早春賦・
第三章
二月の最後の日曜日に、ぼくは博史をアパートの中庭に連れていった。
高台のはしに建つアパートの南側は、草深いがけになって、ずっと下にある材木屋
の材木置き場まで続いている。
ぼくは、中庭とがけをへだてる金あみの破れ目をくぐって、博史をさそった。
「だいじょうぶ?」
上から見おろす斜面は急で、最初は少しこわいかもしれない。
「うん」
博史は片手で金あみにつかまりながら、足もとを確かめている。
「ここをおりるんだ」
ぼくは斜面に刻みこまれた、細いジグザグの道を示した。子供たちが長年遊んでい
るうちに自然にできた登山道だ。
「草の株につかまるといいよ」
ぼくはうしろをふりかえりながら、できるだけゆっくりと進んだ。博史はぼくのす
ぐあとをついて来る。
「あれがぼくたちの学校だね」
博史が右の景色を指さした。
「うん。銭湯の煙突の向こうに見えるのが、A中」
「こうやってみると、ずいぶん近くにあるんだね」
「来年は、あの中学に行くことになるのか」
「うちの母さんは、私立の中学に入れたがっているんだ」
そうだろうな、と思った。
お父さんが大学の先生で、博史みたいに成績がよかったら、だれもあの中学には行
かせたくないだろう。
「ぼくはもう覚悟をきめているから、A中でいい」
「なんだか、刑務所にでも入れられるような言い方だね」
ぼくたちは笑いながら十分ほど歩いて、やっと斜面の半分を下りた。
そこには、たたみ二枚ほどの広さの平らな場所があって、山側に子供たちが『どう
くつ』と呼んでいる穴がほられている。二、三人がしゃがんで雨やどりできるくらい
の浅いほら穴だ。
「ここで休もう」
ぼくたちはどうくつの入り口にならんですわった。
「あったかいね」
斜面は南向きの上に、両側にやぶがあって風がさえぎられている。博史もぼくも、
セーターの下にうっすらとあせをかいていた。
「ここは、このあたりで一番早く、春が来るんだ」
ぼくはどうくつのわきの、すすきのかれ葉をどけた。その下にはもう、つくしが頭
をのぞかせている。
「ほんとうだ」
よもぎの葉をうら返すと、赤い宝石のつぶがたくさんうずくまっている。
「あっ、ナナホシテントウだね」
ぼくたちはだんだん早春の宝さがしに夢中になっていった。
立ち上がってかれた草むらをのぞきこんでいた博史が、かたくなったマシュマロの
ようなかたまりを見つけた。
「カマキリの卵。きっとハラビロカマキリの卵だよ」
「そんなことまでわかるの?」
ぼくは博史のかたごしに聞いた。
「ここのとこが特徴なんだ。本で見たことがあるから」
ぼくは、少しはなれたしげみから柿の小枝を折ってきた。
「これ、なんだかわかる?」
枝の先についた小さな丸いものを見せた。白と黒のまだらの、鳥の卵のような形だ
けれど、小指の先ほどの大きさしかない。
「イラガのまゆだ」
博史はすぐに答えた。
「図鑑で見たことがある」
そう言ったあと、博史は少しはずかしそうにぼくを見た。
「ぼくはなんでも本の中で先に知ってしまうんだ。ほんとうのことはなにも知らない
のに、全部知っている気になっている。へんだよね」
「へんじゃない」
ぼくは勢いよく頭をふった。
「ぼくだって同じだ」
最初に買ってもらった本が、昆虫図鑑だった。母は漢字の一つひとつにかなをふっ
た。ぼくはそれで文字を覚えた。
「小学校に入る前は、池袋にいたんだ。町の中だったから、草むらも小川もなかった
けど、毎日図鑑をかかえてかき根の中に首をつっこんだり、ごみ箱の横の小石をひっ
くり返したりしていた」
「ぼくもそうだった」
「ここに初めてきたとき、本の中で見た虫も、草や花も、ほんとうにあるんだ、ほん
とうにこんな形をして、こんな飛びかたをするんだ、って思った」
「うん」
博史はゆっくりうなずく。
「これまでこんな話をしても、みんな、つまらなそうな顔をしていた。そんな虫のど
こがめずらしいのか、って」
「ちがうんだよね。ほんとうにあるんだってわかることは、すごいことなんだから」
博史は、きらきらした目でぼくをみつめた。
◇ ◇ ◇
今日で二月が終わる。
昼休み、博史は新しい模型の雑誌を持ってぼくの教室に来た。
空気を入れかえるために、窓は開け放たれている。ぼくたちは窓ぎわのぼくの机の
上に雑誌を広げ、息を白くしながら、こんどの日曜日にふたりで作る模型のアイデア
をさがしていた。
ゴム動力で飛ばす大きな飛行機が、ぼくたちの目を引いた。
「これがいいね」
額を寄せあって設計図をながめるぼくたちの頭の上を、白いものが飛びこえていっ
たような気がした。
ひき続いて、床になにかをまき散らすような音と、女子たちの悲鳴がひびいた。
「きっと雄介だわ」
野球のボールをにぎりしめた千春が、窓にかけ寄った。
下の校庭で、バットを持った雄介が頭をかいている。そのまわりでグローブの手を
上げているのは、いつもの三人組だ。
「わるいな」
「わるいなじゃないわよ」
千春が窓から体を乗り出してさけぶ。
「学校にバットを持ってきちゃいけないって、言われているでしょ」
「ボール、ほうれよ」
雄介は少しも悪びれたようすがない。
「こういうかたいボールも、使っちゃいけないことになっているのよ」
「いいから、早く投げろよ」
「だめ」
「投げろ」
いらだってどなる雄介に舌を出してから、千春が音を立てて窓を閉めた。
「ひとさわぎ始まりそうだね」
博史がにやっと笑った。
すぐに、息を切らせた雄介が教室に飛びこんできた。
「かえせよ」
「見てごらんなさいよ。ボールが当たってみんな飛び散ってしまったんだから」
千春たち四、五人の女子は、ひとつの机に自分たちの筆箱を持ちよって、お気に入
りの消しゴムや鉛筆を見せあっていた。そこに雄介のボールが飛びこんで、かの女た
ちの宝物をはじきとばしたあと、先生の机のヒヤシンスの花びんまでひっくり返した。
女子たちはまだ、机の下でさがし物をしている。
雄介は、くだらないものを、とでも言いたそうな顔でそれをちらりと見ただけで千
春にせまった。
「かえせよ」
「いやよ」
千春は両手を背中にまわしてボールをかくした。
雄介が千春のうしろにまわりこんでボールを取り返そうとすると、千春は胸をそら
せるようにして雄介に向き合う。
こうやって見ると千春の背は、大がらな雄介とあまりちがわない。体が細いぶんだ
けかえって高く見えるほどだ。
雄介が横に手をのばそうとするたびに、千春はしなやかに動いて体をたてにする。
やわらかそうな長いかみが、雄介の顔にふれた。
雄介は一瞬とまどうような表情を見せたあと、ふいに千春の右うでをつかんでねじ
りあげた。
「痛いっ」
千春が小さな悲鳴を上げた。
雄介は千春の手からボールをむしりとると、ものも言わずに教室から出ていった。
「野蛮人っ!」
千春はつかまれたうでをさすりながら、雄介の背中をにらみつけた。
◇ ◇ ◇
「まるで天敵どうしだよね」
放課後の帰り道、博史が笑った。
「前から、あんなだったの?」
博史は、四年生まで雄介や千春と同じ組だった。
「野島くんは、いつもそうじ当番や給食当番をさぼるし、学級新聞の仕事だってやっ
たことがなかったから」
決められた規則を気にかけないことが、雄介の最大の特徴なのかもしれない。そし
てそのことは、千春がもっともきらうことだ。
「野島くんのうちの酒屋と、今宮さんのうちの洋服屋は、すぐそばでしょう。ちっち
ゃいときからいやなやつだった、って言っていた」
「今宮さんが?」
「両方とも」
ぼくはうれしくなって、手を打った。
「性格が正反対だよね。今宮さんは曲がったことが大きらいだし、野島くんはしたい
ことをする方だし」
「でも、気が強いのはどっちもよく似ている」
ふたりで笑った。
このごろ学校の行き帰りが楽しい。博史といっしょだと、長いだらだら坂もあっと
いうまだ。
「クラス対抗の野球をすることが、野島くんのゆめなんだ」
「へえ」
と、ぼくは博史の顔を見た。
「かたいボールを使う野球だよ」
生徒たちがふだん、校庭でやっているのは、やわらかいゴムボールをげんこつで打
つような野球だ。何年か前に、ふったバットが頭に当たってけが人が出てから、学校
にバットを持ってくることは禁止されている。
雄介はバットでかたいボールを打って、グローブでそれを受ける野球がしたいのだ
ろう。
ぼくにはどっちの野球も興味はないが、それにしても、博史が雄介のそんな考えを
知っていることは意外だった。
「ぼくは、野島くんがうらやましいと思うことがある。なんでも好きなことができて」
ぼくはなんと答えていいかわからなくて、言葉をさがした。
「体のことじゃないんだよ」
博史はにこっと笑った。
「どんなことでも、自分が思ったとおりのことをする。人の目なんか気にしないで」
「自分勝手ということじゃないのかな」
「それはそうだけどもね。ぼくは自分が野島くんのようになれたらいいな、と思うこ
ともあるんだ」
確かに、雄介の勝手でめちゃくちゃなふるまいは、ときどきぼくをゆかいな気分に
させてくれることもある。でも、いやな思いをしたこともある。めんこやビー玉をま
きあげられたことだって。
「あれっ」
博史が声を上げた。
坂の途中に、いつのまにか広い空き地ができていた。
ここは、いままで高いトタンべいに囲われて、古い材木やさびたドラムかんなどが
積み上げられていたところだ。今朝、通りかかったときは変わったことはなかったか
ら、昼間のうちにへいが取りはらわれ、中のものが運び出されたらしい。
ふたりで空き地のまん中に立ってみた。道路のない三方は、となりの家の生けがき
や板べいで仕切られている。すみの方にまだ少しドラムかんや材木が残されているが、
学校の体育館よりもずっと広い。
「こんなところで思いっきり走りまわってみたいな」
博史がぽつりと言った。
「こんどの土曜日、検査があるんだ」
博史は半年ごとに病院に行って、心臓の診察を受けていた。
「きっと、よくなっているよ」
ぼくは心からそう願った。
(続く)