早春賦・
第七章
「雄介が休んでいるの、知ってる?」
月曜日の昼休み、いつものように智子が話しかけてきた。
うん、とぼくはうなずいた。
今朝、博史が教えてくれた。野島くんが熱を出して学校を休むなんていままでなか
った、と博史は意外そうな顔をしていたが、ぼくには全部わかっていた。
「うちのお父さんが往診に行ったけど、熱がとても高いんだって」
「かぜなんでしょう?」
このあたりの子供たちは、熱を出したときはたいてい智子のうちの病院にかかる。
「もしも、今日の夕方になっても熱が下がらないようなら、肺炎かもしれないから入
院した方がいいって言っていた」
あの寒い土曜日の午後、雄介は空き地のどろ水の中につきたおされていたんだ。
「雄介、夕方びしょぬれになって帰ってきたの。でも、お母さんがいくら聞いても、
ころんだとしか言わないんだって」
おかっぱ頭の前がみごしにじっと見つめられると、ほんとうのことを言ってしまい
そうだ。
「あいつ、案外あわてものなんだな」
ぼくはそっと目をそらせた。
「なにも知らないの?」
ぼくの表情になにかうつったのだろうか。
このごろぼくは、智子に心を読まれているのではないかと思うことがある。
「ぼくは、渋谷のバイオリン教室に行ってたから」
「そうよね」
智子はいすから立ち上がって、ぼくのセーターのひじを引っぱった。
「ちょっと、いっしょに来て」
ぼくはなにごとかと思いながら、智子のあとについて教室を出た。
廊下の一番おくの水道のそばに、千春の背中が見えた。その向こうに、フンチたち
三人がおしこめられている。
少しはなれて博史が立ち、ぼくの顔を見ると心配そうに首をふった。
「あなたたち、いつも雄介といっしょだったじゃないの」
「おれたち、ほんとうになにも知らないんだよ」
フンチがうんざりした声を出す。
「ひきょうよっ。自分たちは楽しいことだけやって、あぶないことはみんな雄介にお
しつけて」
どうしたのか、千春は冷静さを失っていた。熱にうかされたように顔をほてらせ、
目を赤くして三人を責めている。
「おれたちに、どうしろって言うんだよ」
ふだん無口な源太郎が、どなった。
だれもが、なにがあったのかわかっているのに、それを確かめることができないま
まいらだっている。
知っているのは、ぼくなんだ。そうさけびそうになる。
「やっぱり、彰くんも知らないって」
智子がうしろから声をかけた。
「みんなずるいっ」
千春は、ぼくと智子のわきをすりぬけ、廊下をかけていく。そのあとを、智子が追
った。
「どうしたんだ、あいつ」
ぼくたちは千春と智子のうしろ姿を見つめていた。
◇ ◇ ◇
午後の授業がとても長く感じた。
最後の礼が終わると、ぼくはすぐにとなりの教室に行き、四人に図書室に来てほし
いと声をかけた。
「ちょっと、思い出したことがあるんだ」
みんなが図書室のすみの机を囲むのを待って、ぼくは話した。
「となりのうちのおばさんが、土曜日の夕方、坂の空き地で中学生たちがけんかをし
ているのを見たって言っていた」
このように言うしかなかった。
「相手はたった一人なのに、四人がかりでどろ水の中でなぐったりけったりしていた
って」
だれもが胸の中に重いものをおしこまれたように、だまりこんだ。
ぼくは、こんな話をすることで、みんなでなにかしようと思っていたわけではない。
話さずにはいられなかっただけだ。
少しして、フンチがため息をついた。
「やっぱり、そうなのか」
「ひとりで行ったって、勝てるはずないのに……」
クンチが机の上の手をにぎりしめた。
「千春が言うように、おれたち、雄介に全部おしつけようとしてたんだ」
源太郎が言うと、みんなまただまった。
だれが言い出したわけでもなかった。
このままではおかない。あいつらを雄介がやられたみたいにしてやる。
みんなが同じ気持ちになっていた。
いいか、こういうことは退却のときが一番大事なんだ。
だらだら坂におじさんの家がある源太郎が、ノートに空き地のまわりの精密な地図
を書いた。源太郎は、かき根の破れ目やへいのすき間をなんでも知っていた。それを
使えば、よその家の庭をぬけてにげることができる。
ぼくたちはいつのまにか、敵の秘密基地に乗りこむスパイにでもなったような気分
になっていた。
相手も四人だ。ぼくたちはばらばらになってにげる。不意をうたれたあいつらはす
ぐには動けない。にげきる時間は十分にある。
つかまったらどうなるかな。
殺されるぞ。
ぼくたちはもう一度自分のにげ道を確認した。うっかり入りこんではいけない行き
止まりの路地も、しっかり覚えた。
集合場所はぼくの教室に決まった。
「ぼくには、できない」
それまでだまっていた博史がさびしそうに言うのを聞いて、ぼくたちははっとした。
博史をひとり取り残してしまうことになる。博史がどれほどみんなといっしょに行
きたいと思っているのか、わかっていた。
「ぼくは教室で、みんなのランドセルを見張って待っているよ」
博史はぼくたちのとまどいを察したように、にこっと笑った。
「たのんだからな」
源太郎が博史のかたをたたいた。
五年四組と五組のそうじ道具入れから、バケツを四つ持ち出した。
ダッグアウトにすわりこんで、たばこを吸いながらつぎの万引の相談をしているあ
いつらの頭上に、囲いの上からどろ水をぶちまける。それがぼくたちの復讐だ。
正義のたかぶりがぼくたちをよわせていた。
源太郎が一番くさいドブを知っていた。
よどみの中にくさった残飯や野菜くずがうき、底のどろからあわが上がっている。
ぼくたちは鼻をつまみながら、バケツいっぱいに緑がかった黒い液体をくみあげた。
片手に重そうなバケツをぶら下げて行進する小学生の姿は、きっと奇妙に見えたこ
とだろう。だらだら坂を上るにつれて、ぼくたちは次第に口数が少なくなった。空き
地の前に着いたときには、緊張のために息をするのもつらくなっていた。
ダッグアウトの中から、たばこのけむりが上がっている。
やっぱり、あいつらはみんなあの中だ。
ぼくたちは血走った目でうなずきあった。
静かに敵のとりでに近寄る。足の下でかれ草がぎしぎしと鳴った。自分がほんとう
にこんなことをやるんだろうか、と思った。ふいに、はき気をもよおすような恐怖が
わき上がった。
そのとき、最初の手ちがいが起こった。
囲いが考えていたよりも高くて、背のびをしてもバケツがとどかないことがわかっ
た。ふみ台になるものをさがさなくてはならない。ぼくたちはうき足だち始めた。
ペンキの空かんや木箱を集め終わったときには、かなりの時間を費やしていた。
いまにもあいつらが出てくるかもしれない。
恐怖が頂点に達したとき、決定的な手ちがいが起こった。
みんなが同時にバケツの中身をぶちまけて、一せいににげることが絶対に必要なこ
とだった。しかし、最初にふみ台に上がってバケツをさし上げたクンチが、恐怖にた
えられず、ほかのものを待たずに囲いの中にバケツを投げこんで走り出してしまった。
一呼吸の間のあと、異様なさけび声が囲いの内側から上がった。
バケツを持ち上げようとしていたフンチと源太郎は、それを放り出してわれ先にに
げ出した。ふたりとも自分のバケツの中身をたっぷりズボンに浴びていた。
一番おくれたのはぼくだった。
囲いの中からはい出してきたA中の黒い制服を見て、ぼくはやっと自分の危機に気
づいた。
バケツを投げ出して空き地を飛び出した。
ぼくはだれよりも足がおそいのだ。自分では全力で走っているつもりなのに、まる
でゆめの中で怪物からにげようとしているときのように、あせればあせるほど足は前
に進まない。
いまにも首すじをわしづかみにされそうな気がしたが、うしろを見る勇気などなか
った。
そして、ぼくは致命的な失敗をした。
あれほど注意されていた行き止まりの路地に、ぼくは走りこんでしまった。
黒々と立ちはだかる高い板べいを見て、のどから心臓が飛び出しそうになる。真っ
青になって引き返そうとしたときは、すでにおそかった。
頭からにおい立つドブのどろをしたたらせた中学生のひとりが、路地の出口に仁王
立ちになっている。その手には太い丸太がにぎられていた。
つかまったらどうなるかな。
殺されるぞ。
あのとき話したことが、こんなに簡単にほんとうになるなんて。
ぼくはもう一歩も動けなかった。うしろ向きになってその場にしゃがみこみ、両手
で頭をおさえた。
かみをつかまれてあお向けに引きたおされた。のどのおくからあふれる悲鳴は、と
ても自分の声とは思えなかった。
丸めた背中に衝撃があった。ぼくは息をつまらせて、体をよじった。
人ってこうやって死んでいくんだな、と思った。
さらに二度、衝撃があった。
このとき、ぼくは自分の体がここにあることを強烈に意識し始めた。
いつもあたりまえのこととして、考えることも感じることも忘れていた、心臓の鼓
動のひびきや、肺に入ってくる空気の重さや、筋肉のふるえを、はっきりと自覚した。
同時に、ぼくの背中をけりつける中学生の動きが、つぶった目のおくにあざやかに
うつった。
四度目にけられたとき、ぼくは目を開いて体を回し、ちょうど左右がそろった相手
の足首をひとかかえにだき取った。両足を一気にたぐりながら体重をあずけると、相
手はこしから落ちてあお向けになった。
目が合った。ねずみにかみつかれたねこは、こんな顔をするのだろうか。
ぼくはふたたび立ち上がってかけ出した。
路地の出口から飛び出そうとしたとき、逆に路地へ走りこもうとしただれかとぶつ
かって、もつれるようにたおれこんだ。
「彰くん!」
智子だった。
すぐあとから、千春を先頭に五年五組の女子たち五、六人がかけつけて、ぼくに手
をのばしかけた中学生を取り囲んでわめき立てた。さわぎを聞きつけたほかの通行人
たちも集まってきて、黒い学生服はついにぼくの視界から消えた。
先に立ち上がった智子に引き起こされた。
「だいじょうぶ?」
ぼくの頭や服のどろをはらいながら、智子が顔をのぞきこむ。
くつでけられた背中がつっぱったように痛むけど、たいしたことはない。
「……うん、ありがとう……」
そのときのぼくのようすは、視線が宙をさまよい、ゆめからさめたばかりのようだ
ったという。
いま、ぼくの体はここにある。
その感覚は、めまいのようにぼくの内側をゆさぶり続け、女子たちに囲まれるよう
にして教室に着いたときにも消えることはなかった。
すでにほかの全員が無事にもどっていた。
「よかった、みんなで心配していたんだ」
かけ寄ってきた博史の笑顔を見ると、ぼくは声も出せずにそばのいすにへたりこん
だ。
千春や智子たちに救援隊を作らせたのは、博史だった。博史は、ぼくたちが出てい
ったあとすぐに五組の女子をさがした。
千春と智子は学校の前の文房具屋にいた。ふたりは空き地に向かってかけた。途中
で見つけたほかの女子たちとともに到着したとき、ぼくたちが青い顔で空き地から走
り出してくるところだったそうだ。
そんな話を聞いているとき、先生たちが教室に飛びこんできた。
「おまえたち、こんなところでなにをしているんだ」
こうして、中学生襲撃事件のグループ全員がひとまとめにつかまった。
(続く)