治らない傷

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その部屋はどこまでも広大で、白く清潔で、同時に虚無に満ちていた。
起伏のない大地は一見緩慢でありながら、そこに立つ者の骨を砕くほど強い重力を湛え、果てることを忘れてどこまでも白く広がっている。同様にどこまでも白く広大な空は太陽を知らずのっぺりと輝き、はるか彼方に見えるそれらの消失点はあいまいだ。


「父さん…大丈夫ですか…?」
トランクスがベジータに気遣わしげに声をかける。寝台に身を横たえた彼は、苦しそうに顎で呼吸を繰り返していた。懸命に息を吸おうとしているが、しかし吸うべき空気は希薄で、それでいて同時に奇妙な重圧感も持っていて、呼吸するたび肺を押しつぶしたり破裂させようとするものだから、彼の呼吸は一層荒く苦しげになる。
「……………っ……」
目を開く事の無いまま、はあはあと荒い呼吸をつづけるベジータの額に手を当てる。相変わらずひどい高熱だ。このままでは傷が癒える前に、彼の体がまいってしまうだろう。トランクスは口元に手を当てながら少しの間考えこんで、それから戸惑いがちにベジータの枕もとに膝をついた。


「すいません、父さん。その…、あまり体力を落とすと傷の治りが悪くなりますから…、少しだけ、ゆるしてもらえますか?」
答えるはずの無い彼に詫びの言葉を述べてから、頬の脇に手を着いて、その額にくちづけた。負担をかけないように、出来る限り、そっと。そのまま自分の気を注ぎ込んでやれば、彼のきつく寄せられた眉根はほんの少し解かれる。その様子を目にして気持ちが軽くなり、今度は瞼に、鼻先に、頬に、耳朶にくちづけていき、その度に少しずつ気を分け与えていく。そのうち彼の呼吸はすっかりおだやかになって、握りしめられていた拳が解かれ、痛みのために強張っていた体の力も抜けて、薄く開いた唇からすうすうと静かな寝息を立て始めた。その様子を確かめてからトランクスは安堵の息をつき、ようやく深く眠り始めた人の髪を梳き撫ぜた。
「もし覚えていても、目を覚ました時に怒鳴らないでくださいね」

しかし彼は唇だけには触れなかった。


それにしても、とトランクスは思う。
どうやらベジータの傷は無事に快方へと向かっていて、このまま外界で言うところの二、三日も寝ていればすっかり治ってしまうだろう。本当に良かった。あの時ーーこの白い荒野で倒れていたベジータの姿を目にした時は、本当に自分の心臓が止まるかと思うほど恐ろしかったのだ。


ベジータの気の変化にはずいぶん前から気がついていたが、トランクスはあえてそれを気にしないでいた。いつも一人で修業する事を好む彼に対して、下手に心配そうな様子を見せると、返って『余計なお世話だ』と彼の不興を買う事が経験上分かっていたからだ。
しかし大気が燃えているかと思うほど気温が上がり、次に吐き出す息が凍るほど下がった後、いつも必ず唯一の居住空間であるこの場所に戻ってくるはずの彼が、三回気温の上昇と下降を繰り返した後でも戻って来なかった時はさすがに不安に駆られた。そこで改めてベジータの気を探ってみて、トランクスは驚いた。探ればいつも強い存在感を持って感じられるはずのベジータの気が、驚くほど弱々しくなっている事に漸く気がついたのだ。トランクスは、あわててベジータを捜しに飛び出した。


どこまでも白い世界に方向感覚を無くしそうになり、ここで迷えば一生ここから出られない恐怖を感じながら、それでも懸命に辺りを探しまわった。外界の時間では小一時間も飛び回った頃だろうか、まっ白な大地にぽつんと赤い点が目に止まり、近づいてみると、それは大地に大量に流れ出した血だまりだということに、すぐ気がついた。
果たして、探していたベジータはボロボロに傷を負った状態で倒れていた。擦傷、熱傷、裂傷、一体どんな無茶な修行をすればここまで傷だらけになるのかと思うほどその身は傷ついていていて、慌ててトランクスはベジータの傍らに飛び降りた。


「父さん、父さん!しっかりしてください!」
いくら呼びかけても返事は無い。彼は完全に意識を無くしていた。大量に流れ出た血はすでに乾き始めて、大地に体が何箇所かへばり付いてしまっている。失血のしすぎで体が冷たい。こうしてはいられないと、傷を悪化させないよう慎重にその体を地面から引きはがし、そっと抱き上げる。そのままトランクスは地面を強く蹴って舞い上がり、怪我人に負担をかけない速度の限界まで飛ばして居住スペースに戻った。



彼を横にならせ、出来る限りの傷の手当をする。『傷の手当』と言っても、病院もなければ抗生物質も無いこの場所だ、できることといえば、傷を洗って包帯を巻きなおすくらいだ。それでもトランクスはベジータに付き添って、出来る限りの看病をした。
どこまでも真っ白なこの世界は、あまりに無機質なので完全に無菌状態かと思っていたのだが、自分たちが外部から持ち込んだ微生物や細菌がしっかり存在していたらしい。
無茶な修行を繰り返したためできた傷は、やがて、癒える前の兆候として膿と共にひどい高熱を発し始め、無茶をした当然の結果とでも言うようにベジータを苦しめた。彼を連れ帰る時はじっくり検分する余裕もなかったが、治療を施しながら確認した彼の傷は、大小ふくめて驚くほどの数だ。肩から胸に掛けて斜めに走った傷などは特に酷い。サイヤ人の脅威の治癒能力でその傷はすでにふさがりかけているが、普通なら腕を失っていたところだ。


「まったく、無茶をする人だ、父さんは。少しは自分の体を大事にしてください。」
答えがあるはずがないとは分かっていたが、それでもベジータに聞かせるように、トランクスはゆっくりとした口調で話しかけた。こうして長い時間彼と対面するのは初めての事だ。
『父さん』とは呼びながらも、正確に言えば目の間で眠る人は彼の父ではない。受け継いだDNAは同じだが、トランクスの本当の父は、トランクスが自我をもつ頃よりずっと前に(今の時系列から言えば未来だが)亡くなっている。父であって父で無い、不遜で不器用な彼と対面するたび、トランクスは不思議な気持ちに見舞われていた。
「………………」
深く寝入っていたベジータが、何か寝言を呟いている。
「ん?何です、父さん?」
彼の口元に耳を寄せると、『くそったれ』だの『ぶっ殺してやる』だの、まったく心楽しくならないような、物騒な寝言が聞こえてきて、トランクスはあきれたようにため息をついた。もしかすると熱にうなされながらも、彼は夢の中で血に命ぜられるまま、何者かとの戦いを続けているのかもしれない。


汗で湿った髪に指を差し入れ、あやすように梳き続ける。
「父さん、少しはゆっくり眠ってください。戦いたい気持ちは分かりますが、それでは体が休まりませんよ?」
「………………」
意識の無い相手だからとすっかり気を抜いていたトランクスは、次の瞬間ひどく驚いた。その手の冷たさが心地良かったらしく、ベジータが無意識にその手に頬を寄せてきたのだ。一度だって自分に愛想の良い顔など見せたことの無い可愛げのない彼が、まるで自分に甘えるかの様に身を擦り寄せている。
まじまじとその寝顔を見つめる。いつも人を威圧するようなきつい瞳も、罪深い事ばかりを言う唇も、今は閉じられていて、なんだかその寝顔はとても柔らかで、幼げだった。野生動物がそうするように、体を丸めて眠るその姿に、ふいに愛しさがこみ上げる。抱き上げた時のこの人の体の小ささや軽さを思い出す。この人を大切にしたい、守りたいと強く思う。


「………ッ………」
再び寝言を洩らしながら、ベジータが寝返りをうち、その様子を目にして息を飲んだ。襟元から滑らかな首すじが覗いて、その思いがけない艶やかさに心音が跳ね上がった。わずかに捲れたシャツの裾から見える腰のラインがひどく細くて、目をそらせなくなった。かつては誰よりも強く不遜で傲慢だと思っていた人が、こんなにも頼りなく、無防備な寝顔を見せていることに、ふいに体の奥から言い様の無い衝動が突き上げる。なぜかひどく喉の渇きを感じて、唾を飲み込んだ。


頬を寄せてきた彼の唇から洩れる寝息が、手のひらくすぐったく触れてくる。暫くの間迷ってから、その唇に指先でそっと触れてみた。それは熱くて、熱の為いくらかかさついていて、小さくそして柔らかかった。ふわりと閉じられたその唇を親指で愛撫すると、そこにくちづけたい、という衝動が一層強く胸に突き上げた。
その唇を思うさま味わいたい。吐息を感じたい。唇だけではない、小さな体をこの腕に抱き締めたい。いっそ、彼の傷の事も彼の非難の声も、全て忘れてしまって、その身を覆う邪魔なシャツなどはぎとって、腕や胸、滑らかなラインの背中から普段日に晒される事の無い部位に至るまで、体の隅々にまでくちづけたいという強い欲求を感じた。


「…………父さん………、起きてますか…………?」
呼びかけてみても返事は無い。念のため気を感じてみても、その揺らぎはとても穏やかだ。彼は完全に眠っていた。僅かの逡巡の後、滑らかな頬に手をそえて、その唇に口づけようと顔をよせた。彼をおこさないようにと、じれったいほどゆっくりと。
鼻先に彼の呼吸がくすぐったく触れ、唇に彼の体温を感じるほど近づき、もうほんの少し身を乗り出せば互いに触れ合うところだった。


「…………っ!?」はっと目を見開いたトランクスが、あわてて身を起こし、そのままバネ仕掛けの人形のような勢いで立ちあがる。
「す、すいません、父さん、その、そろそろ包帯を取り換える時間ですよね、俺、えっと、あの……包帯、取ってきます……」
未だ眠ったままのベジータに聞かせるでもなく話しながら、トランクスはその場を後にした。普段から歩きの早いトランクスが、いつも以上の大股でまるで逃げるように。
しばらく無言で歩いていたが、ベジータの眠る姿が視界から完全に隠れると、今度は急に歩みが鈍くなって、そのうち止まってしまった。強く握りしめていた手をゆっくりと持ち上げ、目の高さで開いてみる。自分の手をまじまじと見つめながら、その手にまるで悪事を詰られているかのような気まり悪さを覚えていた。


あの時。彼の唇に触れようとしたあの瞬間――感じたのだ、この指先に。
彼の頬に添えた手に。彼の眦に触れた指先に、感じたのだ。彼の、涙を。
ぴたりと寄せた指の先に、目じりからこぼれた彼の涙を感じて、どきりとして身を起こす時、その唇がかすかに漏らした言葉を、聞いてしまったのだ。
彼は確かにこう呟いた。――『カカロット』、と。


熱に浮かされ、ひどく弱った体で、ベジータがその名前を口にした意味を考える。それからその名を口にした時、流した涙の意味を考える。何度もその意味をなぞり直してみたが、何れの場合も答えは一つしか浮かばなかった。
はあ、と胸のつかえを吐き出すために、深い深いため息をつく。それから本当に包帯を取りに行くため、彼はのろのろとした歩調で再び歩き始めた。


どんなに強靭な者でも、体が弱った時はふいに人恋しくなる事があるものだ。
眠りの中で恐らく無意識に、彼はどうしても会いたい人の名を口にしたのだろう。自分の唯一の同胞の名を。あるいは――恋しくてたまらない人の名を。
なぜあの人なのだろう、と思うと切なくなる。相手が、憧れて止まないあの人でなければ、自分は決して彼を渡さない自信があるのに。彼はなぜあの人に焦がれるのだろう、と思う。どんなに焦がれてもあの人は振り返ってくれるはずはないのに。

自分を選んでくれたなら、彼のそばに寄り添って、彼をずっとさびしくないようにしてあげられるのに。




- end -
-2009/07/10-