夜明け前

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時々ふと得体の知れない不安に見舞われる事がある。形があると思っていたものは実は存在せず、掴んだと思った物が空気のように手をすり抜けていく。体の中で何かが欠けて崩れていく。胸をぐっと掴まれたように息が詰まる。そんな不安だ。そいつは寝ても覚めても飯を食っていても関係なく、昼と夜の区別すら無く、突然にやってくる。

「……―――っ!!」
大声をあげながら跳ね起きて、その声の大きさに自分で驚いた。もちろんそれはオレの隣りで寝ていたカカロットも同じだったらしい。一たび眠れば雷が落ちても平気で眠っていそうな奴が、顔を上げて寝ぼけ眼を擦りながらこちらを見ていた。
「なんだぁベジータ、外まだ真っ暗だぞ。どうかしたんか?」
「な、なんでもねえ!!」
むにゃむにゃと呟くカカロットにオレが慌ててそう言うと、奴は『何だそうか』とあっさり納得した。大あくびを一つした後、腕を枕にころりと横になってたちまち健やかな寝息をたてはじめる。夢にうなされて飛び起きた事を、どう言い訳しようか頭をひねりかけていたオレは拍子抜けした。口を半開きにしてオレの隣りで寝ている呑気な寝顔に、いつものオレならばムカッ腹を立ててヤツを蹴り落としていることろだ。けれど今日はそんな気分にはならなかった。


時々ふと得体の知れない不安に見舞われる事がある。
それは寝ても覚めても関係無く、夢の中にまで現れては人を煩わすのだ。


むき出しの胸も首筋も、寝汗でぐっしょりと濡れていて気分が悪い。今は一体何時だ?時間を確認しようと、ほの暗い室内に視線を巡らすと窓から月光が射している。窓もカーテンも開けっぱなしで、遠い西の空には丸い月が傾いているのが見えた。おそらく今は日が昇る2.3時間前といったところか。
地平に沈みかける月は、真円を描くには僅かに足りない月齢だが、それでも見ていると体がぞくりと総毛立つような感覚を覚える。尾を無くした今でも、月を見れば血がたぎり体が疼く。それは同族の血を引くカカロットも同じ事らしい。あの月が真南の空に差し掛かる頃、窓から強引に押し入ってきた奴に、声を上げる間も無く強引に押さえつけられて、そのまま床の上で抱かれた。拒む事を許さない荒々しい愛撫を受け、抑えきれない泣き声を上げながら身を捩じらせれば窓の外に月が見えた。月光を背にした奴の表情は伺い知れなかったが、黒い影の中で野生の獣のように目だけがギラギラ輝いていた事を覚えている。


そこまで考えて、思わず息を飲んだ。記憶と共に、体の奥に熾火ようにくすぶる熱の余韻と、あらぬ箇所の疼痛が甦ってくる。
「…………っ!!」
オレを翻弄し、熱を受け入れされる猛々しい存在。それが今オレの隣りで幸せそうな顔をして眠りこけている奴と同一人物とはとても思えない。
こいつはいつもそうだ。突然に現れてこちらの気持ちを引っかきまわした後、また突然に去っていく。決して一ところに留まる事が無い。今こうして呑気にオレの隣で寝ていることが不思議に思えるくらいだ。
「くそっ、カカロットの奴、好き放題やりやがって!」
思わず悪態を付きながら、しかし心のどこかでそれを喜ぶ自分を感じていた。体の奥に残る痛みと快楽。どれも皆、カカロットがオレの中に残したものだ。



時々ふと得体の知れない不安に見舞われる事がある。
これは本当は夢なのではないかと唐突に不安になる。決して一ところに留まる事が無い男がオレの隣りにいるという、自分にとって都合の良い唯の夢なのでは無いかという不安に見舞われる。
日の光の下で快活に笑う奴を隣りで見る事も、月明かりの元で獲物を狩る獣の如く荒々しく肌を貪られる事も、全て自分の夢なのではないかと不安に見舞われる。
先ほどうなされて跳ね起きた夢でもそうだ。夢の中、黙って立ち去るカカロットをオレは夢中で追いかけていた。追いかけて夢中になって走っても、なぜか歩き去る奴の背には一向に追いつけなかった。いくら走っても奴の背中に追いつけない。それどころかその差は開くばかりでいつの間にか奴の姿は遠くかすんで見えなくなり、オレは声を限りに奴の名を呼びーーー。


カカロットが隣りにいる事は全て夢で、本当は奴はもうこの世のどこにもいないのではないかと。オレの手の届かない遠いところに行ってしまっているのではないかと。オレの中に残ったやつの欠片が、寂しがって奴を呼んでいるだけなのではないかと。


そこまで考えた時、ふいに膝の上に揃えたオレの手の上に温かいものが重ねられた。
「……ベジータ」
いつの間にか眠りこけていたとばかり思っていたカカロットが目を開いていて、オレの手に触れいていた。
「おめえまだ寝てなかったのか」
同時のオレは自分の握った拳がそれまでずっと震えていた事を知った。拳が白くなるほどきつく握られていたオレの手がじんわりと温められる。
「まだ朝までには時間があるからさ、おめえももうちょっと寝てろよ。朝になったらおめえと修行してえんだ」
「朝、だと…?」
「寝不足でバテちまったらオラつまんねえよ。おめえもつまんえだろ?」
それだけ言うとカカロットは、また一つ大あくびをした後目を閉じて、たちまち呑気そうな顔で再び深く眠り始めた。オレの手に自分のそれを重ねたまま。


『朝になったら』
カカロットの声が、残滓のように耳に残る。オレは暫くそのままの姿勢で座っていた。『朝になったら』。…朝になってもこいつは本当にまだオレの隣りにいるんだな?
「……おい、カカロット……」
暫く迷った後、オレがカカロットに呼びかけても、カカロットは目を覚まさなかった。奴の寝息は穏やかなままだ。相当深く眠りこんでいるらしい。もう一度オレは迷った後、今度はカカロットの隣りに身を横たえた。分厚い胸に頬を押し付けて出来るだけ深く身を寄せても、すっかり眠りこんだカカロットが目を覚ます事は無かった。押し付けた耳から奴の体温と鼓動を感じ、なぜかオレを安心させた。


時々、強い不安に見舞われる事がある。
これは本当は自分にとって都合の良い夢で、本当はカカロットはオレを置いてどこか遠くへ行ってしまったのではないかと。けれとオレの中に残るこいつの真新しい一部が、そうではないと告げている。今この時、確かに奴はここにいるのだと告げている。オレは先ほどまでの強い不安が、押し付けた頬に感じる奴の体温に氷解していくのを感じていた。
窓から見える月は、先ほどよりも地平に近づいている。夜明けまであと少しだ。月が沈み日が昇るまでの短い間、もう少しだけ寝るとするか。カカロットの胸にぴたりと身を寄せて、その鼓動に耳を傾けながら目を閉じる。目を閉じてから眠りに落ちるまで、ずっとその胸に縋りついていた。もう夢の中でも離れる事のないようにと思いながら。