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砂田喜昭 2007年8月27日更新  
埴生焼研究同好会が発足
 このほど埴生焼研究同好会が発足しました。会長には越中古陶磁研究家の尾山京三氏(高岡市)、副会長に上田弘氏(小矢部市道明)他1名、会計担当理事に柴田絹代氏(小矢部市野端)が就きました。
 埴生焼について、会長の尾山氏が「芸文報」第157号に紹介しています。尾山氏と芸文報編集室の了解を得て、転載します。


富山県の陶器


四百年前 
前田利長の越中支配が起源
 

 本県における陶器の焼成は越中瀬戸焼が起源とされており、尾張瀬戸(愛知県、窯業先進地)出身の前田利長による越中支配から約五年を経た天正十八年(一五九〇)頃とされている。爾来、幕政年代・明治・大正・昭和と幾多の変遷を経ながら太平洋戦争の終結までの三百五十年間に県内各地域で約六十人の窯業経営者が、五十基に上る陶磁釜を築き、県内外を流通圏として日常生活器物(鉢・かめ・つぼ・茶碗、湯呑み・大小皿類等)を主体に製造販売してきました。

埴生焼

二百三十年前に初代竹亭


 一方、埴生焼は、埴生村太田家二十代当主佐治兵衛が、雅号を竹亭と称して藩政下十村役の要職にあって、茶道華道に精通した趣味人として自宅庭に楽焼釜を築き、余技としてさまざまな器物を焼成しました。そしてその伝承は二十二代傳右衛門(初代孫)に引き継がれました。初代没後には二代竹亭を襲名してさらに研鑽を重ねたと云われます。二十三代佐治兵衛は雅号を柳山と称し(竹亭雅号踏襲せず)父親より受け継いだ楽焼の技法の向上と独創的な作品の焼成に努めましたが、天保初年(一八三二)頃に至って有段式登窯と錦窯(染付・色絵専用窯)を築窯して陶磁器の生産を大々的に行いました。このことは歴代竹亭の趣味人としての作陶から、地域住民の日常生活器物の生産という商業ベースへの方向転換でありましたが、武家の商法の例えがあるように軌道に乗らなかったようで文久(一八六二)年七二歳で没したため、必然的に廃業となりました。
 柳山の没後慶応元年(一八六五)頃埴生村の牧谷嘉吉郎が既存柳山窯を改修して陶器(日常生活器物)を焼成販売したが、約五年後の明治三年(一八七〇)頃に採算性が悪くなり廃窯したと云われています。

埴生焼の伝統文化を市民に

 さて、埴生焼の経緯について簡潔ながら記述しました。@初代竹亭が楽焼を始めてから約二百三十年を経過した今日、三世代九十年間の長年月におよそ数百点に及ぶさまざまな器物が好者間を流転しながら現在に至っていますが、どの程度残存して愛好されているのか、又各代竹亭及び柳山の器物の相違点、形態、特徴など。A楽焼窯、登窯、素焼窯、錦窯の規模や形態と棄却された陶磁片の収集調査、B古文書、記録、口伝等の調査研究。
 このたび設立された埴生焼研究同好会は@〜Bのテーマを主体に活動するもので、小矢部市で二百三十年前に花開いた素晴らしい埴生焼の伝統文化をさらに広く深く市民の方々にお知らせしていきたいと考えております。

越中古陶磁器研究会
埴生焼研究同好会

代表  尾 山 京 三

埴生焼・赤楽小鉢(砺波市美術館所蔵・柴田喜知次氏寄贈)
↑ 埴生焼・赤楽小鉢(砺波市美術館所蔵・柴田喜知次氏寄贈)撮影・上田弘氏

 埴生焼・黒楽鴛鴦香炉(砺波市美術館所蔵・柴田喜知次氏寄贈)
→ 埴生焼・黒楽鴛鴦香炉(砺波市美術館所蔵・柴田喜知次氏寄贈)撮影・上田弘氏

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