早春賦・
第四章
もう三月になったというのに、去年のくれからやっているソナタはまだ一楽章も終
わらない。
ぼくが生まれたばかりのころ、両親はどんなゆめを見ていたのだろう。
共同便所しかない池袋のぼろアパートで六畳一間の生活をしながら、ふたりは大切
な貯金をはたいて、安月給のサラリーマンにはぜいたくすぎる電蓄を買った。そして、
最初に手に入れたレコードのバイオリンの音色に感動すると、まだ三つにもならない
息子にその楽器を習わせようと思いついた。
チョコレートのひとかけらにつられて、まともに日本語も話せない幼いぼくは、自
分がなにをやらされているのかもわからないまま、バイオリンの弓を動かしていた。
「あれは教育というより、調教だったね」
と、いま両親は笑いあう。
あのころふたりは、本気でぼくが音楽家になることをゆめ見ていたのかもしれない。
一年生になるとき、代々木に引っこしてきた。
いまもアパート住まいだから、練習は夕食前にしかできない。五年生になって下校
の時間がおそくなる日も多くなったし、宿題をやる時間だって必要だ。両親も、ぼく
が学校の勉強をちゃんとやっている方が安心するはずだ。
いまはもう、両親はぼくにバイオリンの練習をしろとは言わなくなっている。
ぼくがバイオリンをやめない理由は、いまさらやめると言い出しにくいから。それ
だけだ。
◇ ◇ ◇
土曜日の午後、バイオリン教室の帰り道のぼくは、片手にケースを下げて、まだ明
るいだらだら坂をのぼっていた。
ぼくと博史が見つけたあの空き地には、次の日にはもう、雄介たちがバットとベニ
ヤ板のホームベースを持って乗りこんできた。それからかれらは毎日のように野球を
やっている。
最初はいつもの四組の四人だけだったが、ほかの組の生徒も加わってだんだん人数
が増えてきた。みんな雄介と同じ商店街の子供たちだ。
ひとに冷やかされるのは腹が立つけれど、このごろは自分でもバイオリンを持って
外を歩くのが少し気はずかしくなっていた。こんなものをぶら下げているところを見
られたら、またばかにされるに決まっている。
空き地が近づくと、ぼくはケースを体の反対側にかくして足を速めた。
「永瀬くん」
やっぱり見つかった。
舌打ちをしながらふり返ったぼくは、片手にグローブをはめてにこにこしている博
史を見て目をみはった。
「どうしたの?」
「今日、母さんに買ってもらった」
真新しいグローブをひらひらふって見せる。
「だいじょうぶなの?」
「今日の検査でだいぶよくなってきたから、少しなら運動していいって言われたんだ」
それはとてもうれしいことだけど、ぼくはとまどっていた。
運動してもいいといったって、すぐに野球なんかができるのだろうか。それも雄介
たちといっしょにやるなんて。
雄介が博史の病気のことをよく知っているとは思えないし、そもそも、お行儀のい
い遊び方ができる連中ではないはずだ。
「だいじょうぶなの?」
ぼくはまた同じことを聞いた。
「ぼくはキャッチボールだけ、やらしてもらっているから」
「やめるのか?」
守備からもどってきた雄介が、博史に声をかけた。
「やるよ」
博史は元気に答えて、キャッチャーのうしろにかけもどる。
雄介が三塁側のファールグラウンドから投げたボールは、博史のグローブの中でこ
こちよい音を立てた。
博史はほほを赤くしてボールを投げ返す。博史の興奮がぼくにも伝わってくる。
雄介の投げるボールは強すぎず、しかも博史が受けやすい場所に正確に届いていた。
受けそこなったボールを取りに走らせるために、別のひとりを博史のうしろに置いて
いる。自分が打つ番になったり、守備に立つときには、ほかのものに博史の相手をさ
せたが、そのあいだでも、博史のようすをたえず見守っているようだった。
雄介は、こんなこともできるのか。
ぼくはなにも言えずに、いきいきとキャッチボールを続ける博史を見ていた。
十五分ほどしたとき、雄介がボールを持ったまま博史のそばにきた。
「きょうはこのくらいにしとこう」
博史の手にボールを乗せた。
「あしたも来て、いい?」
「ああ」
雄介はバットを取ってバッターボックスに向かった。
博史はその背中に、ありがとう、と言ってから、
「あっ、いけない」
と、ぼくを見た。
「あしたは、きみと飛行機を作るんだったよね」
「いいんだよ。そんなことは、雨でもふって外で遊べないときにやればいいから」
ぼくはあわてて言ったが、さびしくないといえばうそになる。
「こんなグローブで、キャッチボールがしたかったんだ」
空き地からの帰り道、博史はグローブにぽんぽんとボールを打ちつけながら息をは
ずませた。
「あしたは、もっと遠くまで投げられるかな」
博史のうれしそうな言葉を聞きながら、ぼくは、あしたの日曜日、ひとりでなにを
しようかと考えていた。
◇ ◇ ◇
最後の机をならべ終え、いすをもとの位置にもどした。
いそがなくちゃ。
ぼくはランドセルをかたに引っかけて、教室の出口に向かってかけ出そうとした。
「彰くん、だめでしょっ」
ぼくの足がぴたりと止まった。
「月曜日は、男子がそうじ道具をかたづける番じゃないの」
千春と智子がならんで、両手をこしにあててぼくをにらんでいる。
ぼくはだまってそばの机の上にランドセルを置いて、ぞうきんの入ったバケツをぶ
ら下げた。
規則はわかっているけど、ひとには事情というものもあるんだ。でも、そんなこと
を聞き入れる相手ではない。
廊下のはしにある水道でぞうきんをゆすいでもどると、そうじ当番のほかの男子た
ちもしぶしぶという顔でほうきやモップを集めている。
「彰くんはちゃんとしているかと思っていたけど、やっぱり男子ってだめねえ」
千春のいじのわるい言い方に、まわりの女子たちがくすくす笑う。
ひとこと言ってやりたいが、何倍にもなって返ってくるにちがいない。雄介だって、
千春にはかなわないんだから。
ぼくは教室のすみの道具入れの戸を閉めると、ランドセルをつかんで、やっと教室
を飛び出した。
「なにをあわてているのよ」
背中で智子の声が聞こえたが、ぼくはふり返らなかった。
今日、ぼくのランドセルにはグローブが入っている。
去年の一月、三年近く治療を続けた病気がすっかりなおり、もう通院もいらないと
主治医に言われたとき、父はそれを喜んで息子のためにグローブを買った。ぼくは父
と数回キャッチボールをしたあとは、それをおし入れのおくにしまいこんだままにし
ていた。
きのうの日曜日、ぼくはひとりで飛行機の模型を作り始めたが、三十分もしないう
ちにやめてしまった。バイオリンの練習もやってみたけど、これはもっと長続きしな
かった。
そのあと、ぼくは一年ぶりでカビくさくなったグローブを引っぱり出して、ほこり
をはらった。
空き地では、もう雄介たちの野球が始まっていた。
ほかの組の生徒や下級生まで入って、人数はまた少し増え、十人ほどになっている。
博史がぼくを見つけて、うれしそうに手をふった。
攻守の交代のときを見はからって、ぼくは勇気をふりしぼって雄介の前に立った。
「ぼくも入れてほしいんだけど」
雄介は、左右の手にランドセルとグローブをぶら下げたぼくを、それほどおどろい
たようすもなく見まわした。
「やったことあるのか」
体育実習をやるようになってから一年がたって、ぼくのどうしようもない運動神経
のことは、となりの組にも知れわたっているはずだ。
正直に答えるしかない。
「ない」
きっと、だめだ、と言われると思っていた。
「外野をやってみな」
拍子ぬけするようなあっけなさで雄介が言い、一塁のうしろを指さした。
そのとき、野球のことをよく知らないぼくは気がついていなかったが、雄介たちの
ルールは本物とはずいぶんちがっていた。
両チームとも五人づつしかいないので、外野は一人だけで、ショートもいない。キ
ャッチャーは攻撃側のものがやるので、盗塁はできない。
ぼくが入れば六人対五人の不公平な試合になるわけだが、雄介の言うことにはだれ
も反対しなかった。
それに、新入りの参加でどちらのチームが得をしたのか、結果はすぐに明らかにな
った。
ぼくの守備は悲しかった。
頭上に上がったフライはひとつも取れなかった。ボールはグローブをさし上げるぼ
くの頭をこえてうしろに落ちた。こんどこそと少し下がって待っていると、前に落ち
たボールは大きくはずんで、やはりぼくの頭を飛びこえていった。
転がって来たボールをつかんでも、どこに投げていいのかわからない。いらだった
チームメートの声に、右往左往を続けるばかりだった。
バットを持っても奇跡は起こらなかった。ぶんぶんとふり回すだけで、あっという
まにぼくの出番は終わった。
ぼくは途中で何度も、雄介がぼくをチームから追い出してくれることをいのった。
しかし、雄介は試合の行き先など興味がないかのように、みじめなぼくのありさまを
無視し続けていた。
ぼくのチームは、かつてはたっぷりあったリードをまたたくまに使いはたし、大差
で負けた。
試合が終わったとき、ぼくは心の中で半べそをかいていた。顔には出すまいとして
いたが、だれもが知っていたはずだ。
みんなだまって帰りじたくを始めていた。
「初めてなんだから、しょうがないよ」
博史だけがぼくのそばにきて背中をたたいた。
ぼくは、もう二度と野球なんかするものかと思った。
(続く)