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砂田喜昭 2012年9月18日更新  
「被爆写真展」開く
言葉少なく、パネルに30分も見入る見学者

津沢コミュニティプラザ
     ロビーで

 
 小矢部平和委員会では、9月5日より11日まで、津沢コミュニティプラザ・ロビーで「被爆写真展」を行ないました。

市の協力も得て展示

津沢コミュニティプラザで開かれた被爆写真展=9月6日 今年3月、日本原水爆被爆者団体協議会(日本被団協)が、「被爆から67年経った時点に立って」、新パネル「ヒロシマ・ナガサキ 原爆と人間」を制作しましたが、これを、小矢部市の協力も得て、展示したものです。
 新パネルは、第1部「あの日あの時」(16枚)、第2部「核被害の広がり」(7枚)、第3部「ふたたび被爆者をつくるな」(7枚)で構成され、戦争体験のない若い世代にも理解しやすいコメントを、写真1枚1枚に配しています。
 
300人を越える
    市民が訪れ


 訪れた多くの市民は、写真や絵とコメントを丁寧に読み込みながらも、「何にも言えませんね」と言葉少なでした。案内に当っていた同委員会の堀内さんによりますと、年配のご夫婦や小さなお子様づれのカップルも何組もあり、たぶん300人を優に越える市民に来ていただいた、15分〜30分近くも見て帰られる方が普通で、嬉しかった、とのことです。


市内在住の被爆者
「薬らしい薬もなく寝かされていた」


 長崎で被曝された森田正三さん(小矢部市下後丞)が、浦上天主堂の廃墟だけであとは瓦礫と段々畑の写真の前で、「自分はずっと奥の高等商業の教室に50人くらいの被爆者とともに寝かされていた。体育館にも廊下にもぎっしり居た。薬らしい薬もなく、一晩で20人近くの死者が出ることもあった」などと語られ、また、すこし足に障害をお持ちの20代の女性が、原爆で背中に大やけどを負った谷口稜暉さんの子どものころの写真につけられたコメント「生きるとは苦しみに耐えることに他なりませんでした」に共感され、自分の悩みの一端を吐露されたことに感銘を受けた、と述べました。

 この間、「私たちはすべての国の政府に、すみやかに核兵器禁止条約の交渉を開始するよう求めます」の署名が46筆、被爆者連帯募金が  1420円寄せられました。

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