◆イエスはプロテスタント? * マタイの福音書 5章 − 聖書 新改訳 (日本聖書刊行会) 1 この群衆を見て、イエスは山に登り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た。 2 そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて、言われた。 3 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。 4 悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。 5 柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。 6 義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。 7 あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。 8 心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。 9 平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。 10 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。 11 わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。 12 喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。 13 あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。 14 あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。 15 また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。 16 このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。 17 わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。 18 まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。 19 だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます。 20 まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、はいれません。 21 昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。 22 しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし。』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者。』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。 23 だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、 24 供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。 25 あなたを告訴する者とは、あなたが彼といっしょに途中にある間に早く仲良くなりなさい。そうでないと、告訴する者は、あなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡して、あなたはついに牢に入れられることになります。 26 まことに、あなたに告げます。あなたは最後の一コドラントを支払うまでは、そこから出ては来られません。 27 『姦淫してはならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。 28 しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。 29 もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。 30 もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。 31 また『だれでも、妻を離別する者は、妻に離婚状を与えよ。』と言われています。 32 しかし、わたしはあなたがたに言います。だれであっても、不貞以外の理由で妻を離別する者は、妻に姦淫を犯させるのです。また、だれでも、離別された女と結婚すれば、姦淫を犯すのです。 33 さらにまた、昔の人々に、『偽りの誓いを立ててはならない。あなたの誓ったことを主に果たせ。』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。 34 しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。すなわち、天をさして誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。 35 地をさして誓ってもいけません。そこは神の足台だからです。エルサレムをさして誓ってもいけません。そこは偉大な王の都だからです。 36 あなたの頭をさして誓ってもいけません。あなたは、一本の髪の毛すら、白くも黒くもできないからです。 37 だから、あなたがたは、『はい。』は『はい。』、『いいえ。』は『いいえ。』とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです。 38 『目には目で、歯には歯で。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。 39 しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。 40 あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。 41 あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい。 42 求める者には与え、借りようとする者は断わらないようにしなさい。 43 『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。 44 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。 45 それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。 46 自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。 47 また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。 48 だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。 〔山上の垂訓の項参照〕 * 『キリスト教とイスラム教』によると − 戒律 紀元前三八〇年のころ、イスラエル民族はモーゼ(モーセともいいます)に率いられてエジプトを 脱出します。そして、シナイ山において、モーゼを仲介者にして神と契約を結びます。 それ以前のイスラエル民族は、ヘブライ人と呼ばれ、部族の集合体にすぎず、 民族としての自覚はもっていませんでした。 それどころか、エジプトでは、奴隷の状態でありました。 神と契約を結ぶことによって、彼らは奴隷の境地から脱出でき、民族としての衿持をもてたのです。 この契約に際して、神はモーゼに、イスラエル民族が守るべき「十誠」を授けられました。 それが「モーゼの十誠」と呼ばれるもので、『旧約聖書』の「出エジプト記」(20)と「申命記」(5) にはぼ同じ形で出てきます。 1 あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。 2 あなたはいかなる像も造ってはならない。 3 あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。 4 安息日を守ってこれを聖別せよ。 5 あなたの父母を敬え。 6 殺してはならない。 7 姦淫してはならない。 8 盗んではならない。 9 隣人に関して偽証してはならない。 10 あなたの隣人の妻を欲してはならない。 この「十誠」は、ユダヤ教・キリスト教において、宗教と倫理の基礎をなすものです。 ユダヤ教やキリスト教は、この「十戒」の基礎の上にたてられた宗教です。 ところで、戒律ということから言えば、「モーゼの十誠」はじつは序の口なのです。 『旧約聖書』の、たとえば「レビ記」などを読めばわかりますが、さまざまなことが命じられています。 食べていい動物と食べてはいけない動物のリストを示したり、出産のときの行動、皮膚病に対する処置、 セックスのタブー等々、そう言っては悪いのですが、まったくうんざりさせられます。 ユダヤ教には、無数といっていいほどの戒律があります。 しかし、キリスト教は、ユダヤ教のそのような細々とした戒律は 全部廃止してしまったのです。 いや、廃止した − と言っては、言いすぎになるでしょう。イエスは、 「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではな く、完成するためである」(「マタイによる福音書」5) と言っています。そしてイエスは、ユダヤ教の律法を超えたものとして、「愛」を強調しました。 「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』。これが最も重要な 第一の綻である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい』。 律法全体と預言者は、この二つの綻に基づいている」 同上、22) すなわち、イエスは、「神に対する愛」と「隣人に対する愛」でもって、ユダヤ教の律法主義 (戒律主義)を超越しようとしたのです。その意味で、キリスト教は「愛の宗教」だと言えますし、 ユダヤ教は「律法 (戒律)の宗教」なのです。 以下は、仮想である。 まず、「聖書・神は気まぐれ?」の項で 述べたように、「神は気まぐれと云う概念が定着していた」ことから話を進めたい。 そのような状況の中から、神(唯一神の元祖)が誕生した。 神は、自らの(気まぐれとも思われる)好みによって、 カインに対して行動することを促がした。 〔聖書の起源・土地取得伝承の項参照〕 即ち、カインは、@砂漠化を推し進めた従前の神々に対して、 また、A土地所有者に対して、つまりこれらの現行体制に対して、 果敢にプロテスト − 唯一神のみを戴くこと − したのである。 それも、一個人としてである。 即ち、カイン個人の人生観(宗教観)が更新されたのであった。 カインのこの果敢な行動は、その後「モーセの十誡」によって裏づけらることとなり、 後継者ヨシュアは、「あなたが足の裏で踏むところはみな、わたしがモーセに約束したように、 あなたがたにあたえるであろう。 あなたがたの領域は、荒野からレバノンにおよび、 大川ユフラテからへテびとの全地にわたり、日の入る方の大海に達するであろう」と云うことで、 土地所有者(体制)たるパレスチナへプロテストした。 即ち、このプロテストは、ヤハウェ神の強大な力によるものであり、 気まぐれな神観から絶対神観たる唯一神への確かなる証明、 つまり神格の更新であったことが窺われる。 〔聖書の起源・「戦う神」のパレスチナ侵入の項参照〕 やがて、イエスが誕生した。イエスもまた一個人のみで、果敢にユダヤ教(パリサイ人)に対して プロテスト、つまり前述したように、旧約聖書の概念 − ユダヤ教の戒律 − を改めようとした。正にこのプロテストは命がけであった。 即ち、戒律が更新されたのであった。 唯一神も、ヤハウェ神からゴッド神へ更新された。 キリスト教は、全世界へと広まるにつれてプロテスタントが登場し、 神の前の平等のことが主題になって、教会体制に対して果敢に プロテストしてきている。 このように、聖書の宗教は、時の価値観人生観の変化に呼応すべく、 既成概念に対してプロテストを繰り返して変容してきている。 プロテストすることに意義があり、 当該宗教からプロテストを抜きにしては考えられない。 イスラム教の誕生も然りであった。 イスラム教は、開祖ムハンマドが(従前のヤハウェ神に代わって)アッラー神を戴く と云うプロテストによって誕生した。 世界的な経済や生活水準の向上が図られてきている昨今、コーランの内容についても、 プロテストされる日は遠くないであろう。 イエスのプロテストによって誕生したキリスト教は現在、 世界を席巻しようとしているが、しかし課題はある。 それは、人は生まれながら罪人である、と云う既成概念であろう。 この概念に対してのプロテストが成就 − 人は生来善人 − すれば、 正に神の国の到来となるのであろうか。 しかして、既成プロテスト概念に対して、 新たなプロテストが主張される時が来るのであろうか、 それとも、プロテストは死語となるのであろうか……。 |
[次へ進む] [バック] [前画面へ戻る] |