早春賦・
第六章
女子たちのドッジボール熱はいまだに冷める気配がない。
放課後、ぼくは鉄棒の柱にもたれて、そうじ当番の博史を待ちながら、千春や智子
たちがボールを投げ合っているのをぼんやりながめていた。
始まりは、二月の初めの、あの千春と雄介の一騎うちだったんだ。勝った千春たち
はこうして校庭を手に入れ、負けた雄介たちはだらだら坂の空き地を見つけ、そして
失った。
そんなことを考えていた。
帰りじたくをすませた雄介が、いつもの三人組といっしょに校舎から出てきた。
このごろ、雄介たちはなんだかしぼんだように元気がない。ひととき、ぼくとかれ
らとのあいだにできかけたつながりも、空き地という共通の場所がなくなってからは
次第にうすれてきていた。
雄介はちらりとぼくを見ただけで、なにも言わずに前を通り過ぎていく。
だれかが受けそこなったボールが、小さくはずみながら雄介の足先に当たった。
「雄介、こっちよ」
「こっちに投げて」
ボールを拾い上げた雄介に、女子たちのうかれた声が飛ぶ。
「また勝負してみる?」
女子たちが笑う。
雄介は表情を動かさず、ボールを持ったうでをゆっくりと上げた。
「野球はどうしたのよ」
千春のよく通る声に、雄介の手が止まった。
「空き地をとられたんだってね」
雄介はきつく口を結んだまま、笑顔の千春をにらみつけている。
「中学生がこわくてにげてきたんでしょう」
なぜ、わざと雄介をおこらせるようなことを言うんだろう。
「ちくしょう」
低いつぶやきが聞こえた。
雄介はうつむいて一度ボールを地面につくと、まっすぐ女子たちに向かってつっこ
んでいく。
千春の反対側の陣地にかけこんだ雄介がなにをしようとしているのか、みんなが知
っていた。千春が自分の陣地のまん中に立ちはだかって、突進してくる雄介を待ちう
けると、ほかの女子たちは全員わきに下がって道をあけた。
この前の試合で、雄介のボールを何度も受け止めていた。雄介の目を見すえる千春
の表情には余裕がある。
雄介が全身のばねをきかせて放ったボールは、矢のように千春をおそった。
千春は体の正面で止めた。
女子たちのあいだから歓声が上がりかけたとき、千春がひざをつき、ボールがこぼ
れ落ちた。
雄介が、勝ちほこったように力こぶを作ってみせる。雄介のこんな笑顔は久しぶり
だ。
さすがの千春も、今日はまともに受けすぎた。千春にうち負かされたときの雄介の
ように、くやしそうにくちびるをかみながら、スカートのほこりをはらって立ち上が
るのかと思っていた。
でも、千春は動かない。片手を地面につき、片手でおなかをおさえたまましゃがみ
こんでいる。
「どうしたのかな」
いつのまにかぼくの横に来ていた博史がつぶやいた。
「うん」
地面を見つめてつらそうな息を続ける千春に、ぼくも心配になってきた。
最初に智子がかけ寄った。続いてほかの女子たちも、口を開けたままつっ立ってい
る雄介をおしのけて千春のまわりに集まった。
智子が千春のかたをだいた。
「だいじょうぶ?」
千春はかたい表情のまま、あいまいにうなずいてる。
フンチもクンチも遠まきになって顔を見合わせるだけで、なにをしたらいいのかわ
からない。
「保健室に行こう」
千春は智子に支えられて立ち上がったが、すこし顔色が悪い。
「おい」
雄介がたまらなくなったように近寄ろうとする。
「男子は来ないで」
智子がきつい声でさえぎった。
ぼくたちは取り残されたように校庭に立っていた。
「この前は、ぜんぜん平気だったのに」
「あたりどころが悪かったのかな」
フンチと源太郎が小声で話し合っている。
「給食くいすぎて、腹をこわしたのかもしれないぜ」
クンチがおどけたが、だれも笑わなかった。
二十分ほどして、智子たちにつきそわれて千春がもどってきた。
「だいじょうぶかよ」
ぼくたちの前を通り過ぎる千春に、雄介がためらいがちに声をかけた。
千春は前を見たまま小さくうなずく。
「心配ないから」
智子がかわりに答えた。
ぼくたちはだまって、千春たちを見送った。
◇ ◇ ◇
よく日の土曜日の朝、いつものように登校してきた千春を見て、ぼくはほっとした。
それでもどこか元気がないようだし、顔色もあまりよくない。
最初の休み時間に、雄介がめずらしくぼくの教室に入ってきた。雄介はまっすぐに
千春の前に進んだ。
「よお」
自分の席でうつむいて教科書をめくっている千春に、ぶっきらぼうな声をかける。
千春は、思いがけない訪問者を見上げた。
「わるかったな」
「だいじょうぶ。なんでもないから」
千春は小さく首をふって、ちょっと照れたような表情をうかべたが、すぐに下を向
いた。
雄介は、そうか、と言っただけで教室を出ていった。
「小泉さん。ちょっと」
ぼくは智子に手まねきをした。
廊下で、フンチたちが待っている。今朝、休み時間に智子を呼んでくるようにたの
まれていた。
「あいつ、どうしたんだよ」
「けがしたのか?」
フンチと源太郎が小声で聞いた。
「なんでもないのよ」
智子は手をふってもどろうとする。
「保健室の先生は、なんて言ってたんだ」
「そんなこと、知らなくていいの」
みょうにませた顔をして、カーディガンのそでをつかんだクンチをたしなめるよう
な言い方をする。
「なんでだよ」
子供あつかいされた気がしたらしい。クンチがふくれ面でくいさがる。
「そのうちあなたたちにも、わかるわよ」
智子は気になる笑顔を作って、教室の中に消えた。
ぼくたちはおたがいの目をちらっと見合ってから、そっと四組の教室の中をのぞい
た。
自分の席で、窓の外を見つめたまま動かない雄介がいた。
◇ ◇ ◇
その日の午後も、ぼくはバイオリン教室に行ったが、課題のソナタは一ページも進
まなかった。
このままでは、七月の発表会にはとても間に合わない、と言われた。
以前なら先生は、赤鉛筆で楽譜が真っ赤になるまで細かくチェックをした。いまは
自分でもいやになるほど練習不足のぼくの演奏を、じっとたえるように聞いたあと、
もう一度やってきなさいと言うだけだ。
先生はもう、ぼくになにも期待していないだろう。
五年生になってバイオリンを続けている男子なんてほとんどいない。発表会も高学
年は女子ばかりで、たまに出てくる男子は、そのまま音楽学校に進んで専門家になる
ような天才たちだ。このままぼくが練習を続けたって意味がない。
でも、これをやめて、いまほかにぼくにやることがあるだろうか。
だらだら坂を上っていった。
空き地のそばに近づいたとき、あの中学生たちが中から出てくるところだった。
四人とも黒ズボンのすそをどろでよごし、息をあらげている。けんかをしていたら
しい。
「あのガキ、なまを言いやがって」
「あれで、少しはこりたろう」
けんかに勝って上きげんなのか、あたりをはばからない大声で笑う。
そんなことにまきこまれるのはまっぴらだ。
ぼくは近くの路地を折れて四人をやり過ごしてから、小走りに空き地の前を通りぬ
けようとした。
空き地のおくに雄介を見つけた。
ゆうべかなり強い雨が降った。その水たまりのどろの中に雄介はすわりこんでいた。
頭も服もどろまみれだった。
雄介はきっと、話をつけにきたんだ。
空き地を返せと言ったのだろうか。交代で空き地を使おうと言ったのかもしれない。
どちらにしても、そんな提案を受け入れる相手だとは、雄介は考えてはいなかった
はずだ。
それでも雄介はここに来た。
雄介が泣いているのは道路からでもわかった。ぼくは見てはいけないものを見てい
るような気がした。
こんなところを見られていたと知ったら、雄介ははじるだろうか。ぼくは迷った。
そのまま、ぼくは空き地の外で待った。
しばらくして雄介が出てきた。まぶたが赤くはれている。
雄介はぼくに気づかずに坂を下りかけた。
「野島くん」
ぼくはびしょぬれの背中に呼びかけていた。
雄介は立ち止まってふり向いた。
「だれにも言うな」
どろでよごれた顔に、精いっぱいの威厳を見せて言った。
ぼくはだまってうなずき、雄介のうしろ姿を見送った。
その夜、ぼくはなかなかねむれなかった。
雄介はなぜ、ひとりであそこに行ったのだろうか。
ぼくやフンチたちがそうしむけたのだろうか。自分ではなにもする勇気がないのに。
もし五分早く空き地の前を通りかかっていたら、けんかの最中だったはずだ。
そのとき、ぼくは雄介を助けに入っていっただろうか。
どろの中にひとりですわりこんだ雄介の姿が、いつまでも頭からはなれなかった。
(続く)