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砂田喜昭 2021年5月30日更新  
七社の大般若経、その歴史に新しい知見

 フェイスブックで「魚沼神社蔵「大般若波羅密多経」についての私見 かかわった人々と宮嶋の所在について」が「大山の歴史と民俗第19号に五十嵐俊子氏の論考が掲載されていると知った。さっそく、小矢部市民図書館でリクエストした。

 それによると、大般若経が書写されたのは富山県婦負郡で、小矢部市七社の長岡神社には疑問があるとのこと。富山県史や新編会津風土記の記述に疑問を投げかけられた。
 その根拠とされた資料が中央大学の鈴木俊幸先生らの「魚沼神社蔵大般若波羅蜜多経調査報告書」とのこと。これは小千谷市教育委員会で紹介されたものとのこと。この資料には興味があり、いずれかの機会に読んでみたい。

 さて、私は1997年に、七社の有志とともに新潟県小千谷市の魚沼神社を訪ねた。
 大般若経が書写されたのは1386年から1396年、上杉謙信が越中を侵略してそれを奪ったのが天正元年1573年である。それが新潟県の魚沼神社に現存している。
 私も、自分の生まれ育った七社のことだから、関心があって、魚沼神社を訪ね、大般若経を写真に撮ってきたことがある。1997年4月20日のことである。その時の『赤旗読者通信』1997.4.27の該当記事を切り出したものである。私のHPは1999年開始なので、この記事は掲載していない。作成したのはワープロで、多分ルポだったろう。

その時写した写真の方が鮮明だ。


 これを書写した年月と書写した人物の場所を、正得村史(我がふるさとの村の歴史)・昭和7年刊や熊野郷土史、越後歴史考などから拾い出してみた。その一覧を私がまとめたものの一部が次の表だ。

疑問@ 14世紀に小矢部市と婦中町を行き来して写経していたのか
 これによると、富山県小矢部市からかなり離れた婦中町あたりのお寺で、大般若経を書いている。富山県小矢部市から婦中町あたりまで、14世紀の人々がそんなに簡単に行き来できたのかとの疑問があった。
 それでも富山県史でもこの大般若経が小矢部市の七社にある長岡神社にあったとある。それで現物を見たいと、七社の有志で新潟県小千谷市の魚沼神社を訪問してきた。それが冒頭に掲載した『赤旗読者通信』である。

 今度の論考で、大般若経があったのは、どうも婦中町あたりにあったのではないか、たいへんな説得力で証明されていた。
 僧慶禅が婦中町あたりの新保というところで5月1日から3日に写経し、5月6日から17日まで宮嶋(これまでの通説では小矢部市宮島地区)で写経し、さらに5月22日から26日までまた新保で写経しているとのこと。大般若経の記録で確認された。

 もう一つは宮島の地名のこと。婦中町あたりに宮島川があると知って、私も大般若経があったのは婦中町あたりではないかと疑いを持ち始めていた。

疑問A 上杉謙信は越中のどこまでせめてきたのか、分捕っていったのはどこか
 さらに、上杉謙信が越中を侵略したが、どうも砺波市あたりまでの記録は目に入るが、はたして小矢部市まできていたのか、この疑問にも、この論考では天正元年1573年に富山城を包囲し、婦中町あたりまで制圧していたとある。
 上杉謙信が砺波市の増山城攻略に手を焼いたとの記録がある。戦国時代の永禄3年(1560年)とのこと。


 戦国時代に、古文書が戦で失われたと、「越中中世史の研究」久保尚文著に書いてあったが、丹念に研究で歴史の事実が明らかにされるのは興味深いし、大切なことでもある。

 かつての大山町を拠点に、このような立派な冊子を発行されてきた大山歴史民俗研究会に、そしてこの「大山の歴史と民俗」が長年の研究成果を発表し続けておられたことに敬意を表したい。

 第19号の編集後記に「久保尚文」氏の名前を見つけた。私はお会いしたことはないが、先生の「越中中世史の研究」はノートをとって読んだことがある。ノートだけでは心許ないので、桂書房発行の同書を購入した。その後余り勉強していないが、一時熱中したことを思い出している。


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