GLN 宗教を読む

聖書の起源

◆約束の土地を求めて
* 旅の始まり
 アブラハムは、父テラにしたがってカルデヤのウルをたち、 妻のサライと一緒にハランに着き、その地に住んだ。 父テラは、ハランで死んだ。
 
 その時、アブラハムに神の声がのぞみ、こう言われた。
「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。 わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。 あなたは祝福の基となるであろう」(創世記)。
 これが旅のはじまりであった。その時、アブラハムがどのようにこたえたか。 創世記には、「アブラハムは主に言われたようにいで立った」としか書かれていない。 神の示す土地が具体的にどこであるか、それがはっきりしないのである。 それが判然としないかぎり、アブラハムはまことに、とりとめない旅に出発したとしか言いようがない。
 おそらくアブラハムは、この神の言葉に約束をみたのであろう。 それは、土地取得の約束であった。 アブラハムは、妻のサライ、弟の子ロト、そして集めたすべての財産と、 ハランで得た人々(羊と牛と天幕と家畜をあつかう牧者=奴隷のこと)を引き連れて、父の家をあとにした。 行く手には辛酸が待っていた。
 
* アブラハムの辛酸
 アブラハムとその家族は、オアシスからオアシスへの移動と寄留の生活であった。 こうした放浪の生活が、どれほどの緊張と忍耐を必要としたか。 アブラハムは行く先々で牧草地を確保し、その地に寄留するための、細心の工夫をこらさねばならなかった。 しかし、どれほど忍耐しても、ついには、追われるように退去するほかに仕方がない。 しよせん寄留者でしかなかったからである。 寄留者アブラハムの苦心を物語る挿話を、創世記からひろってみよう。
 
 挿話は、異邦の民への接近が、どれほど多くの予知できぬ危険をともなっていたか、 そして危険を避けるために、群のリーダーが、どれほどの犠牲にたえねばならなかったかを伝えている。 犠牲とひきかえなしに彼等は寄留置の確保さえ、容易にはできなかったのである。
 例えば、アブラハムが、カナン地方におこった激しい飢饉をさけるため、 エジプトにくだり、その地に逗留しようとしたときの挿話である。
 アブラハムの一行が、いよいよ目ざすエジプトを目前にしたとき、 アブラハムは、妻のサライにこう言った。
「わたしはあなたが美しい女であるのを知っています。 エジプトびとがあなたを見る時、これは彼の妻であると言ってわたしを殺し、 あなたを生かしておくでしょう。どうかあなたは、わたしの妹だと言って下さい。 そうすれは、わたしはあなたのおかげで無事であり、 わたしの命はあなたによって助かるでしょう」(創世記)。
 
 アブラハムの予想は的中する。 彼らがエジプトに着いたとき、エジプトの高官は、サライをみて、その美しさに驚嘆し、 サライはさっそく王宮に召しかかえられる。 一方アブラハムは、この美しいサライのゆえに、手厚くもてなされ、多くの羊、牛、ろば、男女の奴隷、 およびラクダを入手する。アブラハムの一行は、当面、寄留をゆるされたのである。
 ところが、意外なところから破綻がくる。 それは、激しい疫病がエジプトにおこったことに不吉な予感をいだいたパロ(エジプト王の呼称)が、 サライの身辺を洗った結果、策略が露見してしまったからである。 バロは激怒し、サライとアブラハムにただちに退去を命じる。 アブラハムはエジプトの地を去らねばならない。 彼は新しい寄留地を求め、再びあてのない放浪の旅に出発する(創世記)。
 物語には、土地をもたない寄留者のあわれがにじみでている。 寄留地の確保という、ただそれだけのことに、 アブラハムは、妻を犠牲にするという大きな代償を払わねばならなかった。
 これと同じ経験は、アブラハムの子のイサクの旅物語にもくり返されている(創世記)。
 
 ここで留意したいのは、”イスラエルの民”とは、もともとは土地を持っていなかったが、 神が約束してくれたので、その土地を求めて放浪の旅を続けていた。 即ちこの時代、持てる者と持たない者が存在し、持たない者は神の意により、 持てる者の土地を分け与えてもらえるのだと云う考えである。 所有物においての不公平さを語っている。
 次に重要なことは、”イスラエルの民”とは、”奴隷”を所有している民族であった、 と云うことである。
 〔構図武士道の項参照〕

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