GLN 武士道

9 忠義

 封建道徳中他の諸徳は他の倫理体系もしくは他の階級の人々と共通するが、 この徳 − 目上の者に対する服従および忠誠 − は截然(せつぜん)としてその特色をなしている。 人格的忠誠はあらゆる種類および境遇の人々の間に存在する道徳的結びつきであることを、 私は知っている、 − 掏摸(すり)の一団もフェイギン(ユダヤ人窃盗団の頭)に対して忠誠を負う。 しかしながら忠誠が至高の重要性を得たのは、武士的名誉の掟においてのみである。
 ……
 菅原道真は嫉妬讒誣(ざんぶ)の犠牲となって都から追われたが、無慈悲なる彼の敵はこれをもって 満足せず、彼の一族を絶やそうと計り、その子いまだ幼かりし者の所在を厳しく詮議して、 道真の旧臣源蔵なる者が密かにこれを寺小屋に匿いいる事実を探り出した。 日を定めて幼き犯人の首引渡せとの命令が源蔵に渡されし時、彼のまず思いついた考えは適当なる 身代りを見出すことであった。彼は寺子の名簿を按じ、寺小屋に入り来る児らをば一々注意深き 眼をもって精査したが、田舎生まれの児らの中には彼の匿える若君と聊かの似通いをもつ者もなかった。 しかしながら、彼の絶望はただ暫時であった。 見よ、器量賎しからぬ母親に連れられて寺入り頼む一人の児あり、 − 主君の御子と同じ年頃の 上品なる少年であった。
 幼き君と幼き臣との酷似を、母も知り少年自身も知っていた。我が家の奥にて二人は祭壇に身 を捧げたのであった、少年は彼の生命を − 母は彼女の心を。しかし外には色にも出さなかった。 かくとも思いよらず、源蔵は心ひそかにこれと定めた。
 
 ここに犠牲の山羊が獲られた! − 物語の残余は簡単に述べよう。 − 定めの日に検視の 役人〔松王丸〕が首受取りにやって来た。贋首をもて彼を欺きうるであろうか。 哀れなる源蔵は刀の柄は手をかけ、もし計略が見破られたならば、検視の役人にか己れ自身にか、 一撃を加えんものと固唾を呑んだ。松王丸は彼の前に置かれし浅ましの首を引き寄せ、 静かにためつすがめつした後、落ち付いた事務的な調子で、紛いなしと言い放った。  − その夜淋しき家にて、寺小屋に来た母が待っている。彼女はおのれの児の運命を知るや。 彼女は戸口の開くのを熱心に見守っているが、それは児の帰りを待つのではない。 彼女の男は久しき間道真の恩顧を蒙ったが、道真遠流(おんる)の後、 夫は事情余儀なく一家の恩人の敵に随身した。彼自身は、残忍とはいえ自己の主人に 不忠たるをえなかった。しかし彼の子は祖父の主君の御役に立つをえたのである。 道真の家族を知る者として、若君の首実検の役目を命ぜられたのは彼であった。 今その日の − しかり一生の − つらき役目を仕遂せて、彼は家に帰り、 敷居を跨ぐや否や妻に呼びかけて言った、「女房喜べ、倖は御役に立ったわ、やい!」。
 
 「何という無残な物語!」と、読者の叫ぶのが聞える。「両親が相談の上で、 他人の生命を救わんがために罪もなきわが児を犠牲にする!」。しかしこの児は自ら知りかつ甘んじて 犠牲となったのである。これは代贖(だいしょく)の死の物語である −  アブラハムがイサクを献げようと思った物語と同様に著しき話であり、 またそれ以上に嫌悪すべきものでもない。双方の場合ともに、目に見ゆる天使から与えられたか 見えざる天使からか、また肉の耳によりて聞いてか心の耳によりてか、 いずれにせよ義務の召命に対する従順、上より来る声の命令に対する完き服従があったのである。  − しかし私は説教を差し控えよう。
 〔菅原道真公の項参照〕
 〔聖書の起源/約束の土地を求めての項参照〕
 
 西洋の個人主義は父と子、夫と妻に対して別々の利害を認むるが故に、人が他に対して負う義務を 必然的に著しく減ずる。しかるに武士道においては、家族とその成員の利害は一体である、  − 一にして分つべからざるものとなす。この利害を武士道は愛情と結びつけた − 自然に、 本能的に、不可抗的に。それ故に、もし我々が自然愛(動物でさえもつところの)によりて愛する者 のために死ぬとも、それが何であるか。「汝ら己れを愛する者を愛すとも、何の報いをか得べき。 取税人もしかするにあらずや」。
 頼山陽は彼の偉大なる『日本外史』において、父の叛逆行為に関する平重盛 胸中の苦闘をば、側々たる言葉をもって述べている。「忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば 忠ならず」。哀れむべし重盛! 彼れ後、魂を傾けて死を天に祈り、純潔と正義の住み難きこの世より 解放せられんことを願いしを見るのである。
 多くの重盛が義務と人情との衝突によりて心を裂かれた。じつに、シェイクスピアにも、『旧約聖書』 にすらも、我が国民の親に対する尊敬を現わす概念たる「孝」に当る適切なる訳語は含まれていない。 しかるにもかかわらず右のごとき衝突の場合において、武士道は忠を選ぶに決して逡巡しなかった。 婦人もまたその子を励まして、君のためにすべてを犠牲にせしめた。 寡婦ウィンダムとその有名なる配偶者に劣らず、武士の妻女は毅然としてその子を忠義のために 棄つるに躊躇しなかった。
 
 武士道はアリストテレスおよび近世二、三の社会学者と同じく、国家は個人に先んじて存在し、 個人は国家の部分および分子としてその中に生まれきたるものと考えたが故に、個人は国家のため、 もしくはその正当なる権威の掌握者のために生きまた死ぬべきものとなした。『クリトン』の読者は、 ソクラテスが彼の逃走の問題について、国法が彼と論争するものとして述べている議論を 記憶するであろう。その中で彼は国法もしくは国家をしてかく言わしめている、「汝は我が下に生まれ、 養われ、かつ教育されたのであるのに、汝も汝の祖先も我々の子および召使でないということを 汝はあえて言うか」と。これらの言葉は我が国民に対し何ら異常の感を与えない。 何となれば同じことが久しき前から武士道の唇に上っていたのであって、ただ国法と国家は 我が国にありては人格者によりて表現されていたという差異があるに過ぎない。 忠はこの政治理論より生まれたる倫理である。
 
 敬治的服従 − 忠 − をもってただ過渡的職能を賦与せられたるに過ぎずとなすスペンサー氏 の説を、私は全然知らぬわけではない。そうかも知れない。その日の徳はその日に足る。吾人は 安んじてこれを繰り返そう。ことに吾人はその日というのが長き期間であって、我が 国歌にいわゆる「さざれ石の巌となりて苔のむすまで」なることを信ずるにおいてをや。
 この関連において、イギリス人のごとき民主的国民の間においてすら、ブートミー氏が近頃 言えるごとく、「一人の人ならびにその後裔に対する人格的忠誠の感情は、彼らの祖先たる ゲルマン人がその首領に対して抱きたるところであり、これが多かれ少なかれ伝わって彼らの君主の 血統に対する深厚なる忠誠となり、それは王室に対する彼らの異常なる愛着の中に現われている」 ことを、吾人は想起するであろう。
 ……
   武士道は、我々の良心を主君の奴隷となすべきことを要求しなかった。トマス・モーブレーの 次の詩は善く我々を代言する、
  畏るべき君よ、我が身はみもとにささぐ、
  我が生命は君の命(めい)のままなり、わが恥はしからず。
  生命をすつるは我が義務なり、されど死すとも
  墓に生くる我が芳しき名を、
  暗き不名誉の用に供するをえず。
 
 主君の気紛れの意志、もしくは妄念邪想のために自己の良心を犠牲にする者に対しては、 武士道は低き評価を与えた。かかる者は「侫臣(ねいしん)」すなわち腹黒き阿諛(あゆ) をもって気に入ることを求むる奸徒(かんと)として、或いは「寵臣(ちょうしん)」 すなわち卑屈なる追従によりて主君の愛を盗む嬖臣(へいしん)として賎しめられた。 これら二種の臣下はイアゴーの語るところと正確に一致している、 − 一は「我が身を繋ぐ 頸の網を押し戴き、主が厩の驢馬同然、むざむざ一生を仇に過ごす、正直な、はいつくばいの愚者」 であり、他は「陽に忠義らしき身振り業体(ぎょうてい)を作り立て、心の底では 我が身のためばかりを図る者」である。臣が君と意見を異にする場合、彼の取るべき忠義の途は リア王に仕えしケントのごとく、あらゆる手段をつくして君の非を正すにあった。容れられざる時は、 主君をして欲するがままに我を処置せしめよ。かかる場合において、自己の血を濺いで言の誠実を表わし、 これによって主君の明智と良心に対し最後の訴えをなすは、武士の常としたるところであった。
 生命はこれをもって主君に仕うべき手段なりと考えられ、しかしてその理想は名誉に置かれた。 したがって武士の教育ならびに訓練の全体はこれに基づいて行なわれたのである。

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