早春賦・
第八章
「近所の人が学校に連絡してきたんですよ。うちの生徒とA中の生徒が大げんかをし
ているって」
よく日の放課後、ぼくは母といっしょに職員室に呼び出されていた。
「かけつけてみたら、私のクラスの生徒たちだったんでびっくりしました」
高橋先生は、もう何人もの父兄や先生たちに同じことを話していたらしく、『びっ
くりしました』と言ってもちっともそのように聞こえなかった。
「でも、話をきいてみると、相手の中学生の方が悪かったようですし」
と、先生はつかれた声で言った。
「しかし、彰くんがあんなことをするとは思いませんでしたよ」
とも、先生は言った。
そのたびに母はすまなそうに頭を下げていた。
先生のお説教は二十分ほど続いたが、結局、一番問題だったのは、学校のバケツを
無断で持ち出して捨ててきてしまったことだったらしい。
心配顔の母を先に帰して、ぼくはひとりで教室に上がった。
フンチやクンチたちは先にもどっていた。博史や、きのうぼくを救い出してくれた
女子たちも待っていた。
雄介は今日も学校に来ていない。
それに千春までも、今朝から学校を欠席している。熱を出しているという。
きっと、きのうから具合が悪かったんだ。廊下のおくでフンチたちにつめ寄ってい
るとき、いつもの千春ではなかった。そのうえ、ぼくを助けるために智子たちと走り
まわったりして、よけいに悪くしてしまったのかもしれない。
「どうだった?」
博史が、心配と好奇心を半々に見せて聞いた。
「よくわからなかったけど、こんどやるときは、自分のうちからバケツを持っていけ
ばいいみたいだ」
「おれも、そう思った」
源太郎がぼくに賛成すると、みんな手をたたいて喜んだ。
さっきから、ぼくは智子のようすが気になっていた。
昼休みに、智子はぼくの背中をつっついておいて、なんでもない、とやめてしまっ
た。
いまもなにか言いたそうに見える。
「どうしたの?」
そばに近寄って顔をのぞいた。
「じきに、わかってしまうことだものね」
智子はきまりの悪そうな笑い顔で、頭をかく。
「あのね、雄介は肺炎じゃなかったの。風しんだったのよ。ゆうべになって体にポツ
ポツが出てきて……」
「おい、風しんなら、おれだって去年かかったぞ」
「おれだってやったよ」
医者のむすめの意外な報告に、男子たちは一せいに声を上げた。
「なんだよ、A中のやつらにやられたんじゃなかったのか?」
「ちがうのよ。雄介がびしょぬれになったのはほんとうなの。きっとそれで体が弱っ
て」
「そうだよ。ほんとうに野島くんは一人であいつらに向かっていって、冷たいどろ水
の中にたおされたんだ」
ぼくは声を張り上げた。
「それにね、千春も風しんなの」
こんどは女子があわてだした。
「ええっ!」
「なんで、千春が雄介と同じ病気にかかるのよ!」
さわぎは、見まわりに来た高橋先生に教室を追い出されるまで続いた。
◇ ◇ ◇
音楽と図工と理科は、これはいつも『5』。
国語は『3』。
右の耳がくすぐったくてふり向くと、智子の額に、自分の額をぶつけそうになった。
「体育が『1』なんて、どうやったら取れるの!」
「のぞくなよ」
ぼくは配られたばかりの通信簿をあわてて閉じた。
「さか上がりができなかったし、棒登りもだめだったし、百メートル走もビリだった
からなのね」
そんなことは言われなくてもわかっている。これまでだって体育はずっと『1』か
『2』だったから、自分ではなんとも思っていないんだ。
「教えてあげる」
うしろの席をふり返った。真剣な目を見つけた。
「さか上がりを教えてあげる。力なんていらないの。こつがわかれば、だれだってで
きるんだから。春休みに学校においでよ」
こんどの春休みから、休みの日でも、十時から三時までのあいだ校庭で遊んでいい
ことになった。さらに来学期からは、放課後の二時間、校庭で遊べるようになるらし
い。
工事で校庭がせまくなって、生徒がのびのびできる場所が少なくなったので、その
うめ合わせをするためだという。
もしかしたら、ぼくたちの起こしたあのさわぎが役に立ったのかもしれない。
「通信簿はどうでしたか」
高橋先生が話を始めたので、ぼくは智子に返事をしそこなった。
「こんど会うときは、みんな六年生ですね。病気やけがをしないで、また元気で会い
ましょう」
五年生最後の礼が終わると、高橋先生はみんなに手をふって教室を出ていった。
その先生と入れかわりに、前の入口から雄介が顔を見せた。
雄介と千春は今日初めて、そろって登校していた。千春は月曜日から三日ぶり、雄
介は土曜日からだから五日ぶりの学校になる。
春休みの解放感でさわがしくなりかけていた教室が、しんとなった。
仲よく風しんで学校を休んだ宿敵どうしが、どんな顔をして再会をはたすのか、こ
の組の、とりわけ女子たちの関心の的になっていたからだ。
「ふたりとも、すこし顔がやせたみたいだね」
ぼくは横の智子にそっと言った。
「千春、きれいになったみたい」
智子は、同級生の横顔をうっとりした目で見つめている。
「野島くんは?」
またささやいた。
「ちょっとだけ、頭がよくなったように見える」
ぼくはふき出しそうになった口をあわてておさえた。
雄介が、席にすわったまま机の中を整理している千春の前に立った。
「元気そうだな」
雄介が千春に対してぶっきらぼうなのは、いつものことだ。
「あなたもね」
千春は雄介を見上げて、ふだんより少しゆっくりと言う。
「おまえら、女のくせにばかなことをやったんだってな」
女にくせにとはなによ、と千春が反発することを期待していたのかもしれない。
でも、千春は首をかしげて雄介を見つめるだけで、なにも言わない。
雄介は気まずさをごまかすように、あたりを見まわした。
「おまえ、女をあぶないことに巻きこむんじゃないぞ」
あとから教室に入ってきた博史をつかまえて、急にしかってみせる。
それまですまし顔で雄介の表情を観察していた千春が、がまんできなくなって、ぱ
たぱたと机をたたいた。
「なにを気取っているのよ。ぜんぜん似合わないんだから」
「気取っているのは、おまえの方だろ!」
雄介が真っ赤な顔をしてさけんだ。
◇ ◇ ◇
みんなでそろって学校を出た。
校庭の桜は、うす赤いつぼみをいっぱいにふくらませて、長く道路の上まで枝をの
ばしている。ぼくたちはその下をならんで歩いた。
ぼくはバイオリンをやめる。
いま練習しているソナタをしっかり仕上げて、それを最後にしよう。こんどの土曜
日、先生にそう言おうと思う。
八年間ひとつのことをやってきたことは、むだだったとは思わない。これからのぼ
くの、きっとなにかの役に立つはずだ。
妹の麻里が、去年からバイオリンを習っている。麻里は自分からやりたいと言って、
教室に通い始めた。あの負けずぎらいなら、ぼくがはたせなかった両親のゆめをかな
えてくれるかもしれない。
「きょうは、彰くんもやるんでしょう?」
先を歩く智子が、ぽんぽんとボールをたたきながらぼくをふり返った。
「うん」
雄介と千春がもどってきたら、空き地でドッジボールをしようと、みんなで決めて
いた。
さっき智子からそれを聞かされたとき、ふたりともちょっととまどったように顔を
見合わせたが、反対しなかった。
みんなでだらだら坂を上っていく。昼の坂道は、春の日ざしでゆらめくように暖か
い。
行き止まりの路地のおくで、中学生にけりつけられたあざは、まだぼくの背中に残
っている。
あのときのめまいのような感覚は、けがのことを両親に知られないようにふろに入
り、暖められたきずの痛みに思わず声を上げそうになったときにも、ふとんの中で歯
をくいしばって、やっと寝返りをうったときにも続いていた。
いま、ぼくの体はここにある。
雄介のように、思い通りに自分の体を試しているものには、あたりまえのことのは
ずだ。
小さいときから、体の具合を気づかいながら育ってきた博史も、きっといつも感じ
ていることだろう。
でも、こんなことに、ぼくはあのとき初めて気づいた。
雄介がぼくの背中をとんとたたいた。
「永瀬、こんどちゃんと野球を教えてやる」
「ありがとう。バイオリンを教えようか」
「いらねえよ」
雄介が笑ったとき、先を行く女子たちの足が止まった。
「トラックが来ている」
女子のだれかが言った。
空き地の中に、大きなトラックが二台乗りつけられている。
なにが起こっているのか、ぼくにはすぐにわかった。
ひと月前、トタンべいが消えて境がなくなっていた道路と空き地のあいだには、ふ
たたびくいが打たれ、針金のさくが張られていた。その中で、おおぜいの作業服の男
たちがいそがしそうに立ち働いている。
「四階建てのアパートができるんだって」
クンチが、さくに取りつけられた工事の看板を見上げた。
ベニヤ板のホームベースも、ぼくが作った風よけのダッグアウトも、もうどこにも
なかった。
雄介が名誉をかけて戦い、ぼくやフンチたちがあの恐怖を味わって取り返そうとし
た空き地は、二度と手の届かないところに消えてしまった。
ぼくたちは無言で、トラックの荷台から、大きな機械がつぎつぎに運び下ろされる
のを見ていた。
博史がぼくの横に立った。
「なくなったんだね」
ぼくは博史の声の明るさに気づいた。
「そうだね」
ぼくにも悲しいという気持ちはなかった。心のどこかに、確かに満たされたものが
ある。きっと、ぼくたちがほんとうに取りもどそうとしたものは、この空き地ではな
かったんだ。
ぼくは目で雄介をさがした。
雄介は一番うしろにいた。両手を首のうしろで組んで、女子たちの頭ごしに男たち
の仕事をじっと見つめている。
そのとなりに、かたを寄せるようにならんだ千春の目が光っている。
「もう野球、できないのね」
前を見たまま小さくつぶやいた。
「まあ、いいか」
雄介は片手で頭をかきながら、苦笑いをする。
千春は、雄介のふだんと変わらない表情を確かめると、安心したようにほほえんで
から、カーディガンのそでで目をふいた。
「そうよね。もともとここはなかった場所なんだから、前と同じと思えばいいのよね」
「同じじゃないさ」
雄介はのびをするように、春の青い空に向かって両うでを広げた。
きのうと同じじゃない。
ぼくもそう思う。
学校の桜は、来週きっと一せいに花を開く。
そして、四月になる。
ぼくはいつのまにか、自分の中のなにかが、少し変わったような気がする。
春のある日、かたいからを破ってサナギが羽化するように、ぼくたちにもそんな日
があるのかもしれない。
智子が赤い目をして、ぼくのひじをつっついた。
「ここがなくなってしまって、春休みどうするの?」
ぼくはちょっと考えてから言った。
「さか上がり、教えてもらおうかな」
「いいよ」
智子の笑顔が、なぜかとてもまぶしかった。
(完)