◆構図 世界宗教においては、神(仏陀たる釈迦を含む)と人とは、 構図の上では上下関係にあり、 並列的と云いましょうか、”平等”と云う概念はあり得ません。 聖書において、イスラエル共同体の始まりである、 アブラハム一族は、奴隷を抱えていた”イスラエルの民” − 非平等 − の集団でありました。 共同体における不平等の構図は、聖書を貫く根本理念 − 前提条件であろうと思われます。 〔アブラハム:約束の土地を求めての項参照〕 しかして、不平等の構図は、平和(シャーローム)が確保されたとき、 議論の対象とはならなくなりましょう。 〔ヤハウェ神との契約 − シャーロームの確保のための項参照〕 ところが聖書は、「寄留者の墓」 ・「山上の垂訓の場合」(異教徒や敵対者) のことを常に念頭に置いていますので、 不平等の構図を解消するための”戦い”は 永久に続けられることになりましょう。 ところでよく、「平等」と云う標語(スローガン)を掲げたり、 「神の前では何人も平等である」などとよく云われておりますが、 そのこと自体、即ち「平等」を実現することはほとんど不可能なのです。 何故なら、もしこの願いが成就されたとしたならば、そのとき、「神の国」に至ったことになるからです。 経済の第一義的に意味は、「〔economy〕物資の生産・流通・交換・分配とその消費・蓄積の全過程、およびその中で営まれる社会的諸関係の総体。」(goo 辞書)です。 この要件を満たそうとするためには、人々の間、又は集団(〜国家)の間に、 不平等〜差別〜格差(=不均衡と云う)があることが前提となります。 「水は低きに流れる」の例えのように、その流れ(活動)が経済であると思います。 やがて上方の水は涸れて、下方の水は満杯となります。 満杯になった状態、それがシャーロームの考えであると思います。 しかし、満杯の水(人々)は、「生き物」故に互いに運動(成長運動)しあって、 何時とはなしに増えて溢れ出ることになります。 即ち、溢れ出ることで、更に不均衡な状態へ突入してゆきます。 このことは、絶えることなく永遠に繰り返されるのです……。 この繰り返し(=進展)が、人間ないしは万物の成長なのでしょう。 仏教についても同じことが云えましょう。 大乗仏教では、為政者が関与してきます。 その構図は、上位から仏法僧の順です。人々は、よくて僧の次に位する仏の弟弟子、 一般的には、僧の弟子とされています。 この構図を維持することは、政治的にはまことに好都合です。 政治主導の下に、仏〜僧を掌握することで、万事が意図するように治められるのです。 何故なら、人々は上位へ浮かび上がることは、絶対に許されないからです。 一方、真言密教においては、成仏後の理想の世界として、 大日如来を中心とする曼荼羅(まんだら) を描くことが求められます。 曼荼羅では、理想とする”居住空間”は、大日如来を中心に、諸尊がそれを取り囲み、 人々はその周りに配置されます。人々は、大日如来の居る中心の近くへ到達(図示)することは、 ほぼ不可能です。 このように、大乗仏教においては、(密教では一縷の望みは残されているものの) これらの構図は改変できない宿命にあります。 神道では、集団での構図は、「時処位」として捉えております。 構図上の上下(不平等さ)関係を容認と云いましょうか、差別と云いましょうか、 そのようなことを負(マイナス)としてではなく、 積極的に正(プラス)なものとして捉えます。 即ち、下位なり、遠い所に位置する者は、やがて上位又は近くに至れる、 と云う確信を持っているからです。 神道の神には、天つ神と国つ神とがあります。 これらの神たちは、その出生の由来に応じて、それぞれの職責(=神恩)を果たすとされています。 天と国とでは、互いに居住する空間が異なるため、敵対視するとか、侵略するとかの考えは生じません。 人々は、普段は国つ神の許に居りますが、当該人の業績や努力に応じて、 将来、子孫や後進の者たちによって、神(国つ神の仲間)として祀られることとなります。 この場合、国つ神との上下関係はありません。 |
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