今月のトピックス

 

 September ’05 

9/21(水) 愛・地球博 にて

 閉幕直前に駆け込み。面白い音楽ネタもチョコチョコ。

 

9/10(土) 神奈川フィルハーモニー管弦楽団 第218回定期演奏会

 「フランスのエスプリ」と銘打って、ピアニスト・野原みどり氏のソロによるラベルのピアノ協奏曲2曲を中心としたプログラム。
 野原氏は、昨年のBS放送で、フォーレのピアノ四重奏曲第1番の流麗な演奏に魅せられてからおおいに気にしているピアニスト。日本におけるラベルの一人者ということで、あまり実演の機会のない「左手のための」協奏曲も聞けるということで楽しみにしていた。

 もう、素晴らしい、の一言に尽きます。特に「左手」の豪華絢爛なゴージャスさ、スケールの大きさ。左手だけでここまでの多彩な表現が可能であることは、驚きであり、また、奇跡だ。ラベルの才能にも拍手。それを現実の音楽として届けてくれる野原氏の才能に、さらに拍手。これだけ貫禄ある奏者もなかなか見られない、聴けない。とにかく、充実「みなぎる」演奏。
 「両手」の協奏曲ト長調は、軽み、洒脱さ。第2楽章の簡素な珠玉の美感も良い。それらに対比させる形での「左手」においては、低音域の奥行き深い響き。緩徐的部分のほの暗く、また、細やかな音の折り重なりのデリケートなあやなど。
 アンコールの「なき王女のためのパヴァーヌ」も繊細さに息を飲む。
 ・・・やや、オケの側に、「両手」でも頑張り過ぎたところもあろうが、全般的に好サポートといえよう。
 指揮は、マウリツィオ・ディーニ・チアッチ氏。他のプログラムは、冒頭に、ミヨー「屋根の上の牛」、プーランクの「シンフォニエッタ」。

(2005.10.31 Ms)

 August ’05 

8/27(土) 第3回東京音楽コンクール ピアノ部門本選 より

 コンクール自体を目的に出掛けたわけではないが、先日のフルートコンクールがかなり充実したものだったので、上京の空き時間を、東京文化会館にて。
 5人が40分の持ち時間で自由曲を。私が聴けたのは、2,3番目の二人。福富彩子さん、小口真奈さん。
 それぞれが、メイン的な選曲として、リストのソナタ、シューマンの「謝肉祭」という、前期ロマン派ピアノの巨匠の代表的な大作。聴き比べが興味深い。シューマンの細切れの雰囲気の断絶も病的な感覚だが、リストの、いかにも不安感を煽動する大袈裟さも、また違った病的なもの。そして、どちらも構成的には、普通の感覚(古典的な均整)からはかなり逸脱したもの。両者が本質的にあいいれないのは、この2曲の方向性からも明らかか。また、古典的な和声からの逸脱、拡大をそれぞれ目指しつつも、なんと印象の違うことか。個人的にはシューマンの、ロマン性に強く惹かれるな。
 しかし、こういう違う作品を聴いて、甲乙つけるのは難しいものだ。もちろん、素人目には、ミスなど気がつかないレベルの演奏。個人の好みを越えて客観的にどちらが優れているか、なかなか評価できない。どちらも、コンサートで聴いて、3000円払ったとして不満はない・・・ちなみに今回、入場料1000円。5人全部聴きたいくらいだ。メシアンや、バーバーの作品なども取りあげられたようだ。シューマンのソナタも一度、真剣に向きあってみたいし。

 さて、開始時間(13:15)に間にあわず、一人目の演奏はホールの外でTV越しに何げに見ていたが、北村朋幹さん、結果、彼が優勝だったようだが、弱冠中学2年生・・・。名古屋の普通の中学生にようだ。バッハ、リスト、さらにベルクのソナタなど様々な種類の音楽を弾いていた。是非とも生で聴いておくべきだったか・・・。

 余談ながら、新宿タワーレコードにて、なつかしのロシアものCD(Revelation)が大量に。その中で、ガウク指揮のショスタコーヴィチ、「祝典序曲」、交響曲第8番。特に、8番の第3楽章中間部のトランペット・ソロのニュアンスの面白いこと・・・こんな演奏は聴いたことない。古き良きロシアの音が充満したお宝ものである点を付記せずにはいられなかった次第。

(2005.9.26 Ms)

8/26(金) 葛飾ケーブルネットワーク ラ・クァルティーナ 
         〜N響メンバーによる夏休みイブニングコンサート〜

 N響チェロの首席、次席奏者4人による、ラ・クァルティーナ。CDも数枚リリースしているし、結構お馴染みなのではないか。
 一応、メンバーをおさえておけば、藤森亮一氏、藤村俊介氏、銅銀久弥氏、桑田歩氏。
 コンサートの形態は、ケーブルテレビの公開番組みたいなもので、前半はクラシカルなもの、後半はタンゴを中心に、おしゃべりを交えてのコンサート。場所は、かつしかシンフォニーヒルズ。

 曲目は、バッハの、G線上のアリア、シャコンヌ。サン・サーンスのエア。ドビュッシーの小さな黒人。ショパンのラルゴ(チェロ・ソナタより)。ポッパーのポロネーズ。ハイドンのセレナーデ。アルビノーニのアダージョ。
 後半は、作曲者は割愛しますが、ブエノス・アイレスの喫茶店。やってきた彼女。アルベニスのタンゴ。ラ・カジェシータ。エル58。黒猫のタンゴ。首の差で。

 チェロ四重奏というのはジャンルとしてはややマイナーということだろう。しかし、ベルリン・フィルで昔からチェロ合奏のレコードなど出ていたし、同じ楽器だけのアンサンブルとしては、他の楽器にはマネできない広範囲な音域を駆使しての重厚かつ暖かな響きを醸し出し、充分、ゲテモノではない充実した音楽が聴き取れる(ヴァイオリン合奏とか、フルート合奏、というのは、どうも無理があるように感じている。チェロに対等に対決できるのはマリンバ合奏くらいなものだろう・・・ピアノは独立した楽器としては最も完結性が高いが、ピアノ・アンサンブル、ましてピアノ4台なんていったらかなりのゲテモノ編成になってしまうよな)。
 最も感銘深いのはバッハのシャコンヌか。唯一の大曲である。Vn無伴奏の原曲とはかなり雰囲気も違ってくるが、バッハの原曲そのものが何にでも違和感なくはまってしまう普遍性を備えているのだろう、全く、アレンジ作品にありがちな編曲だからと低く見てしまうような隙もない。この作品自体が、斎藤秀雄氏によってオケ編曲されていたり、そもそもブラームスの4番のフィナーレが、このシャコンヌのオケによる焼き直しみたいなもので、弦の響きを充溢させたチェロ四重奏版もそれらと同じ世界の音楽として、素直に私の心に届く。
 また、4人が対等にあつかわれて、同じモティーフを交互に担当したりと、4人4様の音色や歌が感じられ、面白い。タンゴや、またクラシカルなものでも小品は、完全に4部が、高音から低音まで分担されていて、例えば4番奏者の桑田氏などは常に低音ばかり、になりがちながら、シャコンヌはそういう書き方ではないので、様々な色がうつろうようなこの作品、曲が有名な面もあって、最もスリリングで、素直に楽しめた(チェリスト、ポッパーの作品もそういう対等な書き方はされているが、何せ未知なる曲なんで、断然、バッハに魅せられてしまう。ま、ポッパーの俗っぽい哀しげな旋律も意外に耳にこびり付いたりして印象深いのだけれど。)。
 また、アルビノーニも結構、悲愴な感じが出てよい感じ。チェロ高音で泣かせるにはいい作品だろう。
 タンゴも、なかなか楽しく聞けた。バンドネオンが注目されたり、ヨーヨーマのCM以降、ピアソラなども人気が高いし、私の席の近くでも、タンゴが楽しみ、タンゴが聞けて良かった、なんて言う年配の方もいたりして、普段クラシックと縁遠い方々も、タンゴにつられてこの場に来て、チェロ・アンサンブルを体験したのかと思うと、こういう路線も十分あり、と思う。

 個人的には、チェロ合奏と言えば、やはり、ヴィラ・ロボス。ブラジル風バッハの1番など、うまく4人でできないものか?楽譜としては8人は要るような気がするが、うまく編曲したら不可能ではあるまい。
 また、アカデミア・ミュージックで以前見つけたが、シューマンのチェロ協奏曲の、チェロ合奏編曲などもあるようだし、全曲チャレンジしていただけたら幸い・・・。結構いい味、になりそうに思っているのだが、いつか聞いてみたいもの、と思っているので付記した次第で他意はないです。

(2006.7.28 Ms)

8/18(木)〜20(土) 第17回 アフィニス 夏の音楽祭 より

 もう私にとって夏の定番となりました、長野県飯田市におけるアフィニス。国内のプロオケから選抜された若手中堅奏者たちが、ドイツの一流講師陣たちとオーケストラ及び室内楽の演奏会を、飯田市と東京で行い、その練習の過程が一般にも公開されるというもの。演奏会の練習以外にも、講師から直接マンツーマンの指導も「マスタークラス」として行われ、また、地元にとっては、子供向けのコンサート、病院でのコンサート、さらに滞在するホテルのロビーでは連夜、即席のメンバーでの演奏が「ラップ・セッション」と称してただで聴けるという、音楽づくしの毎日。
 今年も、2泊して聴けるだけのものを聴きまくってきた。
 今年の内容に入る前に、昨年の様子など、こちら

 聴いたものとしては、弦楽合奏で、オネゲルの交響曲第2番。室内楽で、ブラームスの弦楽六重奏曲第2番。その他、ちらりと見た程度だが、サン・サーンスの七重奏曲。エネスコの弦楽八重奏曲。
 弦楽器のマスタークラスでは、Vn、Vcとも2名づつを参観。ホテルでのラップセッションも2夜とも楽しむ。

 まず、オネゲルは、練習の初日(18日午後)および2日目(19日午前)と、本番前の練習の全てを見る。この作品は、昨年のアンサンブル・ヴェガの演奏(山梨県にて)が壮絶に素晴らしく、どうしてもそれとの比較で聴いてしまうな。第二次大戦中、ドイツ占領下のフランスで書かれた、あまりにも暗く、緊張感を漂わせた名曲。弦楽オケの曲ながら、最後にトランペットが希望を込めて勝利を歌う部分の感動はいつ聴いても心が締め付けられる、もの。
 さて、練習の最初の感触としては、やはり指揮者を立ててもなかなかあわせづらい難曲だ。特に第3楽章、初日は、ゆっくりの丁寧な練習から始め、各パートごとにしっかり念入りにチェック、それでも混乱は見えてしまう。が、そこはプロの集団、2日目は見事見違えるように、素晴らしい仕あがりをみせた。練習過程で、フィナーレのコーダの勝利の凱歌(ここだけトランペットが入る)の、旋律以外の動きを丁寧に作っていたのが興味深かった。比較的単純な勝利の歌の背景にある、対位法的な緻密な絡み、先行する第1主題のリズム音型が強調されるような作り方が、音楽の奥行きを深いものとしていた。その、音楽がだんだん集中の度を高め、深みを増して行く過程を今回みっちり体験できたのが嬉しい。一つの曲を完成させる全過程を見たのはこの音楽祭でも私は初めての経験であった。講師陣及び日本プロオケ奏者のレベルの高さを思い知ったと同時に、指揮者、高関健氏の手腕にも感ずるところあった。素晴らしい。
 また、チェロのトップを務めた、ドイツからの講師陣の一人、ニクラス・エッピンガー氏の切々たるソロは印象的だった。ただ、ちょっとこの第2楽章の曲想にしては饒舌だったかも・・・。もう少し寡黙なムードがより楽想に素直なものとの感想は持った・・・昨年のヴェガの演奏においては地味なソロの味わいが充分生きていたと感じたので余計にそう思うのだが。しかし、奏者それぞれにいろいろな演奏があって当然、その個性の違いを楽しむのがこういう音楽の楽しさの一つだ。
 また、2日間、じっくりと音楽とつきあった結果、ショスタコーヴィチの交響曲第5番第3楽章との共通する雰囲気をまざまざと感じた。特に第2楽章。和声のくすんだ感じ、旋律のひずんだ感じ(一瞬、ショスタコと同じ節回しもでてくる)、第2楽章のクライマックスを導く感情の高まり(無調的音楽における感情移入のテンションの高さ)、時代としては、オネゲル、ショスタコの影響を受けた可能性は考えられる。交響曲とはいえ、フルオケを使わず、弦を中心に緊張度の高い、精神性の高い音楽を作った点での共通点以上の近親性、・・・もっと聴き込む必要もありそうだ。そんな発見を与えてくれたのも嬉しい。できあがった本番の演奏を1回聴くのとは違う、音楽との向きあい方、今後も大切にしたい。

(2005.8.22 Ms)

 室内楽では、ブラームスの弦楽六重奏曲第2番が面白かった。1st Vn.はこの音楽祭の音楽監督、四方恭子氏。もう一人講師陣として、1st Vc.のヘルマー・シュタイラー氏。特に、シュタイラー氏のチェロの存在感は輝いている。旋律がまわってきた途端、音楽全体の雰囲気が豹変するほど。ミュンヘン・フィル首席というのもうなずける。また、日本のプロオケ参加者で、2nd Vn.を担当した遠藤香奈子氏(都響)も、ちょうど講師二人にはさまれる形ながら、対等に渡り合える音量、存在感を示していたのが好感大。
 その他、サン・サーンスの七重奏曲は、トランペット、ピアノと弦5部という変わった編成。擬古典的な作風。でも、何かしら懐かしさを感じる響き・・・これは・・・そうだ、ショスタコーヴィチのピアノ協奏曲第1番!!!まさに、弦とピアノとペット。ショスタコの独創性、と思いきや、サン・サーンスに前例があろうとは。おみそれしました。
 エネスコの弦楽八重奏曲。練習初日ということと、曲の難易度の問題。なかなか練習も大変そうだったので、5分ほど見て他の会場へ。シェーンベルクの「浄夜」の雰囲気もある、後期ロマン派風な味わい。しかし、楽想の変化、リズムの難しさなど、指揮者なしでやる困難さが現われていた。

 弦楽器のマスタークラス、4人分見る。
 まず、N響からの参加、Vn.大鹿由希氏。イザイの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第4番 ホ短調。美しく、気品を感じる。重音も多く、かなり難易度も高そうながら、その重音が全く荒くなく美しく響く。ただ、低音の響き、とか、音色の太さ、とかに課題はあるようだ。講師の四方氏からも、冒頭の印象的なモティーフの間の取り方とか、細かい音型の中での強調すべき音とか、細かく注意を受けていたが、全体的に、曲の持つ雰囲気からも、美しさのみならず「主張」がもっと感じられても良いだろう、と感じた。ちなみに、私の隣にいた方が楽譜を広げていて、ちらり横目で見たが、とても音符の多い難しそうな楽譜、でも演奏からは難しさが微塵も感じられない・・・これは凄い事だと思う。やはり実力のほどがわかる。
 なお、イザイの無伴奏に興味を持ついいきっかけとなった。帰宅後、川田知子氏のリサイタルのヴィデオなどあらためて見て復習。
 一方、ブラームスの六重奏でも活躍ぶりを拝見した、遠藤香奈子氏。ブラームスのヴァイオリン協奏曲。音量もあり、華のある音色、存在感。これは確かに感じられる。しかし、やや単調にも感じられる。いろいろな音色、表現がもっと欲しい。なじみの協奏曲、ということもあるが、もっと、引出しがたくさんあって、聞き手にいろいろな発見をさせてくれる演奏、が協奏曲には必要だなあ。
 しかし、こういった、いろいろな奏者が集合して、オケがあるわけだ。奏者個々人の得意不得意が、こんなにも明確にあらわれるのは興味深い。そして、こういった多種多様な個性があってこそ、一つのオケの響きが作られる。面白いものです。
 チェロについても二人聴き、同じような感触を得たのだが、まず、八島珠子氏(仙台フィル)。ドビュッシーのチェロ・ソナタ。楽想の変化も頻繁で、キャラクターの変化のスピードも速い。曲自体も惹き付けやすい魅力を持っているが、今回の演奏自体も、期待を感じさせる。しかし、講師のエッピンガー氏が圧倒的な魅力ある演奏でさらに驚く。弦楽合奏の際の、オネゲルのソロでも目立ちまくりだったが、相当巧い人だ。こちらも、シュタイラー氏と同様、ミュンヘン・フィル首席を務めた。若手ながら、かなりの実力者とみた。
 もうひとりは、松岡陽平氏(都響)。ベートーヴェンのチェロ・ソナタ第2番 ト短調。曲も地味ながら、奏者も、堅実、実直なる雰囲気。曲自体は、作品5の2という初期作品というもありやや物足りないものの、随分長い序奏と、DSCH風な旋律線が印象的、また、ベートーヴェンの個性の刻印はすでに随所にあり、そういった興味はもてた。

(2005.9.3 Ms)

 ホテルのロビーでの「ラップ・セッション」。毎夜、9時半頃から。
 初日聴いたものを思い出すまま書くと、チェロの四重奏(メンデルスゾーンの「結婚行進曲」を含むメドレーのようなもの)、モーツァルトのホルン五重奏曲、木管八重奏による「フィガロの結婚」序曲、「魔笛」序曲・・・これらは木管のオケ参加者全員による演奏、オーボエの最上峰行氏はN響でのトラ出演をしていた方と記憶する。ヴィオラの講師及び参加者全員によるバッハの「シャコンヌ」・・・これは編曲がちょっと安っぽいか。原曲の五度下というのも、おや、という感じ。ベートーヴェンの七重奏・・・だと思うが確証なし。第1楽章のみ。変ホ長調。ロッシーニの弦楽のためのソナタ ト長調の第1楽章のみ。最後に聴いたのは、メンデルスゾーンの弦楽八重奏曲第1楽章。四方氏も参加。やはり、ぞくぞく来る、いい曲です。
 ちなみに、夜も更けてこのあたりで退席しましたが、指揮者高関氏も弦楽器を持って登場、次の曲あたりは彼の演奏も聴けたのかも。
 2日目。ベートーヴェンのピアノ四重奏曲 変ホ長調。続いては、ややおふざけ気味で、ピアノの6手連弾で「カルメン」前奏曲。4手で「タイプライター」四方氏のベル演奏付き・・・ホテルのフロントから借用したようで・・・。そして、今回最も感激したのが、バッハのブランデンブルク協奏曲第3番ト長調。コントラバスがいない・・・急遽、四方氏と、企画運営委員の今村氏によるピアノの通奏低音付き。講師を含む即席メンバーで華麗に、各パートともに協奏曲のソロを演じ、スリリングな演奏、やはりバッハは凄いものです。
 さて、おふざけ系もう1曲。日本民謡による、Vn1、Vc3の四重奏。木曽節でしたか?講師のエッピンガー氏が全く弾けず、小節はずれるはで、演奏している他のメンバーも困惑の表情。大笑いな1曲。そして、シューマンのピアノ四重奏曲。心あたたまる逸品。このあたりにてうしろ髪ひかれつつ失礼。

 ホテル、ロビーでのくつろぎの一時。ビール片手に一般の人も思い思いに楽しむ。また、今回の参加者の素顔も垣間見られて楽しい。曲と曲の間のセッティングを手伝う参加者の姿も好感。今回は特に都響からの参加者も多く、都響に対する親近感も増して、今後、都響も気にしていきたいものです。奏者個々人の顔が見える、というのは、オケに対する親近感がぐっと増すものです。(・・・と書きつつ、BSで都響の「復活」を見始めたところだったりする。デプリースト氏の常任指揮者披露演奏。)

 今回も楽しい旅でした。グルメ的には、昨年に引き続き「クリシュナ」のインドカレー。イタリアンでは、比較的町中にある「パーネドーロ」でリーズナブルなランチを。帰りは根羽村の「角井」の漬物が良い土産に。
 Bookoffでも、「名曲の旋律学」なる興味深い1冊をたったの100円で・・・多楽章作品における楽章間の主題の連関に関する意欲的な論文。特に「第九」の主題の全てが関連を持っているという指摘はかなり面白いもの。

 この旅の収穫はいつもに増して大きなものだった。また来年の再会を楽しみに。・・・ただ、オケの参加者が減っているようにも感じたがどうだろう。また、ちょうど帰る前に、ディレクター氏に声をかけられた。豊橋ナンバーの車を見て、「遠くからありがとうございます」と。いつも楽しみにしている旨をお話する。こんなちょっとしたつながりも、なんだか嬉しい。ちょうど、今年から「大垣音楽祭」が企画変更となってしまい残念に思っているところ・・・飯田では是非この有意義な催しを意義を変更する事無くいい形で存続していただきたく思っています。
 また、飯田へ向かう田舎道のドライブも楽しい旅。しかし、このルートをたどるたび、この田舎の生活の営みが、現政権によって壊滅させられていくことに憤りを感じてもいる。高齢化進む村村、・・・山中の役場、郵便局の廃止の前に、霞ヶ関官僚の不正を正し、人員整理をしたまえ、と。都会だけが日本にあらず。山中の暮らしの切り捨てが山村の荒廃、災害の頻出を招いてないか。最後は蛇足にて失礼。
 ただ私事ながら、今回朝5時起きで、9時30分の練習開始にあわせて車を走らせたのはやや無茶か。結局、初日はラップセッション前に力尽きて仮眠。いつまでも若くはないぞ。

(2005.9.4 Ms)

8/10(木) 第6回神戸国際フルートコンクール 第2次予選 より

 夏休み青春18きっぷ旅の一環で、神戸までの日帰り旅行。
 数年前の日本音楽コンクールの受賞者演奏会での、高木綾子さんのニールセンのフルート協奏曲のインパクトは忘れられない思い出だが、その彼女がコンクールに挑戦というので、興味を持った。
 第2次予選の2日目。8人の演奏を聴く。課題曲も興味深く、この第2次予選を選んだのだが、2曲を25分以内にまとめ、おおよそ、第1曲はバロック、第2曲は近代。具体的には、第1曲は、C.P.E.バッハ、ヴィヴァルディ、ルクレール。第2曲は、プロコフィエフ、ヒンデミット、シュルホフ、サンカン。といった作曲家の作品が提示されていた。結果として、エマニュエル・バッハのニ長調のソナタを8回聴く事に。第2曲も、6人がプロコフィエフを選んだ。ヒンデミット、サンカンが1人づつ。ただ、プロコフィエフは任意の2楽章を抜粋。ほとんどの人が第3、4楽章。一部、第1、2や、第1、4楽章を抜粋、結果全楽章聴く事にはなった。

 偶然なのだろうが、前半4人が外人、後半が日本人。さらに、最後3人の女性陣の充実ぶりが際立っていた。井出朋子、小池郁江、そして木綾子と続く。正直、最初のあたりは、まあこんなものか、という感じで、音符は並んで巧いのだが、音量に乏しい、音色の変化に乏しい、といった感じもままあり。それが、最後3人で、音の太さ、華麗さ、といった要素がはっきり感じ取れた。

 また、作品としては、プロコフィエフのソナタ、旋律も面白く、小気味良く、また、健全な明るさがフルートのキャラにもマッチし、聴いていて楽しい。第1楽章の冒頭から、単純な旋律ながら、ふっと惹きこまれる魅力がある。第4楽章のテーマは、「ピーターと狼」のピーターの主題の音の動きと同じような雰囲気が楽しい。第2主題の分散和音風に駆けあがったり降りて来たりの繰り返しが技巧的にも印象深い。プロコの第4楽章の演奏で、各奏者の力量ははっきり分別できた。華があるか、それとも、音符をさらって終わりか。やはり高木さん、唯一、第1、4楽章という技巧的に重い楽章のみをあえて選んでおきながらも、さすがの貫禄を見せ付けた。
 あと、ヒンデミットのソナタは、プロコに比べ、あまりにも暗いトーンが逆に異才を放つ。
 サンカンは、よく知らない作曲家だが、あまりにもラベル的である。聴き心地は良い。ラベルがフルート・ソナタを書いたらまさしくこんな感じ、と思わせるもの。技巧的にも難しそうに書かれてある。

 500円で一日楽しませていただき感謝。(曲が自分好みだったからこそだ)・・・例えば、ドップラーとか、いわゆるフルート奏者が技巧誇示で書いたものばかりでは、こうはいくまい。また、全くの現代音楽でも辛そうだ。今回の選曲は良いものでした。また機会あれば、コンクールに足を運ぼう。

 帰りは、大阪中古CD店にて、Vn.と打楽器・マリンバによるCDなど購入。「CYプロジェクト」なる若手奏者のユニット(野口千代光&神田佳子)。ピアノも含めて、ストラヴィンスキーの「兵士の物語」からの舞曲をハードロック的アレンジを施したものなど、エキサイティング!!!もっとこういうアプローチあって良し。

 余談。それにしても、JR西日本の電車のスピード感は、あいかわらず怖い。神戸に行く途中、尼崎周辺では、さすがに身構えた。やりきれぬ思いも感じつつ、事故現場方面に向かい、心の中で合掌。

(2005.9.26 Ms)

 July ’05 

7/31(日) 平野智子&千葉純子 デュオ・リサイタル

 名古屋の熱田文化小劇場にて、ピアノとヴァイオリンのリサイタル。
 昨年のBSにて、フォーレのピアノ四重奏曲第1番の演奏に感銘を受け、千葉氏のヴァイオリンを聴く機会が近くであるとのことで出かけた。

 曲は、ドヴォルザークの4つのロマンティックな小品(Op.73)、グリーグのヴァイオリン・ソナタ第3番。
 休憩をはさんで、コルンゴルトの組曲「空騒ぎ」(Op.11)、フランクのヴァイオリン・ソナタ。
 アンコールとして、シャミナーデの「スペイン風セレナーデ」、ドボルザーク「母の教え給いし歌」。

 華やいだヴァイオリンの調べを堪能。特に感激したのはグリーグ。構成的には、いささか接続曲風な難点はあるが、それぞれの楽想が、冒頭の情熱的なもの、副次主題や緩徐楽章のいかにも北欧的な澄んだ美感にあふれるもの、フィナーレのリズミカルな舞踊、などなど、それぞれに魅力的。曲について詳細は知らず演奏会にのぞんだが、充分、楽曲の素晴らしさを伝えてくれたもの。
 その他、コルンゴルトはなかなかの珍品か。劇音楽からの編曲らしいが、いかにも後期ロマン派といった華麗さを気の効いた小品集にコンパクトにまとめたもので好感は持てる作品。R.シュトラウスの着飾った装飾を思わせる美しさと、マーラーさらにはヒンデミットあたりのグロテスクさ、も感じさせ面白い・・・第2曲の「夜警の行進」があまり重過ぎない葬送行進曲風な感じを受けた。
 
 余談ながら、全国随所を回る中古レコードのセールがあったので立ち寄る。外盤で、ニールセンの弦楽四重奏曲第3番と「かいなきセレナーデ」(コペンハーゲン四重奏団)、オーレ・シュミット指揮の交響曲第2番などあり、購入。ついつい歴史的資料として買い込んでしまう。
 また、名古屋観光も兼ね、中区栄の新名所「ラシック」、従来の名古屋らしからぬ、東京的空間。韓国料理など食す。

(2005.8.22 Ms)

7/18(月) ル・スコアール管弦楽団 第18回演奏会

 ヤナーチェク「シンフォニエッタ」、ハチャトリアン「仮面舞踏会」、ニールセン「交響曲第5番」という驚異のラインナップ。
 20世紀前半の、それも、かなりの変化球ぞろい。通俗的名作をはずした、意欲的な選曲。何よりも、ニールセンに惹かれて、梅雨明けの炎天下、ハマの風を受けに、横浜みなとみらいまでの遠征。東海道鈍行、往復10時間の旅である。

 まずもって、当団HP主催者の方に感謝です。HPを通じて演奏会にご招待いただき、ありがとうございました(メールして即座に券が届いたのに驚きです。オケという組織、演奏レベルと事務能力は一定の比例関係があるのは経験上確かです。)。この素晴らしい経験、ありがたく頂戴いたしました。

 さて、今や日本のアマオケの頂点に位置する団体の一つと言っても過言ではなかろう「ダスビダーニャ」の関連で、当団の演奏会を初めて聴いたのが2001年、バルトーク、コダーイといったプログラム(当時の感想などこちら)。
 その時の迫力満点、いわゆる爆演系な印象は、今なお健在。
 特にニールセンには、元気をもらった、と言えましょう。夏バテもふっとぶような勢い、そして、ただ騒々しいというだけではない、音楽の深さ、やはり、20世紀の交響曲第5番「運命」の栄誉はニールセンにこそ相応しいとの感を新たにしました・・・ショスタコやプロコも第5は素晴らしいが、ベートーヴェンのような、素直に人間を信じ、苦難を克服する人間の強さを歌いあげる健全さとはやや趣を異にするもの・・・(おっと、マーラーも20世紀の第5でしたね)。
 財界のトップが官製談合を可と発言する計画経済指向、議員の身分を剥奪せんと恐喝しつつ政治を牛耳る指導層、などなど共産主義こそ標榜しないものの、ソヴィエト的な全体主義を濃厚に匂わせる2005年夏の現代日本において、全体主義の苦悩を延々つづるショスタコの音楽よりは、せめてコンサートホールくらいでは、ニールセンの健全性を求めたくなるのも充分な理がありましょう。今こそ、日本、ニールセンの楽天的エネルギーを欲しているのでは、とすら感じました。今、の音楽ですよ、これは。
 などといきなり脱線しっぱなしですが、演奏会の思い出を順に追っていこう。

 「シンフォニエッタ」。アマチュアでもとうとうこんな作品を、それもオープニングでやるんだなあ、と感慨しきり。9人のトランペットを中心に、バス・トランペット2、テナー・チューバ2をバンダとして別に配置する特殊な編成。9人のトランペットは、舞台後方の客席2列目に華麗にスタンバイ、その他4人のバンダは、オケ最後列、ティンパニの横に配置。オケ後方からこの作品の基本的音調であるブラス・サウンドが覆い被さるという趣向か。

 第1楽章「ファンファーレ」は、まさにそれらバンダのための音楽。冒頭のテナー・チューバのデュオからして今回の演奏会への期待は高まらせ、爽快なトランペットの吹奏、そして、バス・トランペットと共に特徴的リズムを常に印象付けるティンパニ、指揮者から遠い場所においても、完全な一体感をもってよどみなく音楽は進みます。特に、ティンパニの、精緻なリズム、瞬時の音替えの正確さなど、これは実は凄いことです。同じ打楽器奏者としては感動ものですね。
 第2楽章からオケの本格的登場。低音の管楽器、特にミュート付きのトロンボーン、バス・クラリネットの音色が、やや異色な、古典的な意味で普通でない不気味な感覚を漂わせるオーケストレーションがかなり目立った演奏。また後続楽章も含めてコールアングレの存在も印象的。渋い楽器ながら華のある演奏。
 第3楽章は、切なくも憂いを帯びたハープを伴う弦の旋律が綺麗。中間部では、重厚なトロンボーン、チューバの和音も安定した渋い魅力を発揮。珍しい2ndトロンボーンのソロ、細かいターンを持った旋律の歌いまわしなど絶妙なもの。巧いです。そして、クライマックスでいきなり巻いて速度を上げるのには驚いたが、効果的な解釈ではある。そのあおりをくったフルート、ピッコロの細かな音符の殺気だったフレーズは結構大変だったでしょう。
 でも、発見。このパッセージを含め、木管には突然狂ったような突発的な風のようなパッセージが散見されるが、ニールセンもこの発想はかなり得意で使用している・・・両者ともに基本的に生前はさほど国際的存在ではなく、お互いを知る時があったかという有無は私は知らない。でも、この似た発想、何かつながりがあるのか偶然のことか、また一つ、ニールセンを考えるネタを提供されてしまったなあ。
 第4楽章。意外と聴き応えあり。意外と、というのは、演奏というより曲そのものに関して。5楽章制をとるこの作品、楽章間のキャラクターの差異がやや薄いような。特に極端にテンポが速い、遅いという差を感じさせず、中庸なる楽想の連鎖という感じで、私の経験上、第4楽章が一番だれてしまう・・・。のだが、それを感じさせない演奏だった。何故だろうか。楽章ごとのアンサンブルという観点での完成度は、一番納得いくものだったように思う。さきほどの木管もそうだが、曲の随所に弦、それも低弦にも機械的な細かな動きが要求され、さすがにこの辺は正確にまとめるのは至難。そういった難所が少なく、また、曲の進行とともに全体のアンサンブル精度の高まり、も感じたように記憶する。奇抜な発想が少なく(鐘の使用などは奇抜かもしれないが)、奏者全体にとっては最も演奏しやすい楽章なのかしら、という不確定な想像をもって歯切れ悪くこの楽章のコメントは終了。
 第5楽章。かっこいいファンファーレの回帰。何も言わずとも、うまく出来てるな、この興奮はヤナーチェクの手腕が大きい。ただ、最後のコラールにおける、弦のトリルの動きはもっと聞きたかった・・・金管の壮麗なる和音連結の神秘もゾクゾクするのだが、それを彩る弦のパワー不足(もしくは金管のパワー充足)、残念。指揮者には巧くそこを処理していただきたかった。このあたり(バランス感)が、この団の明確なキャラクターなのだろうけれど。でもこの一点をもってこの演奏の評価が落ちはしない。なかなかこれだけの馬力をもったオケサウンドを堪能させてくれる団体、そうそうあるまい。捨て置けない魅力があるわけだ。・・・その魅力あって、私はその客席に座ったのだし。
 さて、そんな金管の洪水のなかにおいて、最後のページにて、コントラバスなど低弦が、印象的な小節の頭の一打を何度か重々しく決めていたさまが音楽の深みを与えていて、ハッとさせられました。こういった新発見がいろいろ飛び出てくる演奏、だから、やめられません。愛すべし、主張をもったアマオケを。

(2005.7.20 Ms)

 「仮面舞踏会」。ハチャトリアンと言えば、「剣の舞」を含むバレエ「ガイーヌ」とさえ言っておけば足りたのは遥か前世紀のお話。ハチャトリアンにとっても、ソヴィエトなる負のイメージ、21世紀となっては過去の話。いろいろ聴かれるようになる傾向は、私も嬉しく感じる一人。我がHPも、史上最大の爆演交響曲たる第3番の紹介(ヤナーチェクの「シンフォニエッタ」以上にトランペットを擁し、さらにパイプオルガンの怒涛のソロが付く)など、HP立ち上げ時からの話題提供だったし(実演を聴いたのも、2003年3月、ここ「みなとみらい」でした)、最近の(2005年4月)、ピアノ、ヴァイオリン、クラリネットによる「三重奏曲」の感動なども忘れ難い。
 そんな文脈の中、この「仮面舞踏会」も、意外と編成としては手ごろだし、何を置いても「ワルツ」の素晴らしさは、オケに携わる人にとって知らないのは大いなる損失と思います・・・チャイコの3大バレエの各々の「ワルツ」を越えるとは言いませんが、古色蒼然たる「コッペリア」とかのワルツ(クラシック音楽に付きまとう、貴族的、上流階級的ムードの払拭こそ私の好むところ)よりは、断然21世紀を生きる我々にとって、魅力あふれる音楽と思います。

 さて、その「ワルツ」を第1曲とする5曲からなる組曲。正直、「ワルツ」が最高、あとは、やや凡俗、普通な(?何をもって普通なんだ)作品。ただ、どうも、オケのカラーがそう思わせるのか、初期ショスタコーヴィチがプンプン臭います。特に終曲のギャロップは、ショスタコのふざけきった初期の「ハムレット」あたりとの親近性がある。半音をぶつけた滑稽なサウンドも面白い。ただ、木管にはもっとはじけてもらっても良かったかな。
 落とし穴やフェイントが用意されたサービス満点さを、オケが渾身の力を込めて描いている、かなり汗まみれなギャロップだったようだ、が、実はスピード感あふれる進行のなかに脱落者もなく一気呵成に全員が駆け込むかの迫力は殺気だったようでもあり、また、正確なテンポ、リズム、切れ味の良さは、勢いだけでない実力が備わったもので、聴く者をイヤがおうでも惹き込んでしまう。また、ウッドブロックの効果的な存在感も好感。
 一方、偶数楽章の緩徐的場面は、弦も清涼感ある雰囲気を醸しだし、明確な対比が浮かびあがらせていた。第2曲のVn.ソロにも敬意を表したい。
 順番が逆となったが、「ワルツ」については、何とも豪奢な、チャイコ以来の、ロシアン・バレエを彷彿とさせるたっぷりとした厚みある響きを堪能。決して金管だけでなく、弦の厚みも(やや押され気味ではあるが)しっかり主張、それがあってのロシア風豪奢である。波が寄せては返すような歌心を伝える部分なども感動的だった。
 また、特筆すべきは小太鼓の正確さ。細かな装飾なども、まるで楽譜が見えてくるようなほどにピシッと決まっている。バランス的には、かなり主導的に、常に聞こえ過ぎとの印象をもつ人も多かろうが、ある種、通俗的で、またお涙頂戴みたいな演歌チックな曲想に、リズム隊の強調は俗っぽさの強調にも感じられ、私的にはOK。
 あと、細かなところながら(普段から何度も愛聴している作品ではないので、この機会に改めて気付いたのだが)、第3曲「マズルカ」が、ほとんど「ワルツ」と同様なリズム・パターンなのが変化に乏しいな、と・・・ハチャトリアン自身が明確に書き分けてないのかな・・・普通は、2拍目なり3拍目なりに強拍が移る事で「マズルカ」の舞踊性が特徴付けられようが、そのリズムが感じられないのは多少気になった。そのあたりも「これでもか」と分るような演奏ならば、もっと面白いものになったかもしれない。これは、楽譜を見てないから何とも言えず、単なる曲解に過ぎないかもしれない。が、せっかくなら(楽譜にその発想が書いてなかろうと)そんな尖った主張も見えたら、私の思う、「ワルツ」以外は「やや凡俗」なる印象を変えていただけたのかもしれない。この件に付いては、根拠薄弱なただの蛇足・妄想にてご容赦を。常に「曲解」の余地を探して、他にない演奏を企てようとする私の悪い癖なので捨て置いて結構です・・・。

(2005.7.21 Ms)

 ニールセンの交響曲第5番。よくぞ、ここまで頑張ってくださった。この難曲を。アマチュアが取り上げる作品とは思っていなかったのです。日本のニールセン音楽の受容史において、2005年は特筆すべき年となりましょう。2001年のN響ブロムシュテットの快演により、日本における、生演奏を通じての本格的な5番評価は始まったばかり。現時点での代表作、第4番「不滅」こそボチボチと演奏されるようにはなりましたが、独創性において各段の進歩を見せる、このニールセンの最高傑作、第5番が、アマチュアの演奏対象となり、確実に裾野を広げつつあるのが嬉しくて嬉しくて。まずは、感謝です。それとともに、世のニールセン音楽愛好家にとっては、ル・スコアールの名は未来永劫、記憶されねばならぬものと断言いたしましょう。

 で、演奏を思い出す前に、一度、私の過去の作品紹介なども目を通しておきましょう。
 オススメ曲紹介としてこちら
 所有音源としてこちら(結構、収集してます)。
 ニールセンにとって大切なト長調にからめた論考はこちら

 冒頭、ヴィオラの、細やかな、風のような、ブルックナーのごとき神妙な刻みとは一線を隠す、爽やかな空気の震え。ここからして、ニールセンの故郷、フュン島の田園風景が浮かぶ。幸福感。このヴィオラに先導される田園の情景の提示があってこそ、続く、行進曲のおどろおどろしさが強調されよう。
 そして、ファゴットのデュエット。コンサート前半は決して効果的な出番が約束されなかった(ひどいことに、ヤナーチェクにおいては、トロンボーンとバスクラに出番を持ってかれて休みばかりの)ファゴットの、穏やかな、牧歌的平安が心地よい。二人のバランスも良く、また、フレーズの最後のやや滑稽な下降スケールも決まった。このスケールの最低音は、ファゴットの最低音であり、また、ニールセンの最後の交響曲(6番)の最後にまさに意味深に残る音でもあり、隠れたニールセンのトレード・マーク。ユーモラスな彼の一面を象徴する音調に他ならぬ大事なもの。それがしっかり響く快感(どうも、個人的体験として東海地区でのアマFg.において最低音域がうまく鳴らない例が散見されているので、これは救いだった。)
 ヴィオラの刻みが残って、フォルテで散発的な自己主張。この唐突感もニールセンだなあ。ヴィオラは延々、当分この「風」の刻みだけだが、ここの気合い充分なのが良い。
 ホルンのデュオ、そして、フルートのデュオ。管楽器がそれぞれにデュオを奏でる様は、バルトーク「管弦楽のための協奏曲」第2楽章「対の遊び」へ影響を与えた発想か?バルトークもニールセンの前衛精神に感化された一人として、5番の影響受けてると私は思いますが、根拠なしです。前回のル・スコアールさんの演奏鑑賞がバルトークだったこともあり、今回特にバルトークへのつながりを強く感じた次第。
 ホルンはやや崩れたのが惜しい。でも、前半プロの安定ぶりからして、全く気にならなかった。このオケの響きの充実にホルンが果たしている役割が多大であることは、前半で立証済み。ヤナーチェクの中間楽章での、相当高い音域の吹奏やら、ハチャトリアンの「ワルツ」のロシア的豪奢なサウンドの立役者など、表面には出にくいものの、ホルンの充実は実に頼もしい。

 弦に旋律が移って、木バチによるシンバルのトレモロに予告される不安感が徐々に感知され始める。チェロの低音、CとFの繰り返しが、どうも、ショスタコーヴィチの7番「レニングラード」の第1楽章中間部、「戦争の主題」における最初の方の変奏での同じくチェロのEsとBの繰り返しを思い出させた。この感覚は始めてのこと。この演奏に、ショスタコ・オケ「ダスビダーニャ」の皆さんも参加しているからか、自分にとってはショスタコ臭さがどうも拭えない。遠方で聞こえる飛行機の爆音のような「レニングラード」での効果はまさに第2次大戦の音的描写を思わせるが、ニールセンにおいても飛行機ではないにせよ、この低音がやがて来る悲劇の予兆に聞こえてくるのだ。そして、C-Fという動きは、偶然の一致かタコと同じEs-Bという動きに収斂してゆく。
 「レニングラード」における、田園的安寧の中、小太鼓のリズムによる戦争が闖入するという効果は、ニールセンの5番を知ってのことと、今回改めて感じる。ショスタコーヴィチは「ボレロ」のマネをしたんじゃあない。ニールセンの、この、第1次大戦における自らの体験としての、平和の破壊の音楽的表現という恐ろしい発想を、第2次大戦を目の前にショスタコは拝借せざるを得なかった!!??ただ、これも、根拠なしです。ニールセンの5番がそこまで知られていたか・・・フルトヴェングラーによる初演直後のドイツでの演奏歴など勘案するに、1920年代、この前衛的作品は作曲家たちの噂になっていてもおかしくはないとは思っていますが。
 そんなショスタコへの思いを感じていると、またまた偶然ながら、ショスタコの名前の音名象徴フレーズ、DSCHに似た、CSCHなるフレーズがヴァイオリンで奏でられ、びっくりします。これはタコ・フリークな皆さんはご存知とは思いますが。

 さあ、小太鼓による行進の開始だ
 どうも、私には、この部分が、ラベルに「ボレロ」を書かせたと思えて仕方がない。1928年の「ボレロ」初演に先立つ、1926年のニールセンとラベルの出会い、1927年のフルトヴェングラーの演奏という事実。小太鼓のリズムの繰り返しの上に音楽を構築するという発想は、ラベルに影響を与えていないだろうか。そもそもスペイン舞曲たる「ボレロ」のリズム伴奏をするのは、カスタネットやタンバリンのはず。それを小太鼓にやらせ、タンバリンやカスタネットでは表現し得ぬ弱奏の緊張感をもたらしたのは、ニールセンの5番の効果を確認したからじゃあないのか、というのが私の邪推である。決して、ラベル研究家からは、ニールセンとの関係は語られていない・・・。ラベルの独創性と言われる部分をニールセンに奪われるからなあ・・・無理も無かろう。

 この小太鼓のリズム、やや4分音符の行進の足取りに比較し遅めに聞こえた。テンポ自体もそんなに速くはない。歩きたくない行進曲、という趣が大変素晴らしい。まさしくそういう音楽だ。破滅が待っているのは見えている、その方向へ皆が歩いてゆく。ああ、怖い絵図である。
 北米の哺乳類で、繁殖し過ぎると自ら川かどこかへ向かって大量に行進して飛び込んで死んでしまう、という想像も頭に浮かぶ。地球温暖化なんかも、音楽化するとこういう音楽なんだろう。化石燃料をひたすら燃やしつづけ、さらに未開拓の市場に自動車を売り企業は世界一を標榜する・・・、その一方、環境破壊と季候変動を起こし、結果として後世の人類を破滅に追いやる、なんていうテーマにはもってこいだと思う。
 ティンパニと低弦のピチカートによる行進も絶妙のバランスだ。両者がせめぎあうさまが不安を煽動する。ティンパニが前へ出ると思いきや、次は低弦が主導権を、と落ち付かせない展開が面白い。低弦の頑張りが物を言っている。
 さて、この辺から、クラリネットの協奏的パッセージが展開、活躍を始める。これを特筆したい。狂おしい、何かに取り付かれたかのような尋常ではない音の動き。このニュアンスが、行進のリズムの中に、はまりつつも、杓子定規でない自由さを持って表現されていた。音色も硬質な感じで、ゴチャゴチャした行進の中で、存在感がしっかり浮きたっていた。また、このソロを導く、第2奏者のクレシェンドなども効果的にきまり、続く第1奏者のソロを目立たせる役割を充分果たしていたのが好感大。ここでのクラの活躍を見れば、この後待ちうける重要なソロも・・・という期待感が高まる。そんな高揚感も私は味わいつつ、聴いてワクワク、興味は失せない。作品の力と、奏者の力が渾然一体となった真の名演の姿に感動は絶えず。

 さて行進のリズムは断片的となり、曲の冒頭の牧歌的ムードも回帰する。やはり、この部分などはホルンの安定あってこそ、だ。
 ただ、やや遅め、たっぷりとしたテンポ感は、この第1楽章第1部から、第2部のアダージョへの移行部分については、ややダレ気味な感じもなかったではない。曲そのものが、ここの脱力過程に長い時間を割いているからだろう。この部分でも、例のクラの狂おしいソロなどは素晴らしいが、その他、低弦の細かな動きとか、その中のアクセントとか、その辺の表現がさらに意識的に強調されれば、ここの停滞感は最低限に抑えれたかもしれない・・・が、私としては、ここまでやっていただければ全然大丈夫(慣れていない聴衆にとっては、ややツマラナイ箇所かな、という心配があっただけ)。タンバリンの静寂とスレスレの微妙な音量調節なども聴きどころだったし、チェレスタの同音連打の深い味わいも良い(この1音のために、鉄琴じゃあない、このチェレスタを選んだのも異才ニールセンのキャラだよなあ)。

(2005.7.25 Ms)

 第1楽章第2部、アダージョ。プログラム解説では、「オーボエの鶴の一声」によって、穏やかな楽想に転換。
 確かに、静寂の緊張感、断片的な、タンバリンとヴァイオリン、チェレスタの囁きに対し、突如、光を投げかけるような、明るい連続的な、旋律線が、オーボエによって示される。この効果は良い。何かと思い出してしまう、2001年N響の演奏では、このオーボエが、前の部分の速めのテンポ感ですべるように奏されたのが、どうも趣味ではなかったが、今回は、後の緩やかなテンポ感にのっとっての演奏で、心に染みた。冷たい世界の中に、初めて人情を感じ涙してしまうようなオーボエの、一声・ひとフレーズであった。
 続く、ヴィオラ以下の中低弦、ホルンを中心とした、平穏な調べ。テンポが自分のお気に入りよりはやや速めで、初めは、そっけなさも感じたものの、聴き進むうち、平和に安住する停滞感よりは、積極的な喜びの歌、といった趣も感じられ、悪くない。ふくよかな心暖まるこの部分、中低弦の安定ぶりも当然ながら、しっかりとそれを支えるホルンの豊かさも好感度高し。また、この部分の感情の高まりは、やはりホルンによる3度音程で上昇するモチーフの高らかなる吹奏でダメ押し。この感動はいつ聴いても素晴らしい。
 さて、その高まりは一度収束するものの、次第に暗さ、不安を帯び始め、トロンボーン・チューバによる、主題のカノン風な展開を導く。ここの威圧感はさすが、である。ここで、始めての出番という気合いもあろう。ティンパニのトレモロも、今までの平穏を否定する存在感が良い。入りの1小節だけがフォルテ2つ、その後はフォルテ1つ、よって、金管楽器のカノン的なからみ(ニールセンの好んだ対位法的な厚み)が充分引き立つティンパニのバランス感も良い。
 その、威圧的金管に対し、第1部の冒頭に起源を持つ、風のような細かなモチーフが、木管、そして弦それぞれに警告のようにまとわりつく。その混乱のなかで、小太鼓のカデンツァが挿入される。最初のあたりは、ニールセンが楽譜を書いており、第1部での行進のリズムを織り込み、断片的に小休止を挟みながら、いわゆる小太鼓の常套的なフレーズなどを披露。途中から、楽譜は「アドリブ」となり、全く奏者に任される。このアドリブがいつもながら聴きどころ。
 今回の演奏は、ニールセンの書いた雰囲気も踏まえたうえ、その雰囲気の延長上に、断片的なフレーズを集積させ、徐々に音符の密度も増し、クライマックスに向かっての高揚感なども充分伝わり、かなり良いセンスを見せ、聞かせてくれた。N響の演奏では、このアドリブに夢中になりすぎて、クライマックス1小節前で、ニールセンの書いた本来の音符が演奏できず、ごまかしてクライマックスに雪崩込んだのがごあいきょう。まあ、楽譜を知って聴いてる人もそういないから問題にもならんだろうが。今回は、そのあたりも計算ヅクといった余裕すら感じた。
 ただ、このオケの特筆によるのだろうが、やはり、金管は容赦ない。重厚な威圧感をずっと保持していた。ということで、小太鼓の乱入が、平和をぶち壊す異質なる存在、というキャラクターというより、例えば、時代に流されるのに抵抗する個の叫び、といった雰囲気が漂っていた。正直、私の、演奏時のリアル・タイムな感覚は、「負けるな,小太鼓!!!」であった。通常のCDなどプロの演奏は、オケと小太鼓が両者譲らず、どちらかと言えば小太鼓の撹乱に対して「負けるなオケ!」という感覚なのだが、どうも、金管の主導のもとに音楽は流れ、小太鼓がその流れを変えようと奮闘するものの、どうにも変えられず、という絵が見えていた。私には、まさしく、ショスタコーヴィチの音楽の中の、ソロ楽器の使用法が見えていた。
 「全体」に押しつぶされかねない「個」という存在。久しぶりに、音楽を聞いて、社会のことなど考えさせる体験ともなった。第1次大戦の体験が色濃く反映したニールセンの4番、5番。やはり、今の音楽に相応しい問題提起をもったものと痛感。

 このクライマックスがト長調の主和音を断固として打ちたて、あとは、脱力感のみをもって、コーダが待っている。
 最後の、クラリネットの独白は、感動ものである。しんみりとした、やるせなさ、でも、ほっと一息。ここも、静寂と音とのギリギリな境界線上の世界が聞くものをハッとさせる。この息づかい、なかなかアマチュアには厳しいものがあろうが(冒頭のFg.同様、東海地区のレベルでは、この域に達する人は私の近くには皆無)、見事、この難しい表現を舞台で発揮されたのだから、何を置いても、このクラに最大限の賛辞を送りたい。

(2005.7.29 Ms)

 第2楽章。やはり、ニールセン特有の「競技的3拍子」、これがアマチュアには困難であろう・・・。ブラームスの第2、3番の交響曲の冒頭楽章にも見られる3拍子のアレグロ(3番は6拍子だが、もちろん3拍子が2つくっついたもの)、2拍子のリズムが混じったり、強拍の位置をずらしてフェイントかけたり、結構やっかいな音楽だが、ニールセンは、ブラームスの延長上にありながら、さらにややこしく、3拍子だと一見わからないような音楽を書いている。この5番における3拍子も、聞くからに3拍子には聞こえぬ、変拍子、それもストラビンスキー並の不規則さ。どうしたって、ぎこちなさが前面に出てしまう(なお、ブラームスとストラヴィンスキー、あまりにも非なる存在ながら、ニールセンを介在させることで、アンチ・ロマン派、新古典的作風という共通点が浮かぶのが面白い。拍子感の改革、革命も、この3者共通の課題だったと私は思う。)
 ただし、曲自体、頭でっかちなものではなく、躍動感に満ち、やはり、「競技的」、うん、充分にスポーティである。その躍動感は演奏から充分に感じられた。テンポは安全運転を狙ったやや遅めなものながら、ただの妥協、とも言いきれない。このテンポ感でも、曲にどっしりとした重力感が加わって悪くはない。ホルンを中心とした金管の充実とティンパニの決めのモチーフの連続、生命力あふれるニールセンの作風をしっかり伝えている。この密度の高さが、テンポ感を問題視させない要因と見た。
 ただ、第1部から第2部への移行、弦の壮絶に困難を伴う、無調的な音の羅列(これはホントにご苦労様でした)、そして、その後はどんどん音が希薄になり、また、複調的に、各パートが勝手な調性でからみあう脱力的な部分、ここへ来て、このゆっくり目なテンポ感によるダレ、は感じられないではない(第1楽章においても同様でしたが)。やはり難曲の曲作り・演奏は難しいなあ。
 でも、予想以上の弦のがんばりに私は感銘を受けました。ここは崩壊しても許そう(プロなら許さないが)、という箇所だと思います。ここの集中力、実は、今回の演奏会の一番の見所聞き所だったのではなかろうか。必死さも伝わったが、でも、必死さ、というのはアマチュアの特権じゃあないのか。必死さが感じられない、余裕をかました酷い演奏、ほど聞き手をむかつかせるものはない(プロもアマもだ)。
 さて、競技的3拍子、ということで、スポーツを想像するのも一興で、ここの必死さ、聴衆としても手に汗にぎる展開、まさしく、サッカーのゴール前の攻防、というスリリングさである。「がんばれぇ」と声援を送りたいほどの部分でしたが、この弦の目まぐるしい動きのなかで、管楽器が主題を回帰させたり、ティンパニが強烈なアクセントをつけたり、これらが、弦の崩壊をさせない的確な助け舟となっていたのも、このオケの素晴らしさだ。アマオケの神髄を見たような気がしますよ。

 第2部の悪魔的なさらに急速なスケルツォもスリル満点。第1部の(テンポ的に)抑え気味な表現を一気に爆発させるようなエネルギーがあった。クラリネット、フルート、ピッコロの狂気のもだえ、金管の爽快な雄叫び。混迷の時代といった感が面白く聞ける。特にこの部分の最後、金管の勢いが突然止んで、低弦の持続音とフルートだけが残る部分の効果には感動した。金管の鳴りっぷりが全開なのがその要因だが、それが突然なくなり意外な世界が待っていた、という感じが大変よい。
 第3部は、ようやくここで、弦楽器は、弦楽器らしい表情を見せさせてくれる。ここのいかにも北欧的なすがすがしさ、冷たい空気の中の、暖かい体温、といった趣が好きでたまらない。弦の方々にも、ここに対する思い、意気込みがあったのでなないか、心に染みるものがありました。一瞬ふと耳を向けさせる、フルート三重奏のさりげないパッセージも良い。
 そして、終結部は、第1部を再現させながら、曲を豪快なコーダへと導く。ここも第1部同様、競技的3拍子がゴール前攻防になってしまうが、その弦の息つかせぬ動きの上に、管楽器がかぶさりながら、だんだん音楽が集約されていくさまが、聴覚的にも視覚的にも面白い。各々バラバラな動きがだんだん単純な動きに、ようは4分音符の連打に収斂していく。ティンパニの4分音符さえ登場すればあとはなんとかなる。弦楽器のふんばりが効を奏してコーダに突入、弦楽器も細かな動きから開放、4分音符の連打になるや、Vnの後方から、壮絶な弓の上下運動が視界に入って目を見張る、・・・ああ、ニールセン、弦楽器奏者がこうなることを予想して今まで酷使したのか・・・なんと開放感に満ちた映像であったことか、苦難、困難な道程から開放された人間の喜びをまざまざと見せつけてくれた。この部分のこの感覚は始めて味わった次第。この楽天的エネルギーこそニールセンなのだ。来て良かった、聴いて良かった・・・演奏会最大の楽しみを最後のクライマックスで最大限放出してくれる、ニールセンと、オケさらに指揮者に感謝します。

 ・・・で終われば良かったが、最後の最後で、poco a poco allarg..随分早い時分からゆっくりし始め、最後はもたれるほどのテンポ感で息果てるような終局とあいなった・・・確かに、サロネンやらロジェベンやらゆったり終わる解釈もあるが、ちょっとここはやり過ぎたかなあ、という感じ、ながら、気持ちはよくわかる。ここは趣味の違い、ということで全く問題とはなるまいて。とにかく、ここに辿り付く道程の感動が何より得がたい体験であった。

 あらためて、思います。特にニールセンには、元気をもらった、と言えましょう。夏バテもふっとぶような勢い、そして、ただ騒々しいというだけではない、音楽の深さ、やはり、20世紀の交響曲第5番「運命」の栄誉はニールセンにこそ相応しいとの感を新たにしました・・・

(2005.8.5 Ms)


   「今月のトピックス’05」へ戻る