、「昭和10年3月 浜坂にむこ入り里帰り、披露宴、神戸から帰りに扇山に登り帰浜が予定より遅れた。」とある。
※4 文太郎は「単独行」に「私は間もなく吉田君を誘惑してしまった」と書いているように、前穂北尾根から槍の北鎌尾根への縦走に吉田(小説では宮村)誘っている。昭和9年4月に二人で前穂北尾根に登ったが、槍の北鎌尾根は断念した。昭和11年1月の槍の北尾根山行でも、文太郎が吉田を誘い、リーダーとして引っ張った。