ESPANSIVA! NIELSEN

Carlめ(軽め)にコラム

第1話 ニールセンのト長調 その1  

 いつの頃からだろうか、「ニールセン」と聞くと、もしくは、「ニールセン」を思い浮かべると、なぜやら、まずト長調の主和音が自分の頭の中で鳴り響くような気がします。
 やはり、彼の代表作である交響曲第5番のイメージの強力さが自分にかなり焼きついてしまっているような気もします。第1楽章の第2部、癒されるようなヴィオラの歌、ふくよかな低音楽器の背景。そして、小太鼓のアドリブのカデンツァ、乱打を経て、そして大団円・・・・そのト長調の響きが、彼を代表する、そして象徴する調性として、私の中では昇華してしまっているかのようです。
 さらに、今回の「ESPANSIVA!NIELSEN」のHPを開始するにあたっての作品表の作成、知り得る限りでの彼の作品の鑑賞、確認、これによって、ますます私にとって、彼の作品における「ト長調」を意識することが強まってきました。このHPもまだまだ発展途上ながら、様々な彼に関する客観的なる情報提供とは別に、私Msのニールセン作品への思いなども、「ト長調」をお題として、書き綴ってみたいと思います。

HP正式発足より1ヶ月、この程度の更新とは悲しいが・・・・長い目で・・・(2001.7.9 Ms)

<1> 交響曲第5番の小太鼓カデンツァ部分におけるカデンツ構造

 などと大袈裟なタイトルなどつけるから、おじけづいて半年も記事を書かずに放置するのだ・・・。ちょっと、いきなり「軽く」ないかもしれないがご了承下さいませ。

 ゆるぎないト長調の確立、を私はこの交響曲第5番第1楽章第2部で感じるのだが、そのハーモニーの秘密をなんとか解明したくてスコアと格闘、一応、私なりの分析などまとめてみたい。

 スコアには、第1部、第2部などと表記はないが、通常CDもインデックスが分れているし、4/4拍子が、3/4拍子に変化、テンポも、Adagio non troppo に変わるところから第2部と理解して差し支えあるまい。
 その第2部、静けさの中から、オーボエのさりげない下降音型を契機に、(第1部の不確定な調性とは対比を見せて)明確なト長調のハーモニーをバックに、ビオラに暖かな歌が生まれ出る(練習番号26の9小節前)。中低音域を中心にその歌は広がりを見せ、大きく盛り上がり、また収まっていく。
 そして、再び、第2部冒頭のビオラの歌を今度はバイオリンが歌い始める(練習番号31)。今度は、木管楽器(フルート・クラ)によって、第1部の冒頭のビオラのざわめき(C−A−C−A−・・・・)、及び、第1部のティンパニの行進の足取り(F−D−F−D−・・・・)に見られる短三度の音程から派生した、「風のようなパッセージ」が何度もまとわりつく。D−H−D−E−F−E−F−D−E−H−D、という動き、ト長調の固有の音階にだいたい基づいていると言えるが、Fisが半音下げられているため、やや暗さを帯びたムードでもある
(ジャズのブルー・ノートとも一部共通する。ニールセンの場合は、ジャズのブルーノートというよりは、古来の教会旋法との関連を指摘できるだろう・・・ジャズの理論も、教会旋法と密接なつながりは持っているけれど)
 木管の「風のパッセージ」に影響されてか、暖かな歌は次第に暗さと不安を増加させ、ト短調的なハーモニーが主導的となり、練習番号33でト短調の五度の和音(いわゆる和声学上のドミナント)で偽終止する。
 その偽終止の上に、この曲で始めてトロンボーン・チューバが登場し、冒頭ビオラの歌をト短調でカノン風に出す。その背後に強烈なティンパニのフォルテシモのD音のトレモロが鳴り始める。ここでも、木管の「風のパッセージ」は音程を変えずに登場、今度は全木管による演奏で、金管のト短調に対し、ト長調を主張。
 すると、今度は全弦楽器が低音域で、「風のパッセージ」を1音低めて出てくる。C−A−C−D−Es−D−E−C−D−A−C、という動きは、ト短調の五度の和音が意識される状況においては、ト短調の属7(D.Fis.A.C)もしくは属9(D.Fis.A.C.Es)の和音として聞こえてくる。しかし、木管のパッセージがト長調と分析しえるのであれば、この弦楽器のパッセージは、1音低められたという意味ではヘ長調を志向するものとしても分析できるのだ。
 案の定、と言おうか、金管によって、冒頭ビオラの歌が、ト短調、変ロ長調と転調を重ねつつ展開し始めるや、練習番号35で、とうとうホルンによって冒頭ビオラの歌は、ヘ長調として高らかに吹奏されてしまう。弦楽器の「風のパッセージ」が、ト短調の属7もしくは属9を離れ、へ長調としての機能を果たす事となるのだ。それに呼応して、バス・トロンボーンとチューバはヘ長調の第五音、Cを低音でしっかりと確保する。その時、まだ木管の「風のパッセージ」はト長調を主張、ティンパニもDのトレモロを続けている。ここに、オーケストラは、
へ長調を志向する金管、弦というグループと、ト長調を志向する木管、ティンパニというグループの2つが、あたかも南北朝時代の如く並立、混乱を呈する姿と成り果てるのだ。

 その輻輳した調性感へと到達する一歩手前、金管が転調を重ね行先のまだ定まらない、さまよう段階、練習番号34の2小節目から、あの、小太鼓の独奏は開始、譜面上もカデンツァと指示がある。まさに、調性の混乱の真っ只中に、テンポ、リズムまでをも撹乱させる異分子として小太鼓は登場するのだ。

 さて、小太鼓が投入されテンポもリズムも意味不明、オーケストラは和声的にもト長調とヘ長調の2つが並立する大混乱。木管、弦、それぞれの「風のパッセージ」も当初は一節ごとにディミニエンドしていたのに、調性の対立が生じ始めるやディミニエンドの指示はなくなり、両者一歩も譲らぬ状態に。途中から、トランペットは2番3番奏者が金管グループから離脱、ティンパニと同じDの音で、第1部の行進の小太鼓のリズムを散発的に吹き鳴らす。音楽の流れはヘ長調のホルン、トロンボーン、チューバ、弦がやや優性か?しかし、低音はCとDがぶつかり合い、小太鼓の乱打の合間に耳にまず飛び込むのは散発的なトランペット、2つのグループどちらも妥協の余地はないかのようだ。相撲で言えば、完全にがぶり四つ、動きがなくなってしまったかのようだ。
 ちなみに、Simpson著作の「Carl Nielsen Symphonist」のこの部分の解説にも「he wants to stop the progress of the orchestra.」とある。

 さて、動きのとれなくなった状態でも、少しづつ変化の兆しもある。トランペットの散発的なリズムは次第に長く吹き続けられるようになり、また、ホルン、トロンボーンもヘ長調からさらに調性のさまよいを続け、へ短調、変イ長調、と変わるうち、ト短調の四度の和音に接近、チューバのCの低音は次第にヘ長調としての説明はつかなくなり、支えきれなくなったのか、C−Cis−D、と半音上昇、ティンパニのDに合流するや、Dはト短調またはト長調の5度の和音の根音としての機能を果たし、金管のハーモニーもそれに従い、弦の「風のパッセージ」も今さらヘ長調を主張することなくト長調の属7の機能になり、小太鼓の乱打も自由なカデンツァから単なるトレモロという楽譜の指示となり、秩序はト長調のもとに回復、練習番号37でト長調の高らかな宣言、ここに緊張状態は終止符を打ち、開放的な解決感を得るわけだ。
 ここに至る、約2分間、ティンパニはずっと低音バスのDを固守し、自身が登場する前の、ト短調の五度の和音(ドミナント)を引き継ぎ、大混乱の中にあって来るべきト短調への回帰を想像しつつも、それが最後の1小節でト長調の五度の和音への読み替えが行われて、結果、ト長調による解決をもたらすのだ。ひたすら耐えに耐えドミナントの根音の役割を見事果たしていることとなるわけだ。

 そう考えると、この2分間、小太鼓の協奏的なカデンツァ部分も含めて、ティンパニのDのトレモロが続くところ全てが、ドミナントの状態と考えてもいいかもしれない。例えれば、音楽の授業の開始にピアノで鳴る三つの和音、ハ長調の、一度・五度・一度(すなわち、和声学のカデンツのパターンで言えば、トニカ−ドミナント−トニカ)、の2つ目の和音で礼をしたまま2分間、最後のトニカの和音が鳴らなかったら随分苦しいだろう。頭を下げたままで待たされて、ようやく最後の和音で解決、頭を上げた時の安心感、幸福感はかなりのものだろう(!?)。調性音楽においてこんなにドミナントからトニカへの進行を待たせる音楽、なかなか他に類例がないのではなかろうか?

 さて、実は、ニールセンの音楽はまだ続きがある。ト長調で解決、冒頭ビオラの歌も原形近い形で再現、ティンパニのトレモロも、GとDを繰り返してさらにGに収まる。そこから、低弦、低音金管楽器がト長調の音階をGから順番に一拍つづ確かめるように上昇して行く。しかし、そこに、さらにまた、木管の「風のパッセージ」が重なる・・・Fisは依然Fに低められたまま。その影響か、低音の音階も2度目のEはEsに低められ、さらにそのEsが障害物になってか上昇をやめて下降、下降時はなんとト短調の固有の音階で降りてくる。
あやうしト長調!しかし、これもまた最後の一拍で、ト短調の五度の和音がト長調に読みかえられて駄目押しのト長調主和音を今度こそ文句なしに決める。そこから急速に音楽は安堵感を取り戻し、沈静化。弦楽器による柔らかな、ト長調の主和音が響き始める。・・・・ただ、ここでも「風のパッセージ」は名残惜しくもファゴットに残り、そして、最後のクラリネットも、「風のパッセージ」の面影を残しつつFisから低められたFを温存しており、さらに小太鼓の行進のリズムも回想される・・・・この劇的な第1楽章のドラマを感慨深く懐かしむような、大変印象深い終わり方だ・・・(ショスタコーヴィチの交響曲第8,13,15番の終わり方を思い出そう)。

 ざあっと見て来たように、この交響曲第5番第1楽章第2部のト長調の解決、とてもスケールの大きなカデンツ構造ということもあって、とても私の耳に残るのだ。結果、ニールセンと言えば、この複調的な混乱を乗り越えた末の安堵をもたらすト長調の主和音の響きを、まず思い出すようになってしまったようだ。

 しかし、改めてニールセンの作曲家としての手腕、とても素晴らしいと感じる。複調、と言えば、ストラヴィンスキーの「ペトルーシカ」やら「春の祭典」、さらには私も最近演奏したミヨー「屋根の上の牛」・・・・このニールセンの例を聴いた後では、それらがどうも作曲技法の実験程度のレベルの思えてくる。複調という手段を使ってニールセンは、小手先の作曲技巧誇示を越えた、真に説得力ある感動的な作品を生み出したように私は感じるのだが。さて、皆様はいかがでしょうか。

 ト長調をお題に、ニールセンの交響曲第5番について私の感じるところを書いてきたわけですが、そこからさらに発展、ニールセンにとってト長調が大事な調性でははなかったか、と私は感じるに至りました。そこのところ、また機会をみて書き続けていこうと思っています。 

 P.S.ちなみに、木管、弦の「風のパッセージ」なる表現は完全に私の感覚に基づく仮の名前で、ニールセン本人、研究者の著述とは関係なしに勝手にここで名付けているだけですのでくれぐれも誤解のないようお願い致します。

(2002.1.14 Ms) 


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