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砂田喜昭 2010年12月6日更新  
 韓国併合100年 
杉山トミさん(韓国「国民学校」元教員)講演
憲法をまもる小矢部の会総会
「国民学校(小学校)では、韓国語を使わせなかった」

 憲法をまもる小矢部の会では10月3日に第5回総会を行ないました。記念講演には、今年が韓国併合100年に当ることから、元韓国の「国民学校(=小学校)」で教職にあった富山市在住の杉山トミさんをむかえて、当時の話をお聞きしました。



 杉山さんは韓国で生まれ、育ち、昭和16年京城女子師範を卒業後すぐに、大邱市の小学校(この年から「国民学校」と改称)へ奉職されました。
 学校には、天皇の写真や教育勅語、奉安殿があったことにはさもありなんと思った参加者も、小学1年生でも学校では日本語しか使わせなかった、と聞き驚きました。創氏改名が強制されていましたから、入学式の日、例えば、張という子どもにお前は「張」ではなく「張田」だと分からせるのが大変で、名前を確認するとすぐ名札を服に縫いつけ、それでその日は終わったということです。
 3・1独立運動が弾圧されていたとは知らず、先輩の韓国人教師が、たぶん治安維持法容疑で憲兵に連れ去られても、その真相は教えてもらえなかった、とのことです。

 昭和20年8月15日、敗戦。韓国では内地のような空襲はないし、物資も豊富で、かの地の日本人には敗戦なんてまさに「晴天の霹靂」だった。学校では「日本的なものはすべて焼却しろ」との指示が出た。日本人は支配者から敗残者に転落、少々の手荷物を持って内地へ引き上げることになった。そのとき教え子の一人が親身になって援助してくれた。
 昭和47年、札幌オリンピックのとき、札幌領事となって赴任していた、あの親身に世話をしてくれた金さんに再会。金さんの仲立ちで韓国を再訪、昔の教え子たちと再会し、懐かしさと、自分は「精神面での戦犯」であり申し訳ない、という混乱した気持ちで、軍国主義教育を詫びた。そして子どもたちの多くと仲直りすることになった。
 教え子の中には、金さんのように出世したり、小説家になったものもいるが、女子挺身隊の隊員として不二越の工場で働いたことが元で不幸な半生を送ることになった子どももいる。その子などが会社に補償するよう訴訟を起こしたとき、できる援助をした。

 参加者は、軍国主義教育の中でも、内地人と半島人という立場・身分の違いを超えて、先生が教え子を愛し、教え子が先生を尊敬するという関係が成立していたことを実感し、感銘をうけました。元の教育基本法には、「教育は、自他の敬愛により、・・・行なわれなければならない」と書かれていたのに、安倍内閣当時の改定で、跡形もなく削除されたのは残念なことです。

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