バナー1994年7月号
本文へジャンプ 更新日 2007年6月26日 

戦争と平和
私と日本共産党


 1994年7月10日号の『赤旗読者通信』の記事を紹介します。

 当時は、私の3期目の市議選を目前にした時期でした。「砂田はよいが、共産党でどうも」という声が地元を中心によく聞かれました。そこで、私がどうして共産党に入ったか、この事を話してわかってもらおうという事になったのです。私は小さい頃から、「伯父がシベリアで戦病死した年に生まれたので、その生まれ変わりだ」と聞かされ、戦争中の苦労を聞いて大きくなりました。フィリッピンから帰還した父がお櫃(おひつ)一杯のご飯を食べたいと暴れたのを、祖母に止められて助かったそうです。当時、ひもじさの余り腹一杯食べ過ぎて死んだ人がいたという話をよく聞かされました。そして18歳の時に、戦争反対を貫いた共産党の存在を知って、私は入党しました。

 1990年に発行されたある遺族会の機関紙に、私の叔母が次のような文章を書きました。このあたりの事情がよくわかる文章だという事で、ビラに使わせてもらったのです。

軍国の母
       正得 佐伯周

 大東亜戦争の最中覚えたばかりの歌を家中に響く声を張り上げて歌っていました。

 ○心おきなく国の為
  名誉の戦死たのむぞと
  泪(なみだ)も見せずに励まして
  吾が子を送る朝の駅・・・
 ○生きて帰ると思うなよ
  白木の箱が届いたら
  でかした吾が子天晴れ(あっぱれ)と
  おまえを母がほめてやる・・・

 じっと聞いていた母がぽつりと言いました。「そんな事どうしたら言えますか」。母親として心から言う言葉でないわいね。私には言えないと申します。兄は出征中です。思わずハッとなって歌うのを止めました。

 その頃、お国の為に天皇陛下の為に死ぬんだ、忠義だとの思想を煽り(あおり)たてるには、誠にリズムの良い軍歌が巷(ちまた)に数多く流行していました。私の母は大正の末期に3歳のT男と2歳の姉、私をお腹に抱えて未亡人になり、姑に仕え、1町5反の田を耕作しながらひたすら子育てをし、漸く成人した兄を戦地に送っていました。必ず元気に復員するように祈りながら、姉の嫁いだ後私も嫁がせ、兄には留守中に嫁を迎え復員を待っておりましたのに、戦争は大切な兄の命を奪いました。(中略)

 終戦後ソ連に抑留された26歳の兄の戦病死というあまりにも惨い(むごい)現実でした。母はその嘆きを毎日の読経に変え、家の孫はもとより外孫の成長に心を配り働き生き抜いてくれました。愚痴をこぼさぬ母は「T男は親孝行してくれる。勿体ないもったいない」と申す日常で、決して自分のための贅沢はいたしませんでした。昨年(1989年)の5月まできちんと誤らず店をしてくれましたが、多発性リュウマチのような病になりました。

 先日よく眠っていた母が覚めて夢の話です。「喜昭さんが、平和の世のために働こうとしているのに、まわりの人がしきりに止めて邪魔をするので、その人達に『喜昭さんの思うようにさせてやってください』と頼んでいた」と。外孫の喜昭は終戦っ子として生まれ、恰も(あたかも)T男の精を受けてる様と思う私ですが、老いの床の夢にまで見て、二度としてはならぬ戦争の事や、人々の平和のために身を捨てて活動している喜昭を理解し、案じているのに驚きました。(中略)

 この頃生涯続けてきた朝夕の読経の声も日一日と弱くなって参りました。母の寝顔を眺め、その傍ら(かたわら)で兄の思い出を辿り(たどり)ます。
 青年学校から天皇陛下の御親閲を受けて「この方のためなら命を捧げても惜しくないと思った」と日記に書いた兄が、富山の連隊にいたとき、従兄弟が除隊で帰る際に、兄に家のことづけを尋ねると「軍隊はとても苦しいのだが母には話をしないで、元気にしているとだけ伝えて欲しい」と・・・。又ソ連に戦病死した兄に付き添ってくださった方が、「妹さんが家に残っておられたはずでしたね」とおっしゃった事。検閲である部分が消された戦地の兄の便りに、「僕が帰ったらお母さんに今までの2倍も喜ぶ事をしたい」とか、「働いて妹たちに欲しいものを買ってやる・・・」等など、母を思う切々の心情を偲び(しのび)、全身に感動がよぎります。
 せめて一度だけ、心から尊敬した兄が寂しく死んだソ連領の現地にたたずんで冥福を祈りたい。
(後略)


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