早春賦・
第五章
「ねえ、このごろ、なぜ毎日あわてて帰っていくの?」
「べつに、なんでもないよ」
「ふーん」
給食時間はいつも、智子がうしろから背中をつっついて話しかけるので、ぼくはそ
のたびに食べるのを止めて返事をしなくてはならない。
「千春に聞いたんだけど、だらだら坂の途中に空き地ができて、雄介たちが野球をや
っているんだって」
ぼくは、博史に負けてはいけないと思ったのだろうか。
それとも、博史を雄介に取られたくなかったのだろうか。
ぼくは前を向いたまま、ちょっと首をかしげてみせた。
「帰り道の途中でしょう。見たことある?」
あんなかっこうの悪いところを見せて、試合をめちゃくちゃにしておいて、また入
れてほしいなんて言って、ずうずうしいやつだと思われているんだろうな。
また、ちょっと首をかしげた。
「彰くんは、野球、好き?」
あんなもの、面白いわけがないじゃないか。
こんどははっきり首をふった。
「じゃあ、あんな雄介たちと野球をやったりしないわよね」
ぼくはコッペパンをのどにつまらせそうになった。
◇ ◇ ◇
さっきはいい当たりをした。ボールは外野の源太郎に取られたけど、自分では満足
していた。
野球が好きになったわけではないが、これで続けて三日もやっている。
守備だってずいぶん進歩したと思う。まっすぐ飛んでくるフライくらいはちゃんと
取れるようになったし、ボールを投げ返すところもまちがえなくなった。
夕方、ひとりでアパートのへいにボールをぶつけて、ゴロやフライを取る練習をし
た。よくわからなかったルールを父に聞いたりもした。ぼくとしてはずいぶん努力を
したつもりだ。
きのうぼくは、ホームベースのうしろの方に風よけの囲いを作った。
空き地のすみに捨てられていた古い板を、コの字にならべて立てた。丸太を斜めに
あてがって補強し、中には空き箱の上に長い板をわたしただけのベンチも置いた。
五、六人はゆっくりすわれる広さがある。囲いは大人の背たけくらいあるし、南向
きなので風の日でも暖かい。博史が休むために作ったものだけど、ほかのものたちも
ダッグアウトみたいだと喜んで、交代で使うようになっている。
ほんとうは野球よりも、こういうことの方が好きだし、得意だ。
全員がベニヤ板のホームベースのまわりに集まって、二回戦の組わけのじゃんけん
をしようとしたときだった。
「A中のやつらだ」
フンチの不安げなささやき声に、ぼくたちはそろって息をひそめた。
黒いつめえりのボタンをはずし、はでな色のチョッキをのぞかせた中学生の四人連
れが、かかとのつぶれたズックをひきずりながら、道路から空き地に入ってくる。
『A中』という言葉は、ぼくたちにとって特別なひびきがあった。
うちの学校と一キロほどしかはなれていない区立A中学では、生徒が学校で暴れて
ものをこわしたり、ほかの中学生たちとあらっぽいけんかをしたりするのは日常のこ
とだった。
駅前のマーケットで万引きをしてつかまるのもA中の生徒たちだ。うちの生徒の中
には、かれらに取り囲まれてわずかなおこづかいをおどしとられたものが何人もいる。
そんなかれらが片手をポケットにつっこみ、ガムをくちゃくちゃかみながら、まっ
すぐぼくたちの方に近づいてくる。
ぼくたちはみんな体をこわばらせて立っていた。
「おまえら、いつからここで遊んでいるんだ」
背の高いニキビ面が、声変わりのしわがれた声を出した。
「先週から」
指で額をつかれたクンチが、かたい声で答える。
「ちょっと、貸してみな」
別のふたりが雄介と源太郎のグローブを取り上げて、キャッチボールを始めた。
バットを持ったもう一人が、ホームベースの前に立った。
「おまえら、外野の方に行ってろ」
ぼくたちは顔を見合わせながらも、かれらの命令に従うしかなかった。
ボールが飛んでくると拾いに走り、ピッチャーの中学生に投げ返した。動作がのろ
いとばかにされ、返球が悪いとどなられた。財産のグローブやバットを取られている
ので、途中でにげることもできない。
ぼくたちはただ、がまんを続けていた。
三十分以上もそんなことをやらされたあと、かれらがやっと野球用具を放り出し、
ぼくが作ったベンチにすわってたばこを吸い始めたとき、ぼくたちはグローブやバッ
トをつかんで空き地からにげ出した。
みんな、とぼとぼと坂をおりた。
「あした、来ればいいさ」
雄介がくやしそうにうしろをふり返った。
しかし、ぼくたちの期待と予想に反して、次の日、空き地には中学生の方が先に来
ていた。
ぼくたちは情けない顔を見合わせ、がっくりとかたを落とした。
かれらは、パチンコの射撃をやっていた。空き地のまん中にならべた空かんや板切
れをねらって、強力なゴムでなまりの玉を飛ばす。的がはじけるたびに、口のはしに
たばこをくわえて笑っている。
「もうじき帰るんだろう?」
じりじりしながら空き地の外で待っているぼくたちの前で、こんどは空きびんを標
的にしはじめた。
くだけたビールびんや牛乳びんが飛び散る。雄介たちが何日もかけて、小石を拾い、
草の根をぬいてきれいにしてきたグラウンドだ。
「あいつら」
雄介と源太郎が飛び出す。フンチとクンチもあとに続いた。
「やめろよ」
雄介がパチンコをかまえてならんだ中学生たちにつめ寄ったとき、うしろのフンチ
がしっぽをふまれた子犬のような悲鳴をあげて転げまわった。
肉づきのいい太ももをおさえてべそをかくフンチを見て、雄介がフンチをうった相
手に飛びかかろうとする。
源太郎とクンチが雄介を止めた。三人ともすでに体のあちこちになまり玉を受けて
いた。
雄介たちが道路までにげ帰って来ると、ほかのものたちも恐怖にかられて、先を争
うようにだらだら坂をかけおりた。
もともと、やりたくてやっていた野球じゃないんだ。
雄介たちのうでや足についた青黒いあざを見て、ぼくはすっかりおじ気づいていた。
次の日の放課後に、博史がぼくをさそいに来たとき、ほんとうはにげ出したかった。
そう思っていたのはぼくだけではなかったらしい。空き地まで行ったのは雄介の仲
間たち四人と、博史とぼくだけだった。
その日もA中のやつらは先に来ていた。
ぼくが作ったダッグアウトが気に入ってしまったのか、道路からは見えない囲いの
中から、たばこのけむりが上がり、笑い声が聞こえる。
「このままじゃ、あいつらにとられちゃうよ」
クンチが泣きそうな声を出す。
「なんとか、ならないかなあ」
見上げるほど大きくて、口のまわりにうっすらとひげまで生やしたあいつらをやっ
つける方法なんてない。
「毎日じゃなくたっていいんだよな」
「交代で使うように言うのは?」
みんなが雄介の方を見た。
「むだだ」
雄介のどなり声に、ぼくたちは下を向いた。
◇ ◇ ◇
「元気ないじゃないの」
先に給食を食べ終わった智子が、ぼくの頭をなでながら顔をのぞきこんできた。
「そんなこと、ないよ」
軽く頭をふって、智子の手をどけた。
「野球、まだやってるの?」
「やめた」
「どうして、やめたの?」
ぼくはパンの残りを口におしこんでから、食器を持って席を立ち、教室の前に置い
てあるかごに入れた。
「わたしね、ほんとのこと言うと、彰くんが野球をやる気になってよかったなって思
っていたのよ。たとえ、あの問題児たちといっしょでもね」
自分の席にもどって窓の外をながめた。
「なぜやめたの?」
好きで始めたわけじゃない。いまだって野球が面白いとは思っていない。
あの空き地はもともとなかったものだし、雄介たちと遊びたいと考えたこともなか
った。
博史とは、これからまた、やりかけのゴム飛行機を作り始めるだろう。
ぼくにはなにも失ったものはないはずだ。
それなのに、ぼくはいらだっていた。
「ねえ」
「なぜだって、いいだろう」
思わず大きくなった自分の声にうろたえて顔を上げると、智子がくちびるをかんで
ぼくをにらんでいる。
「ごめん」
「このごろ、へんよ」
「空き地、使えなくなったんだ。中学生たちが入ってきて」
パチンコで追いはらわれたことを話した。もう一週間、空き地に入っていない。
「だから、雄介たちがしょぼくれた顔をしているのね。千春が気にしていたの」
あのかたきどうしでも気になるものなのか、と思った。
「放課後にドッジボールをするから、いっしょにやろうよ」
「あれは、女の遊びだ」
「こら、なまいき言うな」
ぼくの頭をこづく。
「さっきのサナギは……」
ぼくは机の中からゆっくりと図鑑を引っぱり出す。
「大きらいっ」
智子はそむけた顔をゆがめて、教室を飛び出した。
(続く)